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鎖にメスを入れる

毒親 という言葉をよく聞くようになった。
大人になって、中年と呼ばれる世代になっても未だ親からの圧力や過干渉に手こずる人たちが沢山いる。

そこには依存のパターンがある。
子は子で、親を満足させたい、自分を誇りに思って欲しい、認めて欲しい、という欲求に突き動かされ親からの干渉を受ける受け皿を作ってしまう。
あえて親をお手本にしたような生き方をする、
もしくは全く違ったやり方を見せつけてみたりする。
でも結局、親からの太鼓判を求めてのことなので、自分が満たされることもなく、常に喉が渇いたような状態になってしまう。
よくやったなぁ!あなたは、素晴らしい人間だ。誇りに思う。
と、言われたらそれでゴールなのかもしれないが、
親は親で、我が子に干渉したい、コントロールしたい、自分の存在意義を示したいという欲求を持っているので、そうやすやすとは花丸をあげない。
私がいないと、この子はダメね。
我が子と対等になるなんてとんでもない。
そういう思いがどこかにある。
そんな間柄は親子愛とは全く関係のない、
依存関係に見える。

ひとりの人間同士として向き合うことができるのか。
それが、依存関係を止めるということだと思う。
毒親の呪縛はなかなか簡単に解けるものではないが、子供側から、その鎖を断ち切るしか方法はない。
親は自覚がない。か、あっても見て見ぬふりだからだ。
大人になっても、親の顔色ばかり伺って生きるというのは、親を1人の人間として見ていないということ。
まず子供の方から、親を、人間として見つめ始めた時に、
今まで見えてこなかったものがクリアになってくる気がする。
言うのは簡単なのだけれどもね。
小さな変化。
たとえば、親からの小言にいちいち反応しない、とか。
自分の失敗や未熟なところを、親のせいにしない、とか。
とにかく日常の自分の選択は自分のものであるということを意識する。
もちろん、金銭的や、物質的な依存をしない前提で。

そして、親がすることにも、口出ししない。
こーした方がいいよ、やめた方が、
なんてアドバイスも聞かれない限りしない。
親の決断に、文句をつけない。
親があの時どうだったこうだったと過去に、答えを求めすぎない。
子に干渉される親は、同じように子を干渉する。
親と離婚する覚悟で、割り切って新しい関係を築いていく。

そして、同じ鎖を次世代の首に巻き付けない。
これは、負の歴史を繰り返さないため、全てに言えること。
一番身近な人物を、ひとりの人間として尊重できたら、悪いことはない気がする。

責めたい気持ち、怒りの気持ち、未練、憤り、後悔、すべての感情を感じ切った上で、
ある意味で過去を切り捨て新しい種を植える。
腐った根っこは戻らないとしても、生きている限り土(時間)はある。
種というチャンスは毎瞬与えられているのなら、次の木を育ててみる。

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