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シャイな「好き」はもういい。私的ラブリーサマーちゃん論

 「ラブサマちゃん」と略して呼ぶのが躊躇われるくらいには歳をとった。もう41だからな。本当は、彼女のシンガーネームである「ラブリーサマーちゃん」だって言うのは恥ずかしいんだが、それは仕方がないよね。言うよ。

 まずこのアーティストを知った経緯だが、一番最初に彼女を知ったのは今から4年くらい前だったろうか。『ディスコの神様』というtofubeatsの楽曲のなかでバックコーラスをやっていたのがラブリーサマーちゃんだった。あの少しかすれたコーラスの声がすごく気になって調べてしまった記憶がある。

 が、当時はそれきりだった。「ふうん、若手に面白い子がいるんだな」というくらいの認識だったのだ。それが、この一年ほど、spotifyでとにかく雑多に音楽を聴きまくるようになった。余計なCMやランダムプレイ、音のクオリティが気になったのでプレミアムに加入したら、もうまったく問題を感じなくなった(音質はそれでもiTunes購入音源より下がるし、CDに比べればかなり下がるわけだが)。

 まったく恐ろしい時代になったものだ。CDを一枚一枚買う時代だったら、とうに破産しているレベルの量を誰でも聴くことができる。

 先月聴いたアルバムの量をCDの値段に変えてみたら50万円以上聴いていた。ヘビロテに入るものはiTunesやCDで買うが、それでもあまりにアーティストに見合わないではないか? この構造の行きつく先は……? 
一時期「これからはライブで回収」なんて言っていたがそれがいかに先祖返りだったかはコロナ禍で明らかになった。さて……といった壮大なテーマはまあとりあえず脇に置いておいて、まあそんな滝のように音楽を浴びる暮らしの中で、流れ弾のようにラブリーサマーちゃんにぶち当たった。

 これが、これが……衝撃で言うと、自身の体験でいえばスガシカオ、GRAPEVINE、くるり、YUKIとか、海外ならBLURやOASIS、レディオヘッド、スーパーグラス、BECK、ビョークを初めて聴いたときの興奮にあっさり並んだ。

 たしかに最近の若いアーティストはたくさん面白い人が出てきている。羊文学の気怠さも大好きだし、眉村ちあきの多彩さも素敵だ。tempalayやPOPしなないでなど、才能溢れるバンドを数え上げればきりがない。

 ただ、こと私に限っていえば、「ラブリーサマーちゃん体験」は他の若いバンドを聴いたときの体験とはちがう、ちょっと特殊なフォルダにしまいこまれた。いわば「ごく私的体験」として捉えられたのだ。このプライベートエクスペリエンス感はどこからくるのか?

 最初のうちは、ラブリーサマーちゃんの際立った特徴に見えたのは、声の魅力だった。ざらついた麻の布のような声は、聴いているだけなのに触れられているようなテクスチャがある。だが、それはやくしまるえつこや、昔で言えばCharaのような歌手がそうだったように、アーティストの一つの武器ではあっても音楽の価値を決定するほどのものではない。

 ではラブリーサマーちゃんのラブリーサマーちゃんたる所以とは何なのだろう? 1stアルバムの「あなたは煙草 私はシャボン玉」のような刹那的な切なさなのか、それとも「私の好きなもの」のような気の抜けたおちゃらけ感&癒し感だろうか。もちろんどれも好きだ。とくに私は彼女の気の抜けた「合いの手」が好きだ。「よしいくぞぉ」と彼女が言うときのぬるい温度を何度もリピートしたくなるし、せつない系の楽曲でも昨今流行りのヨルシカやYOASOBIともひけはとらないだろう。

 だが、彼女は「mis」のように突然ロックエンジンを全開にすることもできるロック魂をもったミュージシャンでもある。これまで、その幅広さとマイペースさが相まって「ラブリーサマーちゃんとは何か」は広大な宇宙のようにその輪郭がぼんやりとしていた。そのあたりは、初期くるりの『図鑑』の頃を思わせる。

 彼女に限らないのだが、いまの若手のミュージシャンにはどこかに恥じらいがある。みんな「音楽を愛してる」という気持ちを、少しシャイに、そしてあえて距離を置いた角度から、とてつもない情熱を語る。

 その結果、とても不思議な音楽シーンが出来上がっている。それは豊かさでもあり、かつてない盛況ぶりにもつながっている。

 だが、一方で何のてらいもなく、取り立てて距離を置くこともなく、ただ「好きな音楽」をストレートには投げづらい時代になったな、とも思う。こんなストレートな球を投げたらダメなんじゃないか、とか。

 ある意味で、いまのJ-POPシーンは「J-POPポストモダン期」とでもいうべきところにいる。いわばJ-POPのメタみたいなところを愉しんでいるといってもいい。メインストリートを走るのが星野源と米津玄師であるということが、それを象徴しているだろう。裏通りがいつの間にか表通りに変わったのだ。

 その流れのなかで、2020年、ラブリーサマーちゃんは突然、「ド」がつくほどストレートなロックアルバム『THE THIRD SUMMER OF LOVE』を発表した。このアルバムで、彼女はこれまでのように多彩な引出しを開け散らかしたりしない。ひたすら90年代のUKロックへの憧憬を隠しもせずに全開でさらけ出す。

 とはいえ、若者が90年代のUKロックに惹かれるなんてべつに珍しいことじゃない。2,30年昔の音楽に惹かれるなんて自分の時代からあったことだ。

 だが、その「好き」が本物だと、単純に「バック・トゥ・90’」では終わらない。彼女は90年代ロックを完全に自家薬籠中のものにしてしまった。それも得意げな顔はせず、ただ好きで好きでこうなってしまいました、というまさにストレートに投げられた感じが伝わってくるのだ。

 つまり「模倣」でも「追憶」でも「リバイバル」でもなくて、彼女が誰よりも90年代UKロックの住人なのである。もはやそれはきちんとラブリーサマーちゃんのものになっているのだ。

 私はこのアルバムを爆音で聴いたとき、一人のロック少年に戻されていた。目の前で歌ってくれているのは「宅ロッカーな風変り女子大生」なんかではなくて、完全無欠のロックンローラーだった。百万光年向こうに置き去りにした魂を撃ち抜くことさえできるロックンローラーだった。

 聴き終えると、私は深夜に涙していた。せつなさとかで泣ける時期はとうに過ぎているし、90年代ノスタルジーに浸ったわけでもない。というか、私の知っている90年代のUKロックはもっと不定形で、音圧も不揃いの不格好なものだった。ここにあるのは完全に2020年型に改良され昇華されたまったくべつのものなのだ。

 だが、そこにある「どこであれいつであれ、この音で撃ち抜くよ」という清々しいまでに誠実な約束みたいなものに涙したのだ。ここまでの約束をされたら、それがたとえ5歳の子どもでも、あるいは野良猫だったとしても関係ない。侍の一太刀みたいなもので、この「ついて行きます」という気持ちになったとき、私はそのミュージシャンをロックンローラーだと思うのだと思う。

 それは客観的基準だなんて呼べるものではない。きわめて私的な体験なのだ。だが、ごく私的ではあるのに、一方では「音楽以外のあらゆる一切の関心抜き」の感動でもある。特定の思い出に結びついたり、個人的な記憶の感傷に行きつくわけでもない。もっと純粋で抽象的なものに結びついている。そういう点では、カント哲学もびっくりなほど純粋理性に訴えるものでもある、とまで言ったら大げさであろうか。

 では、ちょっとそんな私的な感情と距離を置いて人に勧めるならどう表現するか? たぶん令和版the brilliant greenというかな。声質もそうなら、好きな音楽に対する気取らなさ、まっすぐ「好き」を曝け出せるところが似ている。

 でもたぶん  the brilliant greenは今回の隠しトラックの「分別 OR DIE」みたいな曲はやらない。この「完全無欠のロックンローラー」から、とつぜん飲み会の二次会のように羽目を外してふやふやに戻れるところがラブリーサマーちゃんのすごいところでもありずるいところでもある。

 じつを言うと、隠しトラックという90年代の遺物自体があまり好きではない。CDをリピートするうえでこんな邪魔なものはないし、かつてMDに録音する文化だった頃ならやむなく最後の一曲を切ってしまうこともよくあった。

 今でも大抵の隠しトラックはよく飛ばす。ところが、ラブリーサマーちゃんはずるい。このトラックでだけ、それまでのロックンローラーが嘘みたいにいちばんふやふやな状態を見せてくる。ファンなら聴かないわけにはいかないし、聴いたら絶対耳から離れない。なんだよこれは。くそ、ロックンローラーに撃ち抜かれたはずが……。

 まあそんなさまざまな感情を往来しつつ、結局、今回のアルバムで本当に、完全に、脱帽してしまった。

 そしてこのアルバムの先行配信曲たちのおかげで、我が最新作も無事に書き上がった。もう、本当に頭が上がらない。なのでラブリーサマーちゃんにはどこまでも売れてロックンローラーの頂点に上り詰めてほしい。フジロックでいつか大トリもやってほしい。きっとそういう存在になっていけるロッカーだろうし、そうでなくても今、爆音でこの部屋を支配している事実は消えないのだ。

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