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愛がなければ

コリント第一 13:2 2024 03 05 (火)
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

何と厳しい聖句でしょうか。何と私たちにチャレンジしてくることでしょうか。クリスチャンのどのような良い行いでも、動機が愛でなければ神さまから評価されないということです。聖書の言う愛とは、相手のために自分の何かを犠牲にすることです。自分の十字架を負うとも言われます。もっとも私たちの心は原罪で歪められているので、そもそも純粋な動機などは望み得ません。ですから動機に何らかの欲が混じっていても神さまは退けないと思います。極論すれば神さまにとって動機に比べれば結果はどうでもよいのです。減点主義ではなく加点主義のお方です。

けれども世の中ではほぼ結果がすべてです。受験勉強で精一杯努力しましたと言っても点数が足りなければ合格にしてもらえません。しかし神さまにとっては動機がすべてです。それでも誰かに愛を動機として接したのに受け入れられなかったり、迷惑がられたり、裏目に出たりすることはあります。そのようなとき私たちは失敗したとか、親切にしなければよかったとか、もうするまいと誓ったりするかもしれませんが、ちょっと待ってください。神さまはそれを問題にするどころか、ご自分に代わってよくやってくれたねと感謝さえしてくださっていると思います。神さまにとっては結果は二の次、三の次です。

たとえば3歳児の書いたお父さんの似顔絵が、何が描いてあるかわからないからといってその子を叱る父親はいません。むしろそれを宝として大切にとっておくでしょう。ここが神さまと世の中の評価基準とまったく異なるところです。もちろんこの世の営みは結果主義で成り立っていますからクリスチャンもそれに従わないと社会生活ができません。けれども人間関係では動機主義で臨んではどうでしょうか。特にフォロワーに対してこのマインドで対応するなら、相手のベストを引き出すことになります。イエスさまは「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言って成果主義を戒めておられます (ルカ10:20)。身近な人々に動機主義で接するなら、人を生かし、ハッピーな関係を造られるのではないでしょうか。

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