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頑張っていたのかも知れない

私は、大体三十代の後半から、四十代の後半つまり、現在で言うアラフォーの間をずっと実家の部屋の中で過ごしていた。引きこもり状態だ。そこには、医師の投薬量が多すぎたとか、その間親が私と殆ど口を利かず、私なんかいないかのようにただ生活していたとか、いろんな事情もあったのだけれども、私は親にねだり倒してパソコンを買って貰って以来、ついに自分から外へ、出た。それから、本当にいろんな人に恵まれて、(特に、当時実家の祖母の介護に来ていたヘルパーさんが、何にも教えない親の代わりに、洗濯掃除、料理の基本を教えてくれて、普段着まで買ってくれたのには、未だに育ての親以外の何者でもなかったよ、ありがたいと感じている)、あとデイケアのソーシャルワーカーさんとか、家の郊外にいらしたカウンセラーさんとか、就労支援所(ここは、あまり私に今思うと合っていなかったけれども、)のスタッフさん達とか、あとは詩の世界の先生方や友人たちだ。とにかく、いろんな人の手を借り倒して頑張ってきた気がする。
家のもういない両親とそれに親戚は、私にいわゆる身体的な暴力は殆ど振るわなかった。それだけでも、今思うと相当ラッキーだったのだと思う。我が家は要するに、9060問題の先駆けだった。
後に、引きこもり女子会という、たぶん斎藤環さんがスーパーバイザー(?)である集まりに、一度出かけたことがある。その時にびっくりしたのは、司会の人、つまりは主宰者が私より確か二つか三つ年下だったのだ。会には、すでに60の人も確か一人だけ居たけれども、その人も含めて、50代で会に出ている人は全員が「ママ引きこもり」の人たちだった。本当に、ひとりっきりで引きこもっていた経験があるのは、そこでは私がただ一人の最年長者だったのだ。
たくさんたくさん、失敗もしたし、どうしようもない恋愛もいくつかしたし、そしてもともと実家に本がたくさんあったので、詩とか小説を創作するという点では、私は有利だったのかも知れない。でも、今思うと、長期間の両親への共依存を断ち切って、自分で詩の世界で結果を出していくのは、本当に大変だった。そしてそこに、先を行く人はリアルではいなかったのだ。私は、つまり引きこもりから回復した、ある意味合い日本で最初の人間の内の一人だった。働けてはいない。普通の社会人にもなれてはいないけれども、でもそうだったのだと、最近ようやく気づいた。
自分は、もしかしたらものすごく頑張ったのかも知れない。もうちょっと、自分自身をねぎらって「よくやった」と、言ってあげていいのかも知れない。本当に、いまだにとても不完全な自分だけれども、褒めてあげていいのかも知れない。

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