二つの「除名」
詩を書き始めた頃、黒田喜夫の「除名」が大のお気に入りだった。黒田は、共産党から除名された際に、この詩を書いたらしい。部分的に引用をする。
黒田は、このときの心境を次のように記している。「この詩の有様では、まさにこの世からも除名されたと言っているようなものだ。」と。
長い間、この詩は私にとっても「本物の詩」であり、そして大事な大事な私だけのシュプレヒコールだった。そうずっと思っていた。黒田の死には、死に瀕した際に、理不尽に組織から除名された悲痛が、ありありと描写されており、それは若かった私の心をわしづかみにした。実際、BーREVIEWという詩の合評サイトから、私が自分の不手際でレッドカードをくらった時に、ネットにこの詩の下手くそなパロディをUPしたこともある。それくらい、自分にとって大事な詩だったのだ。
ところが、それからしばらくして私は谷川俊太郎さんの同じ題名の詩、「除名」をふとしたきっかけで読んだのだ。そこにはこうある。
この詩の、つまり谷川俊太郎バージョンの最初の読後感は、私にとってけしてよくなかった。何をふざけているんだろう、とも思ったし、またおちょくられているような気もした。叙情とか切実感というものがすっぽりとぬけ落ちている気もした。なので、私は谷川さんの詩を「浅い」と断じてその時はスッパリと切り捨ててしまった。でも。
両親がもういない今ならわかる気がするのだ。私は、親に愛されたという確たる記憶が、ない。それなので、様々なグループに属することで、その帰属感の薄さを何とかやり過ごしてきた。でも、それは今思うと大きな錯誤だった。どんなに立派なテーゼを掲げている集団であっても、そこに孤独感を薄めるために入会するのでは、あまりそれに意味はない。本当は、人間は親のつけた名前とは、別個に生きている。そして「死ぬのをいやがって/いのちはわけのわからぬことをわめ」く。しかし。
現実問題として組織に、属していようがいまいが、人間はすべて死を恐れていつも神にとっては意味不明なことを叫んでいる。でも、本当は除名されようが、野垂れ死にしようが「いのちの名はけして除かれることはない」。
人はあらゆる生きとし生けるものは、名前なぞつかないままに生きている。親から愛されたとか、愛されなかったとかとは全く無関係にいのちは残る。無名のままに存在する。そして私はここにいる。
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