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繰り返し/飽き

ひとつ前の記事は病み散らかしてて恥ずかしい。あれを書いた時の死にたみからは脱却したけど、相変わらず先々考えた健康的な生活はしていない。何せアップダウンある双極性障害だし、享楽的な性格なので「丁寧な暮らし」とか全然できない。
もちろん嫌味じゃない。むしろコンプレックス。ルーティンが苦手なのだ。長年、躁と鬱に付き合わねばならなかった中で、それぞれの時期の特性を利用しなければ飼い慣らせなかった。だから毎日同じようには、したくてもできない。

映画『PERFECT DAYS』が好きだ。そもそもヴィム・ヴェンダース作品はほぼ好きだ。
同じような日々の繰り返しだけど慈しみ深く、ちょっとした日常の逸脱的な変化がある。ラストの「木漏れ日」のテキストは正にそれを示す。影が重なると濃くなるのかの問いに「変わらないなんて、そんなわけないじゃないですか」と言う平山に落涙した。
ただ、私自身はそうした「美」を、上前かすめ取るように享受するだけなのだ。日々を慈しんで丁寧に生きられず、享楽的に適当に過ごして。なのにパーフェクトデイズに落涙するなんて傲慢だと思う。上前かすめ取る以外の言い方するなら、搾取だ。
例えば都内のタワマンに暮らす人が、平山の暮らしを「良いよね、あんな風に生きるの素敵」と言ったら誰もが疑問に思うだろう。貴方はタワマンを選択しましたよねと。私の場合もそれとそう変わらないのだと思う。

日々を慈しんで、大切に生きていけたらなと思う。平山のような人は、ハイテンションにならない代わりに精神が安定している。低め安定。私には全然できないこと。何気にこの世で最も強い属性ではないかとも思う。
そんな私が、最近つくづくしみじみと、もう日々飽き飽きなんだよ!と思っていることがある。

それは、うんこ。

毎日毎日、数分の時間拘束をされて、快楽がある訳でもない。日によって、拭いても拭いても綺麗にならなかったりとかそんな変化いらない。出なかったら苦しいとかお腹痛いとかそんなオプションもいらない。とにかくもう、何十年も同じようなこと毎日毎日し続けていることに最近飽き飽きなのだ。面倒くさい。心底面倒。
先日、夫に「もう うんこ飽きた!」と言ったら笑われたけど、なぜみんな飽きないのか不思議だ。当たり前のことを当たり前として受け取れる人にとっては造作もないのだろうか。

そんな偶然の最近の思いからも、平山がトイレ掃除していることには意味があると思った。人々の日々の当たり前の営みの中の一部を担うトイレという空間を毎日綺麗に保つこと。きっと、植木に水をやる、朝に缶コーヒーを飲む、そうした事柄と地続きなのだ。


トップ画像はTHE TOKYO TOILET
坂茂による「ザ トウメイ トウキョウ トイレット」

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