見出し画像

村上春樹エッセイ「おいしい牡蠣フライの食べ方」

 村上春樹のエッセイの中で何が一番好きかと言われると、やはりこれになる。村上氏の様々な文章の中で一番好きだ。声に出して読みたい日本語みたいに、繰り返しその音韻を確かめておいしさを味わっている。

 書籍も複数の本で収録されているが、私の知っている範囲で一番古い登場は2001年出版のある哲学書の付録である。

 大庭健氏の『私という迷宮』という本の巻末に「牡蠣フライ理論」は載っている。
 私はその他の収録された本は手にしたことがないが、この本に収録されているものが一番好きなので、それで十分である。収録されている文脈的にもこの場所が一番似つかわしいと思う。

 なぜなら、おいしい牡蠣フライの食べ方とは、小説論ではないからだ。これは小説論にとどまらない、極めて密度の濃い哲学エッセイだ。私という迷宮、村上ラビリンスの秘密について説明している。

 一見平板で難易度の低い迷宮。ところが出口がすぐそこに見えてそうで、決して出口は示されない。村上春樹がこだわる強烈な美意識、美意識から出発しているにも関わらず、美意識とは見えないやっかいな迷宮だ。

 内容はこうである。

しばらく前にインターネットのメールで、次のような読者からの質問を受け取った。正確な文章は思い出せないので、大まかな筋を書く。

先日就職試験を受けたのですが、そこで『原稿用紙四枚以内で、自分自身について説明しなさい』という問題が出ました。僕はとても原稿用紙四枚で自分自身を説明することなんてできませんでした。そんなことできっこないですよね。もしそんな問題を出されたら、村上さんはどうしますか?プロの作家にはそういうこともできるのでしょうか?

それについての僕の答えばだいたいこういうものだ。

こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですよね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のように僕には思えます。ただ、自分自身については書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。

 もし、この就活生がまともにこれを受け取ると、自分はからかわれたと思うかもしれない。しかしそう捉えてしまってはもったいない話である。

 真意はこうである。

あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとの間の相関関係距離感が、自動的に表現されることになります。(強調はみこちゃん)

 これを読んだ瞬間私は『ダンス・ダンス・ダンス』の疾走する哀しさを思い浮かべた。もちろんモーツアルトの音楽と一緒にである。モーツアルトの音楽がそうであるように、『ダンス・ダンス・ダンス』の登場人物の涙に私たち読者は追いつけない。

 その「差し出した手があとひとつ追いつけない感」とも言うべき感覚は、この小説が相関関係のみで構築されており、一切の因果関係がていねいに排除されていることに起因するだろう。

 そしてこの手法によって、村上氏は自身が作り出す距離感を、フィッツジェラルドのそれともまた違ったものにすることに、成功しているように見える。

 フィッツジェラルドは、どこか因果関係的に事象を組み立てることを読者に許容する優しさがあるが、村上氏の優しさはやや異質だ。フィッツジェラルドは仲間同士肩を組んで涙を流す可能性の余地を読者に期待させる。しかし、村上氏の小説はそうは問屋がおろさない。

 フィッツジェラルドの距離感が、いわば正当的なバッハの平均律クラヴィーア曲集の演奏であれば、村上春樹の平均律はまるでグレン・グールドの弾くバッハようだ。

 あるいは、このようにグレン・グールドのバッハを重ねて読めば、これを小説論、創作論として解釈することも可能かもしれない。実際村上氏はこの引用の直前にこんな事を言っている。

良き物語を創るために小説家がなすべきことは、ひどく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説を丹念に積み重ねていくことである。(中略)
どれくらい有効に正しく仮説を選び取り、どれくらい自然に巧みにそれを積み上げていけるか、それがすなわち小説家の力量ということになる。

 フーガとは遁走曲の謂いであるが、正統的なバッハの弾き手のフーガは実は遁走していない。これは、人間関係の上質な距離感が美意識の極限にまで高められたフィッツジェラルドの小説にも同じである。どちらかといえば フィッツジェラルドは正統的なバッハの弾き手だ。遁走と言いながらも、そして実際に肩を組まないまでも、視線を合わせずにお互い共通の目標物をぼんやりと一緒に眺めることはできる。

 しかし五反田くんと僕(主人公)はそういうわけにいかない。グールドのフーガは旋律が旋律に追いつけないのだ。お互いが自分というものを知らない、そしてなにかてひどいトラウマがあったわけでもないのに、あるいはそんなトラウマなど関係のないレベルで、深いところで「自己」などというものになんら積極的な意味を感じていないからだ。

 自分というものに意味がない(自分は意味のない人生を送っているという意味ではない)と生まれたときから思っている人間同士に、いったいどうやって普通の意味での相互理解などあり得ようか。

 お互いどれだけ惹かれ合ったとしてでもである。五反田くんと僕は、お互いはお互いを理解し得ないという、相互無理解という名の相互理解という大人の解決など、おそらく世界でもっとも悪質な欺瞞であるという点で、静かに酒が飲める関係ではある。

 では、その逃げ出していく、遁走していく青い哀しさの核心はなにか。

 それについては、村上氏の言葉を引用しよう。

だからもしここに「自分とはなにか?」と長期間にわたって真剣に考え込む作家がいたとしたら、彼/彼女は本来的な作家ではない。

 作家とは決して自己表現の達人でもないし、そもそも自己表現などというものを目指すのは作家ではない。自分とは何かという仮説を、出口の見えそうで見えないラビリンスとして虚構化するのが小説家である。その小説家がどんな自己を持ち得るのか、あるいは自己を持ち得た瞬間作家失格の烙印を押されるのか、そこまでは村上氏ははっきりと書いてはいない。

 しかし、自己とは何かを説明するのに苦慮する就活生に、原稿用紙四枚にまとめる方法を教えてあげた時に、間違いなくその人は、作家であることをやめざるを得ないだろう。

 なぜなら小説を読むとは、自己を知ることではなく、たかだか、とてつもなく美味しい牡蠣フライを食べることだからだ。もしかすると一生を左右する就職試験も、一緒に牡蠣フライを定年まで食べていけるか、そんな仲間を探すことなのかもしれない。

 たかだかそんなものだが、人生の深淵はそんな "たかだか" にウインクできるかどうかだ。大抵の人は、あなたが誰にウインクされて、誰にウインクを返したか分からず、あなたのチャーミングなウインクを見て見ぬ振りをするであろう。

 あるいは、人生そのものの営みも…。

 あなたは誰かの五反田くんであり、その意味で僕なのだ。
 読者は村上春樹にとっての「僕」であり、村上春樹は「五反田くん」なのだろう。

 だから、村上春樹の小説の出口には、精一杯の彼の誠意として、揚げたての美味しい牡蠣フライが用意されている。村上春樹の自己主張や自己表現などはそこに、なにもない。

 ただ、美味しい牡蠣フライに手を付ける時、レモンを絞るか絞らないで、村上さんとぜひ喧嘩したい。楽しそうだ。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?