手話を学ぶ中での違和感

わたしは、ある時から手話の学習が楽しくなくなってきた。

手話奉仕員まわりのシステムが相変わらず古いし、市町村によっては時代にそぐわないシステムで運営していることに対する不満も少なからずあるのだが、それ以上に「手話はろう者のもの」という意識に対してあまり理解を示せていないこともある。

今の障害者福祉周りでは、社会モデル、つまり、障害は社会側の問題というのがスタンダードな考え方である。これは当然のことながら理解できる。
だから、ろう者の言語である手話を音声日本語中心の社会でも使えるようにしてほしい、ここまではわかる。(国内の少数言語の保全が日本の文化保全につながることは確かだから。)

でも、じゃあ我々聴者が社会モデルの考えを踏まえて、手話を気安く学ぼうとすると、手話の世界(=ろう者の世界)から拒まれているようなところもある。

それが「手話はろう者の言語」という考え方だ。

まあそれはそうなのだが、「言語」と言う以上、ある程度の共通性は持つべきだし、手話には特有の排他性があるから、手話言語条例までは一部の地域で認められても、一向にその先には進めないんじゃないかと思ってしまう。
また、社会モデル的に障害のある人たちにも優しい社会を構築しようとする一環として手話を学ぶこともあるのに、排他的になるのはおかしい気もする。
加えて、ろう者も聴者もみなおなじ人間だし、そこに優劣はないので、手話を学ぶ際に、ろう者>>>>>>>聴者の構造ができていることにも違和感がある。
別にろう者の言語を聴者が学ぶこと自体は何も悪くはないのに、なぜ聴者は下に見られなければならないのか。(教えてやっている感、というのが否めないこともない。)

そして、純粋にろう者とコミュニケーションが取りたいから手話を学ぶ、というのがシステム上今の社会には若干欠けているように感じる。(手話の会もある程度手話ができないことには入れてもらえないし)
ろう者とコミュニケーションを取りたいと思って、聴者のわたしは手話を学んでいるが、初っ端いれられるのが「奉仕員」と名のついた講座であることにも多少違和感は感じる。「他の言語を学んで、コミュニケーションが取りたい」というモチベーションのもと、外国語をこれまで複数学んできたし、手話も同様のモチベーションなのだ。
それなのに、「手話を学んだ聴者はろう者ために「奉仕」することを前提とされるのか?」と講座名から考えざるを得ない。しかもそれが1年程度で済むものではなく、通訳士・通訳者まで含めたら5年程度のかなりの長期スパンなのだ。
また、私たちはおそらくほんの興味単位から手話を学び始めているのに、「最終的にろう者が社会的に権利を主張したり要求を叶えるための道具として使われそうな気もする。」とも考えられずにはいられない。
とはいえ、ろう者が音声日本語中心の社会で生きていく際に、当然補助は必要になるし、そのために手話通訳が入ることには仕方がないとは思う。私は、コミュニケーション手段としての手話は喜んで学習するし、それ関係の通訳もやってみたい。
言語を学んだ先に、聴者のわたしが求めることは対等にコミュニケーションがとれること、ただそれだけ。対等さだけ。それなのに、「奉仕員養成講座」と言われるのはいまだに納得がいかない。

そもそも、聴者がろう者の立場に立って、一緒に権利を主張するのもなんだか違うと思っている。(だから奉仕員で、「ろう者の立場に立って手話言語条例を〜」とか聴者の先生が言い出すと毎回理解に苦しむ)
そもそも聴者がろう者を完全に理解することは永遠に不可能だし、手話ができる聴者が間に立って、権利を主張される側の聴者と一緒にろう者のためのシステム構築して橋をかけるとかならまだわかるけども、わかりあえないものにわかったふりをして同調しているのが一番よくないとも思わないこともない。

あまりまとまりがなくなってきたので、また考えがまとまった時にnoteを更新することとする。

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