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漂流(第三章①)

第三章

1.
「先生。いつも有難うございます。」
目の前で、深々と頭を下げる老女。
「吉川さん、頭を上げてください。」
聡子はそれに目線を合わせ、優しく語り掛ける。
ここは、北海道N市の某雑居ビル二階。そこで私は弁護士事務所を開いている。とは言っても、それは名ばかりで、ほとんどボランティアの様なものだ。月に訪れる相談者の数は五人いれば多い方だろう。それでもその数は徐々に増えてきている。犯罪被害者が抱える様々な不条理に法律的な観点でアドバイスし、彼らの経済的、精神的なバックアップを行う。そんな気持ちから始めて十数年。聡子は間もなく四十を迎えようとしていた。
光男の裁判が終わり、抜け殻の様になった聡子は弁護士を辞めようと思っていた。元々、秋山に強く勧められて何となく目指し試験に合格、その後も自らの意志はほとんどないまま仕事をこなしていた。光男の件で漸くその意義を見出したかと思ったが、そうではなくそこがゴールとなってしまった。
判決の後、光男と朝倉美代子は私達の前から姿を消した。故郷の、ここN市に帰って二人でやっていくと話していたが、あれ以来彼らから音沙汰はない。携帯電話などの連絡手段も全て断たれ、全く連絡を取る事も出来ない。執行猶予中とはいえ保護観察は付いていないので、所在不明自体に問題はないが単に友人として心配なのだ。一体彼らに何があったのか?
しかしそういう私もあの後、秋山のもとを去った。田舎から逃げ出し、父や秋山の言う通り今まで生きてきた。疑いを持つ余地はなく、後悔やどう償えば良いかさえも考えられないほど自我は崩壊していた。ただ言われた事だけを黙々とこなすロボット。光男を裏切った時点で自分の人生は終わったと思っていた。だからあの時の裁判で光男の力になれたのは嬉しかった。そう思っていたのに……。再び目標を失い、流れ着く様に故郷のこの街に戻った私には、やはり弁護士としての自分しか残っていなかった。それから十数年、またいつか本当の意味で光男に償える時が来ると信じて、相談者に向き合いながら日々を過ごしていた。
「ごめんください。」
物思いに耽っていて全く気付かなかったが、誰か訪ねてきた様だ。パーテーションの向こうから女性の声が聞こえた。
「はい、只今!」
足早に仕切りの向こうへ駆け寄るその途中で、急に足が止まった。次の言葉を告げるまでどれくらいの時間が過ぎたか?
「お久し振りです……」
朝倉美代子がそこに立っていた。


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