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三月三日

朝刊を取りに行こうとドアをあけたら、
あたりがにわかに霞みはじめた。
リビングのカーテンをあけたときには、
澄んだ晴天だったはずなのに。
おかしい、と思いながらポストをあけると、
新聞がない。

ははあ。と思いつつ、
家に戻りリビングに行くと、
案の定、ソファに腰掛けて新聞を広げる者がいる。

こほん、と咳払いをすると、
がさがさと音をたてながら、
新聞を高くかかげて顔を隠す。
もう一度、ごっほんと腰に手をあてて言ってみるが、
ますます新聞に顔を寄せるばかりである。
しかたがないので、キッチンに行き、
珈琲メーカーをセットしながら、鼻歌をうたう。

あかりをつけましょぼんぼりにおはなをあげましょもものはな

ごぉにんばやしの、と唄ったそのとき、
新聞のかさこそとした音が消えたので、
間髪入れずキッチンから顔を出す。
と、目があった。

申し訳ない、と、彼は言う。
なにぶんにも……どうかお許しいただきたく……
と、膝に手をついて頭をさげる。

その涼しげな目元と薄赤い唇に思わず見惚れ、
最初からそう言ってくれればよかったのに、
などと、つい拗ねたような口調で応えてしまい、
ひとりうろたえる。
思い出したように、一年に1度、
でも責めるつもりなど毛頭無くて、
などと、胸のうちで呟きながら、
あたしはこんな女だったか、と首をひねり、
ひねりながらも、
まぁ、しかたがないか、とも思う。
なにせ相手はお内裏様。
しかも、源氏の君に似ているし。

照れ隠しに「珈琲はいかが」と聞いてみると、
いや、と首を横にふる。
あ、そうでした。雛祭りには白酒でした。
いや、そんな、お気遣いなく。
と言いつつも、内裏様は新聞をたたみながら流し目をする。

どぎまぎしながら、あたしはなんとか立ち上がり、
あらぬ方向を見て、声高に言う。
あいにく。

あいにく、の「く」で、声が裏返り、
慌ててもういちどやり直す。

あいにく白酒はないのですが。でも、たしか甘酒なら。
いやいや、そんな。
お嫌いでしたか、甘酒は。
いえ、そんなことはないのですが。
それなら、すぐに甘酒を。

澄んだ光のさすリビングで甘酒をすする。
とろりと白濁した甘酒を、
内裏様とふたりですする。

窓の外は、白く霞がかかっていて、
湯呑みの中の甘酒のように、
とろとろと淡く輝いている。
ふと、お雛様はどうしているのか、と思ったりもするが、
そんな野暮なこと、とすぐに打ち消す。
いずれにせよ、今日限りのことなのだから。

何も言わず、甘酒をすする。
窓の外の春霞を眺めながら、
ふたりでひっそり甘酒をすする。
とろりとろとろと密やかな、雛祭りの朝である。

溶け残った酒粕のかたまりが、
奥歯に甘い。


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なんか。
七夕と雛祭り、混ざっているような。

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