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『天然』と『天才』という言葉の呪い

「天然、と言われることが嫌なんです」

と言う人がいた。理由を聞くと、「それ以上、理解しようとしてもらえないから」と言った。

ものすごくわかるな、と思った。

人は、得体のしれないものが苦手だ。

だから、自分の理解の範疇を超えるものに出会ったとき、その不安を消すためにラベリングをしようとする。

それは、悪いことじゃなく、あたりまえのことだ。だから、この世にあるものは、何もかもに名前がつけられている。

でも、名前をつけられた瞬間、そこで一度理解が済んでおわってしまう。

何を発言しても、「天然だね」で完結してしまうのだ。

自分にとっては、天然でもなんでもなく、普通の発言をしているのに、それが相手に伝わらない寂しさ。

理解を諦められてしまう虚しさ。

何なら、そんな「天然」ラベルを貼られることで、自分の発言する意味はあるんだろうか、また「天然」と言われておわるんじゃないだろうか、という恐怖心すら芽生えるかもしれない。

これは「天然」だけではなく、「天才」にも通ずる話である。

ほんの少し、一般的な感覚じゃないものを持っている人は、他者と関わるうちに、自分のズレに気付いていくんだろう。

そうして、ラベルを貼られるたびに、ちょっとずつ理解されることを諦め、コミュニケーションを取ることを諦めていくんだろう。

別に「天然」だと思ったら「天然」と言ってもいいし、「天才」だと思ったら「天才」だと言ってもいい。大事なのは、そのあとだ。

わからないことに対し、「なんで?」と聞いてみること。


聞いたうえでわからなくてもいい。でも、どうかその人のことを大切に思うのであれば、理解しようとしてみる。

そのラベルを貼り付けたまま、放っておかないでほしいのだ。

そんなひとつの問いだけで、きっと、相手は救われたような気持ちになると思う。

そこから、言葉の呪いが解けていったらいい。

「変わった人」でおわらせるのは、あんまりだと思うのだ。

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