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私たちは「しあわせになる」ことはできない

「しあわせになりたいね」

友人と会うたびに必ずこの言葉が出てくる。

この前も写真フォルダを漁っていたら、2年前の七夕の短冊に「しあわせになりたい」と書いてあって2人で笑ってしまった。

そしていつも、

「わたしたちはいつしあわせになれるんだろうね」

と冗談交じりに言って別れる。

そんな帰り道は、いつもしあわせについて考えてみる。


おそらく、この世に不幸になりたい人はいない。

「どうして生まれてきたのか」なんて難しいことを考えてもキリがないけれど、きっとみんなしあわせな未来を望み、今を懸命に生きている。


今は辛くても、将来きっとしあわせになれるから頑張る。

ここを乗り越えれば、きっとしあわせになれる。

夢が叶ったら、自分はしあわせになれるはずだ。

わたしもずっとそう信じていた。自分の好きな文章を書いて食べていけたらしあわせになれるし、声優という夢が叶ったらしあわせになれる。愛されたいと思う人に愛されたらしあわせになれる。


でも最近、「もしかしたら違うのかもしれない」と思いはじめた。


夢を叶えた知り合いが「死にたい」とSNSで呟いているのを見たとき。素敵な結婚式を挙げた友人が愚痴ばかりこぼしているのを聞いたとき。プロジェクトを成功させた矢先、大きな失敗をして落ち込む先輩を見たとき。

私たちは、一生しあわせになれないのかもしれない、と思った。

たとえば、友人と美味しいものを食べた。ほっぺたが落ちそうなほど美味しい。大好きな人と美味しいものを食べておなかいっぱいになった。とてもしあわせだ。友人と別れたあと、クライアントから怒りのメールが来た。最悪だ。自分はなんて仕事ができないんだ。辛い。しあわせじゃない。

たとえば、自分の第一志望の企業に就職した。頑張って準備をした甲斐があった。たくさんの人に祝福されて、親にも喜んでもらえた。努力が報われてしあわせだ。就職して3ヶ月、仕事がつまらなすぎて死にそうだ。こんなはずじゃなかった。辛い。しあわせじゃない。


つまり、しあわせって、「なる」ものじゃなく、「瞬間」で感じるものなんじゃないだろうか。


たとえ夢を叶えても、きっとまた新たな悩みが出てくるし、美味しいものを食べてもお腹を壊すかもしれないし、お金持ちになっても使い道がなくなってつまらない人生になるかもしれない。

本当は、「しあわせ」というのはそのへんに落っこちている。

言葉だけが一人歩きをして、ある種の「桃源郷」みたいな感じになってしまっているのかもしれない。


「しあわせ」は頑張ったその先にあるかもしれないけど、永遠に続くものじゃなくて、刹那的なもの。


そんな小さなしあわせをちゃんと拾って大事にしまっておけば、たとえ不幸せなことが起きたとしても、最大公約数的にしあわせな瞬間が多ければ、私たちはもうしあわせなのだと思う。


「今日も明日も1年後もずっとしあわせ」な状態にはなれないかもしれない。


でも、しあわせに麻痺しつつある恵まれた時代だからこそ、毎日たくさんの小さなしあわせに気付けて、大事にできたら、それはきっとしあわせな生き方なんだと思う。

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