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実演家~パフォーマー~への讃歌

法律を勉強していると、架空の人物のことなどを「甲」「乙」と呼んだりするが、「実演家」という言い方もそれに負けず劣らず顔の見えない印象だ。著作権法において、著作者は「著作物を創作する者」とされ、実演家は「俳優、舞踊家、演奏家、歌手その他実演を行う者及び実演を指揮し、又は演出する者」とされている。言い換えをしてみると、「役者、ダンサー、ミュージシャン、指揮者、コメディアン、噺家(はなしか)」などのパフォーマーの皆さんのことである。改めて見ると、実演家は著作権法の最初に言及されているのだが、かの人々はあくまで「著作物の利用者」として、著作隣接権の一部である、実演家の権利が認められているに過ぎない。したがって権利の範囲は著作者にくらべてかなり限られている。

私は文章も書くし絵も描くので「著作者」だが、音楽、映画、舞踊、落語、お笑いなどといった著作物のカテゴリは、富を生むためには、実演家なしには成立しないものである。そう考えたときに、たとえば著作者と実演家の権利の扱いに相当の差が出るのはどうにも腑に落ちないのだ。

私の幼馴染のピアニストは、小さいころからピアノの練習に明け暮れていた。高校、大学と音楽の道に進み、フランスに留学もした。語学を学び、小さいながらも本人のリサイタルや、コンサートでの伴奏をこなすようになった。そうやって努力を重ねてきた彼女は、例えばパブリック・ドメインでない楽曲を演奏したら、どの程度の報酬を得ているのだろうか。著作者の意図を汲み、解釈し、鍛え抜かれた技術と表現力でもって、著作物に命を吹き込んだときに、どの程度の寄与を世間では認知するのだろうか。もちろん、ビッグ・ネームであれば相応の報酬はあるだろうが、それは創作への寄与とは別次元である。

レナード・バーンスタイン『ウエストサイドストーリー』のダンサーたちの恐るべき努力によらなければ、スティーヴン・スピルバーグ監督も20世紀スタジオも利益を得られないことは誰にもわかるはずだ。落語家たちは古典の戯曲でもその芸によって人の心にそれぞれ違う感動を呼ぶ。NHK交響楽団の首席オーボエ奏者・茂木大輔は、指揮者の仕事について、彼のエッセイでこう語る。

・・・指揮者は「影響を与える」どころか、オケという楽器を使って、すべてを新しく作り出しているようにさえ思えてきたのである。
 素晴らしい指揮者のときには感じられたあの興奮、感激が、同じ作品でありながらダメな指揮者のときには、ひくりとも感じられなくなってしまう。オーケストラの方も、良い指揮者のときにあれほど発揮した素晴らしいアンサンブル、響きを、同じメンバーかと思うほど失ってしまうのであった。

茂木大輔『オーケストラは素敵だ オーボエ吹きの修行帖』中公文庫、2007、89頁

ウィーン・フィルのへーデンボルク兄弟の談だったか、「人の心に届いてこそ音楽だ」という。著作権法の原理原則で言うならば、ヴェートーベンは著作者で、著作物はその楽譜といえる。だがそれだけでは全く意味をなさないではないか。実演家の権利を拡張する、ということではなく、最大限に実演家に敬意がある契約がなされることを願う。法律家においても、条文の解読にかかりきりになるあまり、生身の存在を忘れるべきではないだろう。著作権法の目的は、文化の発展に寄与することなのだから。


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