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ブラジル留学から製造業の起業家へ:価値観の変革の旅と意外な発見

こんにちは!株式会社Millyの北村丈です!
 今回は20代の留学経験がどのようにキャリア形成、また、製造業で会社を立てることに繋がっていったのか、私の体験ベースで書きました。
 海外に少しでも興味のある方が、この記事を読んで、一つの事象に対し、どのように考えを深めると、自分のキャリアややりたい事に繋がるかについて考えが深まっていくような少しでも良い情報が届ければと思っています!
 今回のテーマは留学に絞っていますが、私も日々、1つ1つのできた事象に対して、弊社が何ができるとお客様に喜んでもらえるかをずっと考えております!
 自分のやりたいことへの深め方やキャリアへの考え方を一緒に深めていきましょう!
 
 初めに、タイトルから気になった方も多いのではないでしょうか。なぜブラジルなんだと思いませんでしたでしょうか?笑

 私が周りにブラジル留学と伝えると、「なんでブラジル?笑」と半笑いでよく聞かれます。笑 

 なので、小学〜大学まで体育会で主将まで務めていたバスケット少年がなぜブラジル留学を志すことになったきっかけについてお話しします!

 まず、いつから海外に行きたいと思い始めたのかについてです。

 いきなりですが、私の下の名前は丈(ジョウ)というのですが、
「海外の人が呼びやすいのでこの名前にした」と両親から幼少期から言われていました。この名前を活かして海外に行きたいとはずっと考えていました。

 ただ、名前だけで留学に行けるかと言われるとそういうわけでもなく、
一般の大阪の公立高校に通い、
海外の大学にいきなり入学する能力も資金もなかった私は
大学生活中に留学するしかないと思っていました。

 そして、海外から来た留学生と留学前に共同生活ができる寮があることに惹かれ、東京の八王子市にある創価大学にいきました。

 そこで候補者70名の中、8名の面接に突破し、世界54カ国の留学生のお世話係の生活サポーターとして留学生寮に入ることができました。

 そこで出会ったのが、なんとブラジル人でした。

 身長2mのルーカスです。笑

下の写真の一番上、一番身長の高い優しい笑顔の彼です。

留学生に喜んでもらうために体育祭を企画した時の写真です。
世界54カ国から集まった留学生は本当に私の価値観に影響を与えてくれました。

 留学を目指す皆さんに共通して言えるのですが、海外に行くためには、
海外に行った方の話を直接聞き、
実際に海外の方と触れ合う(触れ合いに行く)、
そして、どうやったら行けるのかを直接聞く、
ことが一番近道だと思います。
当たり前に聞こえますが、これが私の体験ベースでは一番重要だと感じます。 

 私がルーカスと一緒に暮らして感じたことは、
ブラジル人は色んな人種がいるはずなのに差別を感じさせない突き抜けた明るさと陽気さがあるということです。
(アメリカは人種差別があると歴史の授業で聞いていてブラジルも一緒かなと思っていたので驚きでした。)

 私はお酒が好きでしたし、
(留学生の部屋だけ許されていましたがお酒は20歳からです)
ダンスしたり、
本当に日本人にない明るさがあると感じて、
実際に自分の目で見たいと感じました。

 そこで必死に勉強して交換留学と奨学金を勝ち取り、
親の負担なしで留学に行くことができました。

この環境が整っていたことは本当に大学に感謝です。

 そして、ブラジルでの生活がスタートし7ヶ月が経過した頃です。
(割愛しすぎて恐縮ですが別途ブラジルの回を設けたいです)

 ポルトガル語が0の状態で留学し、試行錯誤して、ある程度ポルトガル語が話せるようになりました。

 留学当初は、ポルトガル語が一切話せなかった私に英語で話してくれ、
 後半はポルトガル語でずっと話してくれた当時のパラナ連邦大学のバスケ部の主将のラファエルとの経験が私の価値観を変えてくれました。

 私も大学で主将をしていたこともあり、経済学部も同じだったこともあり、彼とはバスケ、経済の授業、語学力、全ての面で助けられた大恩人です。

この写真は大学内のバスケットボールのリーグ戦で準優勝した時の写真です。ラファエルは写真の真ん中の彼です。優勝したチームの優勝賞品のウォッカをくわえているのは私です。笑
 私のチームは準優勝なのにも関わらず、優勝したチームの真ん中で優勝賞品を我が物顔で持っているのは破天荒ですよね。笑 私の留学中の魔法の言葉は「私は外国人なので」でした。これをいうと何でも許されると錯覚します。要注意ですが、最強の言葉だと思います笑 (念押しですが、お酒は20歳からです。)

 本題の会社を立てるようになったきっかけですが、
彼の家に遊びに行った時の話です。

 私がタオルを借りて、シャワーを浴びた後、

日本でよくやるようにタオルを畳んで、

「ラファありがとう〜!」と伝えた時です。


目を真ん丸にして、
ラファエルが彼女のソフィアに向かって、

「おい!これみて!なんて、シンパーチコ(誠実)なんだ!!」
と。

そして、私の顔を見て、

「今までの友達のブラジル人でタオルを畳んだやつなんて一人もいなかったよ。」と言ったのです。
 
 その時に思ったんです。

日本人がごく普通だと思っている文化は海外の人からすると全然普通でないし、そこがビジネスチャンスになりうるんじゃないかなと。
 
私はブラジルに行く前、行っている途中、行った後も常にビジネスをしたいと思い続けて、周りに発信し続けていました。

 たとえ目の前の相手と関係なくても、曖昧で具体的じゃないと言われてもいいんです、言い続けて、アンテナを持ち続けることが大事なんです。

 これが20代に海外の地に行って、キャリアに繋がったポイントの1つでした。

 そして、ラファエルの自宅で起きた日のあと、 
私が経験した中で日本人の良さってどこだと言われたかと考えた時に、

相手の言っていることに対して丁寧かつ真摯に応える誠実さ、細かいことでも、ずっと続けることができる研究者的な忍耐力だと思いました。 

 他にも様々な良さがあるかと思いますが、私が体験した中で、海外の方よりも秀でていると感じた部分はここだと感じました。

 そして、その良さが一番表現されているのってなんだろうと考えた時に、それって「ものづくりだな」と思ったんです。 

 ラファエルの家の中を見渡した時に確信しました。
 日本ってこんなに優秀なのに、好かれているのに日本の製品って少なすぎる。これってビジネスチャンス絶対ある!と強く思いました。

そして、ずっと「日本のものづくり」と「世界」を繋げるような仕事がしたいと思ってきました。
 そこから海外商社→リクルート→キーエンスのメンバーで立てたITベンチャーに転職して、ようやく、製造業の横と横を繋げて売上に貢献するアイデアへと至ったのです。
 私がルーカスやラファエルとの出会いは偶然かもしれません。
 ですが、20代という若さで海外に行き、酸いも甘いも経験する中で、
起きたことに対して何でなのか、自分のなりたいことに何をすると近づけるかを考え続けることが起業することに繋がったのだと思います。
 
 この留学経験が仮に30代で留学していたら、ブラジル人の温かさを20代のように有り難く感じなかったでしょうし、カルチャーショックもちゃんとショックを受けなかったと思います。

 私が目指す世界はラファエルの家の製品、ブラジル、全世界に日本製品が多くなることを目指していきます。
 今回の記事で1つの起きた事に対して、なぜなのかを繰り返して、
自分のやりたいことに繋げていった経験がとても重要なことが伝わると嬉しいなと思います! 

 今回はブラジルに焦点を置きましたが、次は海外商社→リクルート→起業に至った経験についてもっと詳しく話したいなぁと思っています。

 最後まで読んでいただき大変ありがとうございました!

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