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日本人として「オッペンハイマー」をみて

"バーベンハイマー"がどうしても許せない

上映前キャンペーンであるバーベンハイマーの原爆イメージを見て、日本とアメリカの原爆に対する意識の違いに衝撃を受けすぎてずっと見れていなかった。

本作、バービーとオッペンハイマーはアメリカで7月の同日に公開された。両作品は傑作ながら、全く違う方向性の映画ということで話題となった。

そしてどちらもアメリカを象徴するような映画だ。バービー人形はアメリカの文化を象徴するもので、オッペンハイマーの題材である原爆はアメリカの科学技術の結晶であり、勝利の象徴である。

両作品は社会現象となり、X(旧Twitter)では「#Barbenheimer」(バーベンハイマー)というハッシュタグで盛り上がった。

問題はファンアートだった。バービーとオッペンハイマーを掛け合わせた絵だったがキノコ雲や真っ赤な炎が描かれ、原爆が無邪気に消費されていた。

そして、ワーナーの公式Xはそれに対し「忘れられない夏になりそう」などと返信する始末。

1945年8月に広島、長崎で起きた、起こされた悲劇をそんな風に茶化していいわけがない。

そして、この映画を見て思ったのは、「オッペンハイマー」は全くもって戦争賛美の映画ではいといあこと。そして、原爆や戦争の勝利に対して無邪気なアメリカ人に対して釘を刺すような内容も含まれていた。(これがメインテーマかと言われれば、そうではないが)

では、なぜワーナーは馬鹿げたファンアートを許したのか。

そして、こんなファンアートで盛り上がるような映画を見たアメリカ人には、またしても原爆の愚かさが響かなかったのだと。

私たち認識、考え方の隔たりは大きいと改めて感じさせられた。

公開初日「オッペンハイマー」をみた

初日に「オッペンハイマー」を見に行ってきた。
人生最後の学割で見る映画だった。

生まれて23年、割と映画を見てきた人生だ。その中でも1番好きな監督がクリストファーノーラン。大きくなってからはノーラン作品が公開されるたびに必ず初日に観にいっている。

ノーラン作品のイメージは内容が難解で撮影技法にリアルを追い求めている。さらにド派手で迫力がある。その中でも、ノーランの映画の好きなところは人の内面、愛や友情みたいな目に見えないけど大切なものに重きを置いていること。科学的なリアルさだったり、内容の難解さに目が行きがちで見えづらいけど、そんな温かみのある映画を作る人だ。

「オッペンハイマー」はいつものノーラン作品通り難解だった。時系列順には進まず理解するのが難しかったが、いつもと違った魅力を見せる本作がとても新鮮だった。前述の通り、ノーラン映画は登場人物の内面を重視した映画が多い。けど本作では、史実映画というだけあり、オッペンハイマーの内面がよりわかりづらかった。これまでのノーランなら、オッペンハイマーが持つ矛盾や繊細さをもっと前に押し出してもおかしくないかなと思う。本作は明らかにいつもの作品とは違い、そこも魅力的だった。

さらに、ノーランといえば映画音楽。ルドウィグ・ゴランソンの音楽も映画の迫力を底上げしていてよかった。

映画は3時間もあるが無駄なシーンは一切なく、ハラハラで一瞬で終わった。アクションやミステリーのようなドキドキではなく、常に戦争と原爆開発の緊張感が漂い、静かな尋問シーンとの対比で緩急がついていて飽きがこなかった。

演出はノーランらしさ全開の視点でのカラー、モノクロ切り替え。時系列順に話が進まないから意味不明な部分もあったが、それも相まって集中して見れた。

この映画は「原爆の父」と呼ばれる論理物理学者J.ロバート オッペンハイマーの歴史映画である。

勝手に本作のオッペンハイマーは「研究にのめり込んで倫理観が破綻していく」的なイメージの映画だと思っていたら全く違った。

最初からオッペンハイマーの倫理観は私生活から終わってて、意外と研究に没頭しているわけでもなく、むしろカリスマ性を武器にリーダーとして科学者たちをまとめ上げる政治屋だった。加えて、広島、長崎への原爆投下に対する罪の意識や原爆を生み出して世の中をより悪くしてしまったかもしれないという苦悩が見てとれた。

この映画は原爆投下ではなく公聴会でのシーンがメインだ。共産党員だという嫌疑をかけられたオッペンハイマーが挫折、落ちていく様が真にこの映画で伝えたいことであると思う。だが、日本人として原爆開発のマンハッタン計画や広島、長崎への原爆投下、また開発を主導した科学者としてのオッペンハイマーのことを考えずにはいられない。

原爆実験のシーンはカウントダウンは息できないくらい怖くて逃げ出したくなった。静かに描かれる爆発とは対照的に、実験成功や日本への投下成功への歓声が大きく映画館に鳴り響いてめちゃくちゃ怖かった。

オッペンハイマーとピカソ

映画序盤にオッペンハイマーは物理学者として抽象的なものと向き合っていると語っていた。そして、ピカソのキュビズムの絵を鑑賞するシーンもあったが「抽象的なものを追求する」という共通点があったとしてもピカソとオッペンハイマーは全くの別物だと思う。ピカソは自分のライフワークを使って戦争、暴力に反対し続けた人だ。

もちろんピカソの絵を引用したのはピカソの女性関係とかキュビズムと科学の関係とかももちろんあると思うけど。

日本人としての感想

ここからは被爆国として原爆の恐怖を教えられてきた日本人の立場から本作「オッペンハイマー」の感想を書いていく。

映画としては日本にリスペクトのある作りとなっていた。原爆賛美映画と評している人も散見するが、彼らは映画館で寝ていたんだろう。賛美しているとは全く感じなかった。むしろ原爆開発への疑念、過去への罪悪感が見てとれた。

一方で、当時のアメリカに日本は全く見えてなかったのを改めて実感した。日本は最初から蚊帳の外で、ナチスという絶対悪を制するものとして原爆は開発されたがヒトラーの自殺により行き場をなくしたゴールを仕方なく日本に向けただけだった。対象を見失って、投下しなくてもいいはずの原爆を「もう後戻りできない」という集団意識で踏みとどまれなくなっただけだった。手段が目的となる瞬間が怖い。

作中、「物理学300年の歴史のたどり着く先が、爆弾なのか?」というセリフがある。その通りだ。オッペンハイマーにはそもそも生み出さない、もしくは理論と技術力を持って原爆を抑止に利用する選択肢もあったはずだ。原爆開発の主導者として進言できたはずだ。アインシュタインは生前、原爆について「原爆実験を他国に見せれば戦争を終わらせ世界秩序を取り戻す提案ができた」と語っている。もちろん綺麗事かもしれないけど、ヒトラーが自殺したときに、思いとどまることはできなかったか。

共産主義者?としてソ連との繋がりもあり、ソ連に原爆のことを伝えるタイミングも確かにあったはずだ。また原爆投下反対に署名する瞬間あった。作中では、オッペンハイマーが何度も思いとどまるタイミングが描かれていたのが印象的だ。生み出した人ではく、使った人だけが悪なのだろうか。

第二次世界大戦において、日本はまごうことなき加害者である。日本が戦争に対して狂信的に突き進んでいたのは理解しているが、対話で解決できなかったのだろうか。一度でいいから対話を試みて欲しかった。だが、アメリカで原爆を投下するかしないかと言う議論は行われなかった。あったのはどこに落とすかだけ。

さらにオッペンハイマーが日本の原爆被害の写真から目を逸らしたことも許せなかった。オッペンハイマーは原爆を落としたことに対する罪の意識を抱いていた。

原爆投下が成功した後、オッペンハイマーの戦勝スピーチで大きな無数の足音が映画館に鳴り響いた。この映画で一番怖いシーンだった。群衆は「オッピー」という彼の愛称のコールとともに英雄である原爆の父、オッペンハイマーを称えた。感性に包まれたその空間には目を塞ぎたくなった。

そこで彼は罪悪感から幻影を見る。被爆した白人の女の子だった。日本人はここでも透明だ。彼は日本へ罪悪感を抱いているのではなく、祖国をも傷つける兵器を作ってしまったことへの後悔だった。いつか米国に帰ってくるかもしれない兵器という認識しかないように見えた。

「東京大空襲で10万人も死んだが国民から反発がなかった」と話すシーンが怖かった。どれほど残酷なことにも慣れてしまう人間ってすごいなーと思った。最近、世界で起こっている様々なことにも通じるところがある。私たちは原爆投下から地続きの世界に生きている。

被爆国として原爆の恐怖を教えられてきた日本人には、この映画の意味がかなり変わると思う。稀有な映画体験だった。

そしてクリストファーノーランの新境地、素晴らしい映画に出会えてよかった。

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