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K-POPを愛するすべての皆さんへ

はじめに

皆さんお元気ですか。
楽しく“推し活”していますか。
あなたの大好きな彼、彼女は今も私たちに笑顔と熱狂を届けていますか。

この文章は他でもなく、色んな感情を受け入れたり捨てたり迷ったり嘆いたりしてきた、それでもK-POPを心から愛してやまない皆さんと私に向けたメッセージです。

Twitterではあまり書かないようにしてきた比較的ネガティブなことも書いています。
心の整理のために書いているので自省の意味合いも自愛の意味合いもあります。

この文章は誰かを批判したり攻撃して何かを得たいわけでは決してありません。
ただ、この文章をきっかけに何か一つの“正解”を自分に強制せず、本当の意味でK-POPを愛するとはどういうことなのか、その自分なりの正解を見つける手がかりになればいいなと切に願います。


第一章 離れていく、変わっていく

まず一番に皆さんに伝えたいのは、不変なものは何一つないということです。
水が液体であり続けたくても温度が上がれば蒸発し温度が下がれば固まるようにあらゆるものは環境や時間の経過に沿ってその姿かたちを変えていきます。
ずっと水だと思い込んでいたものはもしかしたら作為的な温度操作によって液体であり続ける選択をしているのかもしれません。

アーティストも例外ではありません。
あなたがいつからか愛しているその人は紛れもなく変化し得る生き物です。
子どもがどんどん成長して時によって価値観が変わっていってもそれに苦言を呈する人はいないでしょう。

けれどアーティスト、とりわけアイドルはどうでしょうか。
アイドルは偶像でできています。
“本人”という軸はあっても、それはあくまでも骨格に過ぎません。
そこにたくさんの人たちの理想と希望と期待が肉付けされて今、あなたが見ている彼や彼女ができあがります。
その偶像には実態がなく、はっきり言っていわば虚無ですが、それをアイドル自身が受け入れたり進化させることによって実像に限りなく近い偶像が出来上がります。

これを残念と捉えるかどうかはファン一人一人次第でしょうが、AIなどではない以上、その偶像の取捨選択には本人の自由意志が必ず伴うわけです。
となると、“あなたという1人のファンにとっての正解”の度合いは一人一人によってムラが出るのです。
私はこのアイドルとファンとの対話の中で生じてしまう“ズレ”こそが、「こんな人じゃなかったのに」の根源だと考えています。

私自身も、数年前によく見かけていた人達はもうすっかりどこかに行ってしまって、ふと思い出すこともあります。
きっとどこかで元気に過ごしているのだと思っています。
その界隈という一つの世界線ではもう死んでしまったけれどもその人の所属する世界線は例えば推し活というところ以外にもたくさん存在するのですから。

第二章 エゴとの向き合い方

本当に難しいなと思うのは、人間は社会的な動物で群れないと生きていけない、そして人間はエゴをもつ生き物である、という事実にどう折り合いをつけるか、でしょう。
(生粋のホソクペンですから。EGOについて語らせてください。)

いくつか論点はありますが、ここでは
①コミュニティ
②承認欲求
③正しさを他人に追求することの正当性について
という三つの観点に絞ってお話します。

一つ目はコミュニティです。
推し活をしていて、コミュニティに属さずにひっそりと推す人はもちろん多く存在します。
ですが感情の昂りを共有することによって得られるものはやはり何物にも代え難いでしょう。

コミュニティは非常に有意義でその存在は確実に意味を成していますが、時として暴挙ともなり得ます。
コミュニティは集団意識を醸成する代償として排他的意識と選民思想をも形成します。

こうなるととても厄介で、人はそのコミュニティの内外で“よろしくない”任意の誰かに対して更生ではなく除籍や接近の禁止を求めるように動いてしまいます。
私はこの更生ではなくという部分が非常に重要だと考えていて、そこには性善説的な思考は生まれないのだなぁと痛感するものです。
(念のため記しておくとこれは人間性の説明であって私自身、この事実に対して更生を願っているわけではないのですが。)

二つ目は承認欲求です。
一つ目はやや普遍的に書きましたが、ここではあえて具体的に書いてみましょう。
推し活は承認欲求と純粋な好きという気持ちの折り合いがつきにくくなるなぁというのが、タイムラインを見ていた&作っていた
時にずっと思っていたことでした。

もともとは自分の好きだという気持ちを誰かに伝えたくてやっていたことが、いつしか、推しの存在そのものが承認欲求を満たす手段になっているんじゃないかと考えた人はどれくらいいるのでしょうか。

同時に、そんなことも気にかけずやりたいように行動すればどんなに幸せだろうかとも同時に思ったものです。

あとに書きますが推し活は結局、思考をどこまで放棄して本能のままに楽しめるか、それが全てでしょう。

三つ目は正しさの押し付けについてです。
先の話にも通じますが、結局、グレーなものをグレーなままに生きていけるか、そしてそれを他者に押し付けないか、が楽しむための重要なポイントだったように思います。

グレーなんだからいいじゃん!と言いたいのではありません。
ここでは皆さん一人一人が自分なりの楽しみ方を見つける場ですから私が思考を統制したくて書いているわけでは決してありません。

でも、界隈にはグレーなものを何の証拠もなしに白か黒に決めておきたくて、そしてそれをみんなが従えていないと気が済まないという人たちがたくさんいました。

転載や撮影の話だけをしているのではありませんよ。
それ以外の物事に対する考え方全てに対して「自分の価値観では理解できないけどこの人はこういう意図があるかもしれないな」と“行間を読む”ことができない人たちが多くいた。
そしてそれを主張する彼ら彼女らの声は大きすぎたのです。

第三章 あなた自身が環境適応できたか

私が「終わりではないが、一つの限界が来たのかもしれない」と思ったのは生存戦略の方針に対して、つまり最近の環境変化に対して私自身がもう適応しきれないと感じたからでした。

音楽性の変化も、コンセプトの変調も、価値観の変化も、兵役もなんら問題ではありませんでした。
元々の在り方に対する執着心が薄かったのも一つの理由だと思いますが、変化も一つのエンターテイメントだと思っていたので大した問題ではなかったのです。

でも最近は「あぁ、K-POPという市場がある段階において飽和したんだな」と思いました。 これは揶揄ではなくひと段落ついたことに対する理解です。
具体的なことに言及するのは野暮ですが、明らかに客数を増やす戦略から客単価をあげる戦略へとシフトしています。

今も粛々とアルバムを積み、気に入ったグッズは購入し、気の置けない友人とコンサートに行くことを楽しんでいますが、最近の戦略は私の環境適応の範囲内ではないなと思いました。

私は自らの自由意志で液体でいたいのです。
でも環境が個体を望むなら諦念を受け入れるしかありません。

これは棄権宣言ではなく、自分にとっての推し活の仕方にひとつ安寧の場所を見出しているのだと理解しています。

さいごに

あなたのそのグレーな感情に白か黒かを求める必要は果たしてどこにあるでしょうか。
ペン卒という明確な領域線を引いて活動の終止符を打つこともまた一つの選択肢ではありますが、迷いがあるならまだいいんじゃないですか。

この世は意外と色んな選択肢があって、世界も広くて、いくつもあって、そんなに思い詰めなくても案外やっていけるものです。

あなたがその“好き”という感情を少しでも心のどこかに住まわせてあげていられるなら、自分なりの向き合い方を探してあげてみてほしいと切に願います。

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