言い訳
最近、土日のどちらかに1人タイムをもらって、外に出かけてnoteを書いていたのだけど、今日は諸事情で家にいる。つまり家族4人で家にいる。
……noteの文章が書けない。
いや文章はこうやって現に書けているのだけど、深い思考がままならない。
スマホのメモにはたくさん書きたいことが溜まっていて、私にしかわからないであろう単語や文章の切れ端が残っている。
このアイデアの中からいつも思考を膨らましているのだけど、どうも誰かの気配を感じる家では思考が進まない。
なぜだろう。
音楽やPodcastを聞いたり、YouTubeやテレビを見たり、本を読んだり、受動的なことはできるのに。
能動的な生産活動は私にとって、家族の一員でもなく仕事を持つ社会の一員でもなく、ただの一人の人になれてはじめてできる活動ということだろうか。
だとしたら、週末のnote執筆時間は自分のためだけに必要な贅沢な時間だ。
収入も発生しない、家庭を運営する一助にもならない。そんな活動が自分の根っこになって、自分自身を支えていたりする。
不思議なものである。
書くことは考えること。考えることは生きること。
失ってから気づくものも多いが、今回は一回失っただけで気づけたということで良しとしよう。
今日は「そんな日があってもいいか」と、自分を甘やかしてここまで。
来週こそガッツリ深めて書けますように。長い言い訳でした。
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