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蒼色の月 #82 「穴」

我が家の壁には、5つの穴が空いていた。
夫婦の寝室に3つ、リビングに1つ廊下に1つ。穴はタペストリーやカレンダーで一応隠してはあるが。
しかし、あるべき位置でないところにカレンだーがあったりするから、余計に目立ち、かえって穴の存在を強調している。
その5つの穴は全て、夫が不倫を始めてから怒りにまかせてあけた穴。当時その怒りの原因がわからなかった私は、それをやられる度にひどく苦しんだ。
こつこつと貯金を貯め、ローンを払い、苦労して夫婦で建てた家族の家。そこで子供達は大きくなり、たくさん家族の思い出の詰まった家。私には大事な家だったが、不倫を始めた夫にとっては、私への苛立ちをぶつけるただの物でしかなかったようだ。

その時の私は幼稚にも、額に入れた写真やカレンダーで、夫の暴力の痕跡の穴をとりあえず隠したつもりでいた。隠しきれるはずもないのに。

ある日の夜だった。リビングに降りてきた悠真が私に言った。

「お母さん、そろそろ壁直さない?俺がこの家にうちにいるうちに」

10ヵ月もすれば、東京の大学へと旅立っていく長男。その頃の私には深く考える余裕がなかったが、今思えば一年以上それを毎日見続けた子供達の心はどれだけ傷付いていただろうか。
もちろん、父親がやったなどとは言わなくても、子供達にはわかっていた。壁に飾られらた、不自然な額が増える度に、ここもかと思っていたに違いない。

「そうだね…そうだよね。直そうね」

「そうだよ。全部直して心機一転だよ」

心機一転という言葉を、悠真がどんな気持ちで口にしたのか。おそらくそれは、夫のことを指していて、夫に関わることを、心機一転乗り越えよう、前に進もう、私にそう言っていたにちがいない。
自分がこの家を旅立つ前に、一新したこの家を見届けたいのだろう。長男として。

私は翌日、業者に連絡をした。その業者は、事務所もお世話になっている馴染みの業者。早速担当の菅原が家に来た。菅原と私は、15年前に我が家を建てた時からの付合い。

「奥さん、こりゃひどいね。やったのは所長だろ。こりゃあんまりだ」

いつも笑顔の菅原が、渋い顔でそう言った。

「なぜ所長がやったってわかったの?」

「そりゃあ噂になってるもの。所長が不倫しておかしくなったって。家族を置いて家を出たって。今じゃ顔つきまで別人だって。これ家出てく前に所長が暴れたんでしょ?」

「……」

この街には、夫の不祥事を知る人がどれだけの数いるのだろう。敢えて口には出さないけれど、私や子供たちの周りにもいるのだろうか。その街で、私や子供達は暮らしている。私や子供達にも、この街には知人や友人が沢山いる。
あそこの旦那が…あの子たちの父親が…などと陰で言われているのかもしれない。
恥ずかしい。
惨めだ。
穴があったら入りたい。

「菅原さん、これって修理代だいたいどれくらいかかりそう?」

「うーん、50万ってとこかな」

「50万か・・・」

家族の預貯金が全て入った通帳は、夫に持っていかれた。私に自由に出来るお金はない。どうしよう。

「奥さん、いろいろ大変だろ?請求書は設計事務所に持って行くから。俺がうまく所長から取り立てるから心配すんな」

こんな暖かい言葉の一つ一つが、私に生きる力をくれる。生きてていいんだよと、言われている気持ちになる。

その後、家の壁の穴は全部無くなりその上に貼られた壁紙は私と子供達が選んだ明るい色。家中がなんだか明るくなったよう。心機一転。まさに心機一転。これが私たち親子の再出発と思いたい。

こうして、私は思いも寄らないいろんな人の力を借りて、この人生最大の困難を乗り越えて生きている。生きられている。捨てる神あれば拾う神あり。

「壁紙変えたらなんだか前よりも、ずっと良い感じになったね!俺が大学行く前にできて良かった」

長男の責任とでも思っているのか。悠真がそういって笑った。


mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!