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私の話をしようと思う〜ドラマ『Modern Love』第3話を観て

こんにちは、ひなたです。

皆さん、お元気ですか?


先日、Amazon Primeビデオの海外ドラマ『Modern Love〜今日もNYの街角で』の記事を書きました。

これの3話が、身につまされる話で、とても心に響きました。

『ありのままの私を受け入れて』というタイトルで、躁うつ病の女性レキシーが、初めて自分の病を、友人に告白する話でした。

自分で作ってきた壁を取り払い、自分のことを素直に告白して生き始めたことで、病状も回復していきますし、恋をしようと努力も始めます。

私は、友人に隠したりはしませんが、noteでは話していませんでしたので、私も、自分の半生を、ここに書き出してみようと思います。


10歳の時から、自律神経失調症になりました

私も、10歳の時に、自律神経失調症と診断されています。

当時は、精神科があまり一般的でなかった頃でした。

朝、お腹が痛いとか、布団から起き上がれない、と私が言い出して、母は、私を小児科に連れて行きましたが、自律神経失調症と診断され、習い事が多すぎると思うから、習い事を減らしなさいと言われたのです。

今思うに、その頃から、確実にうつ病の症状があったのですが(入眠障害など)、両親もまだ10歳の私も、知識がなく、習い事を減らすだけで、特に何もしませんでした。

当時私は、酷いいじめにあっており、それが2年ほど続きました。

物を破られたり、机に酷いことを書かれたりするようなタチの悪いいじめで、誰がやっているかは、最後までわかりませんでした。

その頃から、誰も信用できない、と無意識下で思うようになったような気がします。

私は負けず嫌いだったので、そんな状況下でも皆勤賞を取りましたし、クラスルームの時間でも、

「よくこんなバカらしいことをする時間があるものね。それだけ時間が有り余ってるなら、私に欲しいくらいだわ、この暇人!こんな卑怯な真似に、私は絶対屈しない」

と、堂々と宣言してやったくらいでした笑。

そんな私だったので、最終的には、向こうが根負けして、やめたようでしたが。クラスが、味方になってくれたのも、大きかったです。

それでも、私に人間不信は残りました。


今思うと、いじめで、学校に行けなくなるくらいの方が、まだマシだったかもしれないと思うのです。

行かないのは、自衛する本能に、体が従っているからとも言えるでしょう。

私は戦場から逃げたくなかった。内心は、逃げたいと思っているのも、気づけていなかった。気づけない方が、あとからずっと重症になったりするのです。


体はとても正直で、自律神経失調症という形でちゃんと現れていたのです。

私たち大人は、子供に我慢を教えがちで、自分の内面の声を聞くことを、あまり上手に教えられていません。それに正直に従うことも。

我が家の場合は、両親が、そういうことが苦手なタイプだったので、あまりうまく習えなかった所もあります。


中学時代から、年に1〜2度、意識を失うようになりました

自律神経失調症と、肋間神経痛、そして、私は低血圧で、この組み合わせは、疲れると、よく倒れるんですよ…。

中学時代の友人には、笑って一緒に歩いてたのに、バターンと音がして、振り向いたら、倒れてて、血の気が引いた!!と、泣かれたことがあります。

意識が戻ったのは、1時間も後で、気づいたのは、保健室…というのが定番。

これは、現在まで、続いています。


大学時代に、不眠症に。うつ病と診断されました

大学は、東京の大学に合格して、一人で上京しました。そこから、事態はもっと悪くなって、完全に眠れなくなる日々が来ました。

人間は眠れなくなると、ほんとに途端にダメになるんです。内科で、眠剤を出してもらいましたが、飲んでも全く眠れないで、1週間不眠が続いて、とにかく眠りたくて、多めに眠剤を飲んでしまいました。

弱い眠剤だったし、大した量ではなかったし、すぐ友人が両親に連絡をとってくれて、発見されたので、問題はなかったのは幸いでした。

救急先で、かかった医師に、

「それはOD(オーバードーズ)という行動で、自死行為です。眠りは、死をイメージする行為でもありますから。あなたは、うつ病です。精神科にかかってください」

と言われて、唖然としました。


うつの治療は、15年かかりました

それから先の記憶は、なんだかモヤがかかったように曖昧で、よく覚えていないのです。

眠剤は、何を飲んでも効かないので、最後には、

「君は、まず眠れる時に寝なさい。そこからだ。」

と、医者に言われたり、

「休むのが仕事だよ」

という医者に、

「休むって、どうしたらいいんですか?」

と真顔で尋ねて、呆れられたり。


20歳の時に出会った夫と、私の両親、アニマルセラピーの愛犬と、沢山の人の協力を経て、26の時に大学をやっと卒業できました。卒業を待っていてくれていた夫と、27で結婚。32歳の時に、転院しました。

今の病院に出会って、睡眠外来、アンガーマネジメント 、タッチセラピー、マインドフルネスなどを経て、減薬から、断薬へ。寛解したのは、34歳の頃のことです。


出産のための努力と、産後うつとの戦いが待ってました

夫との間に、諦めかけていた娘を授かったのが、35歳の頃でした。

私は、多嚢胞生卵巣で、うつになってから、生理不順が酷くなり、子供はかなり難しかったのです。

25歳くらいの時には、試しに排卵誘発剤を使うと、卵巣が腫れてしまう特殊体質だと分かりました。医師には、この薬がないと、君は妊娠できないが、命がけの出産になる、と言われていました。

すごく悲しくて、当時は絶望しましたが、漢方で体質改善をして、断薬と寛解、健康的にダイエットをしたりして、排卵誘発剤を使っても、卵巣が腫れない体を手に入れてから、妊活して、幸いなことに、半年で妊娠できました。

出産後は、おそらく寛解しているうつが、再発するはずだと思ってはいました。

でも、一度寛解しているんだから、きっと前よりはマシなはず…と思っていました。


産後うつは、また別物。何より私だけの問題じゃない

正確には、産後うつは、女性ホルモンに起因するうつで、セロトニンという幸せを感じるホルモンのバランスが乱れるような、普通のうつ病とは、また異なるものです。

産後は、妊娠を維持するホルモンから、母乳を出したりするホルモンに、一気にスイッチが切り替わるわけですが、これに体がついて来れなくて、産後うつになるわけです。

以前のうつの時に飲んでた薬とも違うし、寛解して断薬できてたのに、大量に薬を飲む生活がまたやってきました。

当然母乳育児も諦めざるを得なかったし(元々母乳が出る体質ではなかったので、未練はないけれども)、全く寝れなくはなるしで、頭でわかってたのと、現実は違うなぁと、大変凹みました。

それに、私が起き上がれなくては、娘の命に関わるというプレッシャーが凄かったです。

これに関しては、家族の支えと、夫が早急に保育園を探してくれたことが、とてもありがたかった…。


産後2年、どんな経験も無駄じゃない

でも、以前のカウンセリング体験や、減薬体験が、大変役立っていることもまた、事実です。

効果的に眠剤を使ったり、スムーズに減薬を進めたり。ホルモンバランスの波を日記に記録して、「何日ごろ具合が悪くなる予定だ」と、家族にも伝えるようにしたりも。

最初に想像していた通り、いやそれ以上の困難もありましたが、前の寛解のおかげで、自分の体調のアップダウンも、早めに掴めるようになってきましたし、自己メンテナンスも前より格段に上手になっていました。


産後うつになるはずという予感だけじゃなくて、一度寛解したことが、きっといい結果に早く導いてくれる、という予感も、当たっていたわけです。

前のうつ病があるからこそ、妊娠中から、地域の保健課に、自分で繋ぎをとったり、産婦人科で積極的に助産師外来を受けたりもしていました。

人に頼れる自分になっていたことが、つらいうつ病体験の何よりの収穫だったと思います。


打ち明けることは、受け入れること

精神的に弱い自分、不完全な自分が、情けなくて、隠したくなる気持ち。まだまだ偏見の目もありますし…すごく良く分かります。

私には、大人になるまで誰にも言えなかった、一人で抱えていたレキシーの気持ちが、痛いほど伝わってきました。

レキシーが一番辛かったのは、躁うつ病であることそのものよりも、本当の私を誰にも知ってもらえないことだったのです。

そして、誰にも打ち明けられないのは、自分は躁うつ病である、と受け入れられていないからとも言えるのです。

うつの私は本当の私じゃない!これは私じゃないんだ。と責めて、【ダメ】な自分を遠ざけて、必死に殻に閉じこもって自分を守ってる状況なのに、人に打ち明けられるはずがないです。

素晴らしい私でありたいと、よりよい自分を求めるのは、素敵なことだけれど、そうでない自分は、認めない!となると、途端に生きづらくなるものです。

あなたが思っているより、人は不完全で、自堕落だし、人に見せられないあれやこれやを抱えている。

みんなそうなんです。私もそう。

この世の中、誰だってうつになるかもしれない世の中です。

強く生きよう。受け入れて。時々お部屋におこもりしながらでもいいじゃない。

ドラマのレキシーの基になったコラムの女性に、そういって、その手を握ってあげたいです。

私やレキシーのような人たちの心に、少しでもエールになりますように。







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