グッド・ラック

この文をお読みになる読者は、幸いにもまだ生きておられる。我々は幸運と奇跡に感謝しなくてはならない。
「陳腐なことを言うな!」
「もう聞き飽きましたて」
「このワキガやろう!」
そんな言葉が脳内に流れてくる。

不運に巻き込まれてあなたが空しくなる事象を、確率で表したなら極めて低い。
だが数十年分の賭けを積み重ねたら?実はキワドイ確率で死を避けてきたのが示されるだろう。
意識の有無にかかわらず、我々は生死を分かつ賭け事に勝ち続けてきたのだ。

実際、死と紙一重の体験をなさっている方もおられると思う。
五条祐介もその1人である。
もしあと一歩ズレていたら死んでいた、もしくは取り返しがつかなかったと思われる経験がある。
彼に認識できているのは2つ。気づいていないだけで、もっとあったかもしれない。

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当時、祐介は小学4年生。
最近は花池くんとよく遊んでいる。
学校が早く終わったある日。家にカバンを置くと、チャリで花池くん家に向かう。

道中に景色のよくない交差点がある。辻の右側は田んぼで拓けていて道路が見えるが、左側は住宅の陰になっていて見えない。
祐介はその交差点に差し掛かっている。渡る前には一時停止しなければならない。
左側の陰から大型トラックが走り抜けて行くのを祐介は見る。
ここで彼はおかしなことを思う。トラックの後には、もう車が来ないと直感する。なんとなく。そしてその己の直感に賭けたくなった。他の車が来る前に、急いで交差点を渡ってやると決意する。一時停止を無視して、全速力で突っ切ることにした。

田舎民は徒歩5分の場所へも車で行く。交通量は少なくないから当然危険だ。
無論、祐介は死を希んでなどいない。ならどうしてか。今となってはよく分からない。

往々にしてヒトは理性では動かず、感情に動かされるものだ。祐介はスリルを求めていたのかもしれない。彼は4.5歳からずっとゲーマーである。最近ハマっているカードゲームでは特に、運を味方にしなければならない。花池くんとデュエルする前に、己の運を試してみたかったのかも知れない。
それにしても、彼はずいぶんな賭けをしたものだ。無限のリスクを負うのに対してリターンがまるでない。賭けに当たれば無事、車に当たれば有事。当時流行っていたデュエマや遊戯王では、これほどのスリルは味わえない。

『トラックのあとに車はきっと来ない。次にあそこを渡るのは俺だ。誰かが通る前に渡ってやる』
ペダルの上で立ち上がって、思いっきり漕ぎだす。全速力で十字路に飛び出した。
目の前に何かが現れて、すっと消えた。
驚いて力一杯ブレーキをかける。
残像が遅れて脳に知覚される。
白い車。
左から右へ目の前を横切った。
右を見る。
少し先に軽トラが停まっていた。
徐々に状況が飲み込めてくる。
目の前のチャリを見る。
無事だ。
また右を見る。
軽トラからおじさんが降りようとしている。
こちらに向かってくる。
どうも怒られるような気がするな。
おじさんが叫びだした。
訛りと早口でわかりにくい。
「おめなんか死んでも別にさすけねんだ。んでもな、俺が警察に捕まんのが嫌(や)んだんだ」
自転車のカゴに結びつけてある身分証を荒々しく掴む。
「おめの名前覚えだがらな、学校さ言ってやっがら」
だんだん罪悪感が募ってくる。
何も言えない。
喉が重くて声が出せない。

おじさんはしばらく愚痴ったあと、軽トラに戻って去った。
祐介は呆然と立ち尽くして、こんなことを思う。
『どうやら俺はとんでもないことをしてしまったらしい。学校で教わった決まりを破ってしまった。軽トラがあと少し速かったら轢かれてた。怪我では済まなかったかもしれない。それにあのおじさんを犯罪者にするところだった。学校行ったらめちゃくちゃ怒られるだろう』
不安に苛まれ、罪悪感に襲われる。
怒られるのが嫌すぎて、バレないことを祈る。ずっと考えているのは辛い。どうなるかは分からないし、今はどうしようもないと気にしないことにした。
何事もなかったように花池くん家に行く。どうか学校にも親にもバレませんように、と気が散って全く楽しめなかった。
数日の間、犯した罪がバレないようにと気を張る犯罪者のように怯えていた。

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結局、おじさんが学校に連絡してたらしい。翌週学校主催の登山に参加したとき、教頭から親父に伝わる。隠してた分まで、こっぴどく叱られた。俺は恐ろしく危険なことをしたんだ、と深く理解した。
祐介は強烈な罪の意識に囚われることになる。以降無謀な賭けは一度もしてない。バカにつける薬もあるようだ。愚か者を正すには必要な経験だった。
ただ同時に、バカなことができなくなった。リスクや失敗を極度に恐れるようにもなる。何事にも慎重になり思慮深くなる。控えめで大人しい性格になっていく。

告げ口したおじさんを当時は憎んだが、今ではありがたく思える。
生きてさえいれば、過去の辛い経験を幸運な経験と捉え直すこともできる。
負の感情を刻み付けられたことが幸いしてか知らぬが、とにかく祐介は生きている。同じくあなたも。グッド・ラック。

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