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蒼色の月 #73 「女宅へ②」

その日は突然やって来た。

翌日、私は目が覚めると同時にベッドの上で

「あ、今日だ。今日行こう…。今日なら行ける…」

そう思った。

なぜそう思ったのかは、自分でもわからない。
とにかく、なにかに背中を押されている感じがして、そんな気持ちになったのだ。そこには不思議なくらい、迷いも躊躇もなかった。

私は淡々といつも通り、子供たちの朝食とお弁当を作り、子供たちを起こすと気ぜわしい朝を過ごした。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

やっと子供たち全員を送り出したのは朝の8時をまわっていた。
それから私は、朝食の後片付けを終わらせ、化粧をし、身支度を調え準備していた上着を着た。

午前10時、ICレコダーの充電を確かめON、OFFを押してみた。
ICレコダーが練習通りに作動するのを確認すると、バックの中に入れた。
そして休むことなく、そのまま車に乗り込み私は女の家へと向かって出発した。
その時の私は、驚くくらいに冷静だった。
心はとても静かだった。
自分が自分でないようだった。
腹をくくるとはこういうことなのか。

ここ数日私をあんなに苦しめた、恐怖心や迷いはもうない。

「私はやる」

そんな覚悟の気持ちだけだった。

私はあと5分で女の家というところで、路肩に車を停めた。そしてICレコダーの電源をONにすると、それを上着の内ポケットに入れた。
車のエンジンをかける。数分走ると女の家が見えた。家の前に、美加の車があることを確認できた。
よし、美加は家にいる。
私は、美加の家の西側の小さな空き地に車を停めた。
まだ女宅からは、私の車が見えていない。

なにかに背中を押されるように私は車を降り、女宅の玄関へと向かった。
心は無だった。
そのせいか、先日名字を確かめに来たときには見えなかったものがよく見えた。
女宅の玄関脇には、不要な古いプランターや、プラゴミらしきものが乱雑に積み上げられ埃にまみれていた。
動物を飼っているのか、引き戸の玄関の手前には廃材をへし折って作ったような手製の柵が取り付けられている。
なんだこれは。
女手が二人もある割には、とても乱雑な印象。
正直こんな家は見たことがない。

鳴るのか鳴らないのか分からないような、埃をかぶったチャイムのボタンを私は押してみた。
家の中でチャイムが鳴った音がしない。先日もそうだった。やはり壊れているのか。

もう一度押したがやはり鳴らない。

拇印を押すときの朱肉のように、人差し指にはべったりと埃が付いた。
このチャイムは使ってないんだな。

しかたなく、私は塗装の剥げた木枠の引き戸をコツコツと2回ノックした。

「だれだ?」

玄関の中から、しわがれた女の声がした。

「すみません。私、浅見と申します」

私は一つ息を吸った後、大きな声でそう言った。

その声に、玄関の汚れた曇りガラスの中の女の影が一瞬たじろいだのがわかった。がしかしその引き戸は、その女の手によってすぐに開けられた。

「え?なんだって?あんた今なんて言った?」

出てきた女は夫の不倫相手ではなく、70過ぎの痩せた老女。この前の美加の母親たま子だった。
怪訝そうに私を見る老女は、どうやら私の顔は覚えていないらしい。

「初めまして。私こちらでお世話になっている浅見健太郎の妻の麗子です」

私は老女の目を見ながらそう言った。
老女ははっと一瞬たじろいだが、それはほんの一瞬で、その目はすぐに敵意を放ち私の顔を睨み付ける。

「失礼ですがお母さんですか?突然申し訳ありません。私あなたの娘さんの美加さんにお話しがあるんです」

老女は玄関から顔を出し、きょろきょろと近隣の様子をうかがってから私に言った。

「あんた何しに来たんだ?今頃来やがって。人の迷惑も考えろよ」

「突然来てしまってすみません。でもどうしても美加さんとお話がしたいんです」

「こっちには用無いよ。帰れ」

「いえ、帰りません」

自分でも驚くくらいにスムーズに言葉が出た。

「あんたさ、近所に聞かれるとかっこ悪いだろ。しかたないから中に入れ!」

聞かれるとかっこ悪いことをしているとは思っているんだな。
そう促され私は玄関の中に入った。

玄関の土間のすみに、丸められた銀色の紙が何個も落ちている。よく見るとかんだ後のガムを包んで丸めた銀紙らしい。

なんでこんなところに捨てる?

木製の下駄箱の上は、女性物のパンプスが何足も直置きで並んでいる。美加の仕事用だろう。そのせいで下駄箱の上は、靴から落ちた砂で真っ白だ。
そして下駄箱の隣には、カラーボックスが二つ縦に積んである。
そして、その中にはひしゃげて原型を残していないミュールやパンプスやヒール、息子のスニーカーらしきものが上も下もなくこれでもかとぎゅうぎゅう詰め込んであった。

すごいな。こんな家に夫は住んでいるのか。
夫はきれい好きの潔癖症なのに。

玄関で靴を脱ぎ、すぐの部屋の引き戸を開けて私は8畳ほどの洋間に通された。この部屋にはだいぶ大きすぎるダイニングテーブルに椅子が6つ。
一番玄関に近いところに、私は座らされた。

母親は、テーブルに乗っていたものを隠すように抱え込んで続きの6畳ほどの和室に引っ込んだ。

私が座った席のすぐ右側は、二階へと続く階段になっていた。
見ると階段の白い壁は、上るときに手が触れるであろう場所に手垢で真っ黒な帯ができていた。

そして階段下の収納スペースは、扉が取り外されおそらく何年も洗濯されていないであろう毛だらけの毛布が収まりきれずにべろんと飛び出している。その汚れた毛布の中から、ニャーニャーと何度か声がした。何匹も猫がいるようだ。

その奥はキッチン。
吊り棚に鍋やらボールが、これでもかというくらいたくさん載せられその大半は埃をかぶっていた。

そんなものを見ていると、老女は奥の和室から戻ってきた。

「美加さんいらっしゃいますよね?ここに呼んでいただけますか」

「いないよ、いない!今出かけているから」

「でも美加さんの車あるじゃないですか。いないわけないですよね。いないというならお帰りになるまで待たせていただきます」

譲らない私に老女は、チッと舌打ちをした。
そしてしぶしぶ携帯を手に取った。
美加に電話をしているようだ。

「健太郎の妻って女が来てんだ。どうするよ。お前に会うまで帰らないって言ってるよ」

それからしばらく二人は、電話でやりとりをしていた。

大きなダイニングテーブルの脇には、さっき急いで隠し忘れた赤や黒のレースの下着が落ちている。

「あーわかった、わかった。こいつにそう言っとくから」

こいつとは、どうやら私のことらしい。
老女はそう言って電話を切った。

「今日は帰らないから、明日会って話すってさ。だから早く帰れ!」

思いの外、簡単に会う約束をした美加に私は少し拍子抜けをした。

「ほんとに明日来たら、会ってくれるんですね?嘘じゃないですよね?」

「お前何言ってんだい。うちはね、母子家庭だけど人様に嘘はつくな、人様に迷惑をかけるなって小さい頃から育ててきたんだ」

「…」

「父親はいないけど、うちの美加は今まで人様に迷惑なんてかけたことは一度もない。嘘もついたこともない。だから会うって言ったら会うんだよ!」

迷惑をかけたことがない?どの口が言う。

「あのね、あんた!いいかい?言っておくよ!このままなら訴えるからね!裁判だからね!」

「誰が誰を訴えるんですか?」

「あんたの旦那が美加をきちんと正妻にしなかったら、あんたの旦那とあんたを訴えて山ほど慰謝料取ってやるから!」

「は?」

不倫している女が、不倫相手の妻を訴える?
そんな話は聞いたこともない。

「それにしてもあれだね。昔、私の旦那に女ができたときには私は静かに身を引いたけどね」

「……」

「いつまでも旦那にすがりつくなんて、女としてみっともないだろ?そして私はホステスしながら美加を一人で育てたんだよ。養育費も一銭ももらわないでね」

だからなんですか。と心の中で反論する。

「なのにあんたは、いつまでも諦めないでこんな風に乗り込んでくるなんてよっぽどしつこい性格だね。恥知らずだって思わないのかい?捨てられたのにさ。女としてプライドはないのかい。あーみっともない!」

女の母親は、確かに私にそう言った。

「それに!あんたさ、なんで子供たちを健太郎に会わせてやらないのさ。あんたが嫌がって会わせなくて困るって健太郎が言ってたよ。離婚も美加とこうなるずっと前から決まってたんだろ。なのに今更ごねて、こんなみっともないことよくできるもんだ。どうせ金のためにごねてるんだろ?あんたひどい女だね。非常識だよ。どんな親に育てられたのか、親の顔が見たいよ」

狂っている。
私が非常識なら、あなたと美加はなんなんだ。
その上親の顔?
私は悔しくて震えた。

それにしても、子供達を私が会わせないようにしてるとか。
離婚はずっと前から決まっていたとか。
夫は美加に調子の良い嘘をついているのだとわかった。

私の夫は大噓つきだ。

「さぁ、早く帰れよ。会う約束したんだからもういいだろ!」

言いたいことは山ほどあった、でもこれ以上長居をすると、私は自分の怒りを抑える理性を失ってしまいそうだった。ここでもめたら明日美加に会えなくなる。美加に会わなければ意味がない。
あくまで私の目的は、美加に会うことそして話すこと。
そしてそれを録音すること。

私は煮えたぎる気持ちを抑え玄関で靴を履いた。

「明日10時に来ますから、約束は絶対に守ってくださいね」

「お前うるさいんだよ。うちの娘は嘘なんか言わない。私が手塩にかけてそう育てたんだから」

まるで親の仇でも見るような、老女の目に追い立てられ私は玄関を出た。

空き地に停めてある車に乗り込み、美加の家の二階の窓を見上げるとさっと誰かがカーテン越しに隠れるのが見えた。
たばこのヤニで茶色に変色したレースのカーテン。
影のシルエットは女のもの。
きっとあれは美加。

家にいたんだなと思った私は、引き返そうかとも思った。
しかし今日はいないと言った以上、引き返しても美加は降りては来ないだろう。

一旦先方の言い分を飲み、明日改めて会うことを選んだ。
どっちみち明日は会えるのだから。

家が分かっている以上、どうせ逃げられないのだから。

車を走らせた途端、体がぶるぶると震えだした。
私自身ももう限界だった。

家に着くと私はベットに倒れこんだ。体中が痛かった。筋肉痛のようだった。もう私にはなんの力も残っていなかった。

ふとベットの壁に吊されたカレンダーに目が行った。
今日は私の父の命日だった。
父が私の背中を押してくれたのかな。
私の目からこの日初めて涙が流れた。
私は今のうち泣くだけ泣いた。

数時間後子供たちが帰ってきたら、また普通のお母さんに戻らなくてはいけないから。

明日、私は不倫女と対決する。


mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!