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蒼色の月 #62 「証拠②」

証拠集めをしている私には、どうしても、どうしてもコピーできないものが一つだけある。
これからの戦いで、一番必要となるであろう大事なもの。
それは夫名義の、家族の通帳だった。その通帳には、20年にわたる毎月の私の給料全額と、生活費を差し引いた残りの夫の給料、その他諸々が積み立てられている。
その通帳は、どこの家庭にもあるような、子供たちの進学費用と、私達夫婦の老後の資金を貯めるためのものだった。

家族の未来のためのお金。

現在、その通帳は常に夫の手元にあり、こうなった今私が見せろと言ったところで見せるはずがないだろう。

その通帳をどうしても、コピーしておく必要があった。

悠真の大学進学、美織の高校進学までもう一年もない。
その進学費用は全て、その通帳に入っているのだから。
多分その通帳は、施錠された夫のロッカーの中のあるだろう。
夫は不倫を始めてから自分のロッカーに施錠するようになった。

その通帳をなんとかコピーする必要があった。

まず無いであろうそのチャンスを私は祈る思いで待った。


何日か経ったある日、奇跡のようなそのチャンスがやって来た。
うちが設計した建設現場で事故が起きたとの連絡。
建設現場の事故は、直接事務所には関係はないにせよ、もちろん知らないふりは出来ない。
私が知る限り、20年で一番大きなトラブルに夫は血相を変えて事務所を飛び出していった。

上着を取ったあとの、ロッカーの鍵を開けたままで。

所長と私のロッカーは、社員とは別に事務室にある。
私は時折一人になると、よもや空いてはいないかと夫のロッカーを確かめていた。もちろんその日も。

締め忘れるはずがないと、思いながらも触ってみるとなんと夫のロッカーが空いた。不倫事件が起きてから、初めて見る夫のロッカーの中身。
ロッカーの上の段に、見たこともない小さな手提げ金庫が入っていた。
以前はなかったその金庫。女と暮らし始めてから買ったのだろう。

無理だ。
金庫の暗証番号なんか、私に分かるはずがない。

諦めかけたが、一応金庫をこの手に取り蓋を開けてみると金庫は施錠されていないと気付く。
金庫の中には、義父から譲られたゴルフの会員証や、美加に入らされた保険の証書などがあり、その一番下にそれはあった。
通帳は使用済みのを含めて3冊あった。

隣室で社員たちの声がした。

いつこちらの部屋にだれが入ってくるか分からない。

私は金庫から通帳だけを取り出すと、金庫をロッカーに戻し扉を閉めた。
通帳の中身など、ゆっくりと見ている時間はない。
いつ夫が戻ってくるか、いつ社員や事務員が入ってくるか、分からない。

私はコピー機の前に立ち最初のページから3冊全てをコピーした。
手が震える。
表拍子の口座番号と通帳名義をコピーして、私は急いでそれをロッカーの金庫の中に戻した。

しばらくして、階段を登る足音が聞こえてきた。
事務室のドアが開く。
入って来たのは、近くに夫のお使いで出かけていた事務員だった。

私は何食わぬ顔で、自分のデスクに座っていた。
私はもくもくと書類を作るふりをした。

私の机の引き出しの中には、私がどうしても欲しかった家族の通帳のコピーが入っていることを悟られないように。

これも犯罪なのかもしれない。

いや、20年分毎月の私の給料も全額入っているのだから、犯罪ではないのでは。

でも夫名義の通帳なのだ。

だが、犯罪でもいい。
それで望み通り子供達を進学させてやれるなら。
私は子供たちに、こんなことがなければ普通に行けた進学先にせめて行かせてやりたかった。
そのためにはどうしても、私にはそれを見る必要があった。
残高を確認しておく必要があったのだ。

たとえその中に、私をさらに打ちのめす事実が隠されていようとも。

帰宅時間、私は夫のいなくなった事務室で、机の引き出しの中のコピーの束を急いでバックに押し込んだ。
私は、社員に挨拶をしていつも通り事務所をあとにした。

通帳のコピーはまだ見ていない。

どうか何事もないようなそんな内容であって欲しい。
これ以上傷つきたくない。
通帳の中のお金は結婚して20年、贅沢もせず貯めてきたお金。
この20年、私の給料の全額はその通帳に振り込まれ一円も自分の手にしたことがない。
夫も大きな買い物はしたことがなく、生活費の残りはその通帳にすべて振り込んでいた。
そんな大事な家族のお金を、いくら不倫したっていったって夫が手を付けるはずがない。
事務所を出て、5分ほど車を走らせ私は大きなショッピングモールの駐車場に着いた。
私はそこの片隅に車を停め、通帳のコピーの束をバックから取り出し恐る恐る一枚目に目を落とした。

一枚目が一番最近のもの。

上からずっと目線を下に下ろすとそこにはとんでもない記載があった。
それを見た途端私の全身が震えた。

なんと、20年かかって貯めた預金が全額引き落とされていたのだ。

しかも夫が家を出て行った翌日に。

悠真の大学進学、美織の高校進学までもう1年を切った。
夫がおろしたお金を出さなかったら、子供たちになんと言おう。
まさか夫だって、大事な子供達の進学費用を出さないなんて言わないよね。

いくらなんでも。
父親なんだから進学費用ぐらいは出すはずだ。
我が子のためならば。

真夜中、私は一人ベットの上に座っていた。
会社帰りに見た家族の通帳のコピーが頭から離れない。

「悠真はこの事務所を継ぐんだから大学は行かないとダメだ」

悠真に期待した夫が、口癖のように言っていた言葉。
それをいまさらまさかね。
いくら何でも父親なんだからそんなこと。

神様どうしたら、私はこの子たちを守れますか?

今月、悠真は高校3年生、美織は中学3年生、健斗は中学1年生になった。

家族の預金はどこにやったの?
ただ聞けば良いのだが怖くて聞けない。今の私にはそんな気力はない。

北海道にも遅い春が訪れた、4月終わりのことだった。



mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!