悠々と取りだしたはさみで牛乳パックを

 洗って注ぎ口だけを開いた牛乳パックがキッチンの床に10本以上立ててあり、それらが足の可動域を徐々に狭めていることには、もちろん気づいていた。もう1か月もカラフルな立方体たちがそこに並び、そして日に日に増えている。

 仕事も読書も手につかない夜、ようやく彼らにそこを退いてもらう決意をした。牛乳パックの四つ角のうち、紙が二重に重なっている角とは対角の、比較的切りやすい部分をねらってはさみを入れる。ザクッ、ザクッ。パックの紙はけっこうな厚みで、手が疲れる。底の部分まで到達したら一周ぐるりと切って、ついに一枚の厚紙にすることができる。

 リサイクルさせたいにしては開きにくすぎる! 作業をしながら脳内で文句をたれた。開かれることへのあらがいすら感じる。たまに豆乳パックなどの変化球もあってそれがまたたいへん。そして厚紙の束をまた、スーパーの回収ボックスまで持っていかなくてはならない。そもそもはさみを使わなければリサイクルボックスに投下が許される状態にできないなんて……あまりにリサイクルする人の良心に頼りすぎているし、リサイクルするような善良でまめな人の心にも怠慢はあるとの事実を無視してしまっていないか。

 その点ペットボトルはかなりこちらへの配慮があり、ラベルがそもそもないやつとか、ぐしゃっとつぶしやすいやつが出ている。人に備わるだらしなさをまったく舐めていない。あわよくばふだんリサイクルを意に留めない人にまでもうっかりリサイクルさせてやろうではないかと、それほどの気概が見える。うーん、頼もしい!

 去年フランスに住んでいた友人が教えてくれたのだが、フランスのいくつかのスーパーでは食用油や洗濯洗剤などの量り売りがあるらしい。詰め替え用のボトルはスーパーに訪れる人が持参するから、ごみが出ない。このすばらしい取り組みをしているのは、しかし、日本でいう成城石井や紀ノ国屋、明治屋みたいな高級スーパーだけなのだ。だからそういう量り売りを利用していると、ノーブル(noble)な人と言われてしまうのだという。ノーブルは「貴族の」とか「高尚な」の意味。庶民の目の前にある問題は、環境破壊ではなく明日の食い扶持、子たちの未来、老後の行き先。だから意欲的に環境問題に取り組む人が、高級志向の、なんかちょっと鼻につくやつとして扱われてしまう。もちろんそれはSDGsをおおいに掲げる日本でも同じ状況だ。

 こうして幾重にもねじれたまま、世界はそれでもなにかいいことにむかってよちよちと歩いていこうとしている。ねじれのなかで私は、どちらの方向を見ればよいのかわからない。

 ペットボトルとパックの差をみても、ペットボトル業界はコカ・コーラ社やサントリー社など、大手が絡んでいるからこそ大々的に実現するエコフレンドリーであるようにおもえる。パック業界にはリサイクルをラディカルに推し進められる金と力をもったメーカーがまだいないということなのかもしれない。

 パック飲料として不可欠な「液体が漏れない」ことと、開きやすさの両立は、きっと企業努力という言葉には回収されつくせないたいへんな技術なのだろう。これまでにいろんな飲み物のパックを開いて、いちおう明治「おいしい牛乳」だけが、はさみ不要を謳っていた(が、やっぱりまだまだ開きにくくて結局はさみも使った)。おいしい牛乳は、やはり他のより高い。ああ、環境問題に配慮した取り組みをするってのは、どうしたって余裕が必要なのだな。

 はいはい。それならば悠々とはさみを取りだし、実際はそんなにない生活の余裕をたっぷりとじぶん自身に見せつけるように、丁寧に牛乳パックを切り開いてあげようではないか。こうして間接的に、企業に個人が与えうることもあるだろう。世界の複雑なねじれをそのままじぶんのなかに抱えながら、とりあえず手だけはザクザクとはさみを動かすのだった。




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