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note2年目で初自己(半生)紹介

これまで全く自己紹介というものをせずにnoteを続けてきたのに、そんなみーみーをそのまま受け入れてくれた皆様に大変感謝いたします!

noteから「2年が経ちました!」という報告が来たので、それを節目に自己紹介をしたいと思います^^ただ、なぜオランダにたどり着いたのかはほぼ人生を語らないと理由付けができないので、長くなることを先に言っておきますね(笑)

ちなみに2年前、noteを始めて一番最初に投稿したものはこちら↓

”みーみー”のハンドルネームは幼い頃によく両親や知り合いから言われていたあだ名です。​成長しても言われ続けているのでSNSをやる際に名前が思いつかず、安直に出てきたのがコレ。みなさん素敵なハンドルネームを付けられていていいなぁ~っていつも思ってます。

ピアノを始めたのは3歳。といっても親がたまたま二人とも音楽関係でピアノが弾けたので、時間に余裕のあった父から初めの手ほどきを受け、その後母の元ピアノの先生(A先生とする)についてきちんとレッスンを受け始めました。

このA先生についたのが良かった。

父からよく言われたのが、みーみーの耳と記憶力が物凄く良いため聞いたものはすぐ弾けるようになっていたが、楽譜を読むことが全く持って亀の歩みのように進まずほとんど読まずに耳で覚えて弾いていた。

よって従来のやり方ではなくアメリカ式のレッスンや教材を取り入れていたこのA先生のやり方がみーみーには合っており、あまり楽譜を読まずにやってこれた。また、アメリカ式なのでドレミではなくABCで音を覚え、それが後々とても身を助けることになるとは夢にも思わず・・・

10歳、初めてコンクールを受けました。

人前で弾くのが発表会しかないのは舞台経験値があがらないという理由と、他の同い年の上手な子達の演奏がどんなものなのかを知る=視野を広げる、という親の理由からでした。ハッキリ今言えるのはみーみーはコンクール嫌いです(笑)

当時はあまりコンクールというものがよくわかっていませんでした。同じ曲を他の子も何度も何度も弾いていて、あんまり差もないし面白くないなーと思ってた生意気ガキでした。しかも舞台袖でませた同年代の子たちと一緒に椅子に座って並んで自分の順番を待つって、凄く緊張もするし違和感でした。

前の子が舞台へ消えていったら席を詰めて・・・

どんどんと近くなる自分の番。

今考えると工場のベルトコンベアみたいですね

まだ10歳とかは緊張しなかった年齢で、あまり練習もしなかった年齢でもありました。一番舐めてたなと思うのは楽譜がろくに読めないのに課題曲であったモーツァルトのソナタの一楽章を弾いて出たこと。

聞き覚えだから色々間違ってるところ多いのにそのまま出る恥みーみー(笑)もちろん結果は予選落ちです。

コンクールにはそれから毎年のように出ましたが、全て予選落ち。

向いてないなと中学くらいの時に思い始めます。

どんなに上手く弾けたと思っても、審査員が良いと思わなければ通らないし。接戦だった子がいたけどもしかしたらあの子が通るかも、と聞いていた親が予想するとその通りになったり。もうコンクール嫌い!になりました。

さて、ピアノの先生ですが、A先生はその10歳の初コンクールあたりを機にやめて次なる新しい先生を探すことに。

(10歳)11歳~12歳に出会ったB先生がいましたが、相性があまりよくなくみーみーはピアノを弾かなくなり、それを見た親が新しい先生を探してくれました。

13歳で出会ったC先生はみーみーの大きな節目となる先生の一人でした。

譜読みが嫌いで遅いみーみーを辛抱強く相手してくれ、軟弱なテクニックをアップさせてくれ、コンクールでの演奏も飛躍的に進歩させてくれた恩師です。

ちなみにこの頃から海外経験が介入してきます。

13歳の夏、毎日新聞で中高生だけでアメリカの田舎へホームステイするという企画があり、親が「行ってみたい?」と聞いてきたので迷わずに「うん!」と言ったのが、オランダへ導くきっかけとなったのです。でもちょっとドキドキしていましたよ!だって英語全くできないもん!

アメリカはユタ州。グランドキャニオンやソルトレイクシティ、そのほか巨大な自然公園や化石堀など日本では絶対に目にしない、そして体験できない貴重なアクティビティの毎日が3週間。英語という言葉の壁も全く感じずに毎日が楽しくて仕方なかった。すっかりアメリカの習慣や文化が気に入って成田空港に帰ったみーみーは「また来年もいくぞーー!」と豪語すると、親は「行かない行かない(;´Д`)」と、内気だったみーみーが別人になって帰ってきたことに驚いていました。

14歳。自分の人生の中で大きな節目となるイベントの一つ。ポーランド・ワルシャワで5年に一回行われるショパンコンクールを観覧するツアーというのがあり、これもまた親が「行く?」と聞くので「うん!」と一つ返事で行くことに。ただ一つ問題がありました。学校です。ショパンコンクールは10月の秋真っただ中。コンクール一次予選は1週間、本選まで聴くとほぼ一か月の滞在です。さすがに1か月学校を休むのはまずい、どうしよう。

と、学校の予定を見るとなんと文化祭期間とかぶっているじゃないですか!じゃあ一次予選だけならなんとか行けそうだ、と学校にはポーランドへ発つ当日の朝に休むと連絡。もちろんツアー未成年参加者は私だけなので一緒に参加していた大人の方たちにお世話になりました。この方たちの何人かはいまだに交流が続いています!!

15歳。これだけ海外で一人で行ってるのだからタフな心臓だと思うでしょう。しかし違う。学校の修学旅行で福島へ行くことになったのだが、みんなが出発する日、みーみーはコンクール当日だった。学校には「コンクール受けたらあとから行きます」、と伝え弾き終わったらそのまま新幹線に乗って福島へ・・・しかし両親は次の日仕事があるので、新幹線には自分一人で乗っていかなければなりませんでした。それはもう分かっていたのですが、いざ新幹線に一人で乗ると不安と寂しさで涙があふれてしまいます。窓際にいる父も心配そうに見ていたら、丁度みーみーの隣の席のサラリーマンのお兄さんが「僕も同じ場所まで行くので大丈夫ですよ」と、父と私に安心の言葉をかけてくれました。

これまでの海外や遠出には必ず誰かが一緒にいた。しかし、新幹線という降りる駅を過ごしたら次どこに停まるかわからない超高速列車に一人で乗るなんて恐怖の何物でもなかった。みーみーは幼い頃から初めてのことに全部泣いてきた。だから親は何か新しいことをやらせるたびに呆れていたでしょうね。

しかし道中、この親切なお兄さんには仕事の電話が幾度となく入り、席と通路と行ったり来たりしながら最終的に「ごめん!僕ちょっと手前で降りなきゃいけなくなった。でも君の駅はその次だから、大丈夫だからね!」とめっちゃ安心させてくれる言葉を降りるまでかけてくれました。が、内心安心できませんよ!ちょっっ・・・・おにーーーさーーーんん!!!と心の中で叫びながらも、彼の言葉を信じて頑張りました。下車駅できちんと降り、駅からタクシーを使って学校のみんなが泊まる宿へ無事到着。ほんとは保護者がいないといけないのですが、先生に宿の中で会った時に「そのままタクシーで帰りました」とやり過ごしました(笑)この体験は他人の優しさを知り、自分のハートを鍛える良いきっかけとなりました。


16歳。これまた進路を考えるきっかけを与えてくれた先生と出会います。

場所はオーストリア・ウィーン。まさに音楽の都へやってきたのです!音楽をやっていればあこがれの地。ウィーンの著名なピアニストの先生が夏期講習でプライベートレッスンをしてくれるチャンスが訪れます。これもまた親からの提案でした。しかしここで習っていたC先生に行くことを反対されてしまいます。夏休みは家にいて練習をしなさいと言われました。が、多感な時期は今しかないという親の判断で半ば先生の意見を押し切って行ってきました。

夏期講習はとても実になる素晴らしいものでした。先生はアレクサンダー・イエンナーという見た目は少し怖いですが、とてもお茶目でかわいいおじいさん先生。彼が一度弾いて聞かせてくれたエレガントで華やかなショパンのワルツは一生忘れません。ここでみーみーは「自分の生徒に自分で弾いて聞かせる」というレッスンスタイルを学びます。

17歳。C先生との意見がだんだん合わなくなり、自分の進路もどうするか真剣に悩むようになります。日本の音大も考えて14歳と15歳の時に2つの音大の講習へ参加しましたが、今一つ自分がやりたいと思うようなものではありませんでした。でもC先生は私を見込んでくれて音大を薦めてくれたのですが、それがだんだんと重荷となってしまいレッスンを辞めることになります。しかし同時に新しい出会いがあり、これがオランダへ飛ぶ重要なきっかけとなります。

ショパン・コンクール以来、ショパンフリークになっていたみーみーは東京でやっていたショパン展というものを家族と一緒に観に行き、ショパンの遺品や絵、楽譜など心躍る展示の最後においてあった楽器店のチラシを手にします。それは「ヨーロッパピアノを置いています」と面白そうなことが書いてあった楽器店の広告で、すぐに連絡して観に行きました。するとそこは本当に日本のピアノ屋さんでは見たことのない、プレイエルやベーゼンドルファー、ベヒシュタインなどが置いてありこれまた楽しい時間を過ごしました。それを見ていた店主が「よかったらこちらのコンサートもいかがですか?」と持ってきたチラシが、まさにそのあとみーみーのD先生となる方のものでした。

D先生はオランダ人。でもめちゃくちゃ日本語が上手で、それをツールにヨーロッパ(オランダ式)のレッスンをしてくれ、みーみーにはとっても新鮮で直に理解できたので吸収が早かったです。でも先生が意図することを理解するのに時間がかかりました。日本で受けてきたレッスンと全然違うからです。けれど必死になって先生についていき、やがて進路の話になった時、「日本の音大を受けるのか、ヨーロッパの音大を受けるのか決めた方がいい」と先生から言われ、ヨーロッパの音大に絞ることに決めます。

やること全て英語で理解すること、弾き方も変えなきゃいけないことなどやることが沢山あって日本とヨーロッパとの両立は私には不可能でした。なのでD先生の迫る選択はありがたかったし、これがみーみーがオランダへ渡る理由となったのです。実はロンドンの音大も受かっていたのですが、学費が目玉2mくらい飛び出るほど高く、オランダの音大は逆に0足りなくない?と驚くほど安価だったので何がなんでもオランダの学校に受からなければならない!!となったのです(笑)

18歳。高校卒業直前、地元のコンクールを受けたらまさかの予選通過!本選でショパンのバラード1番を弾いたらなんと一位をもらうことができました!ここまで長かった・・・あとにも先にもこんな快挙はこの時だけ(笑)

しかし高校を卒業し、すでにみんな大学生になっている春、私はまだ受験準備をしていました。みんなが先にいってしまう寂しさや不安がありました。しかも受からなかったらどうしよう・・・という心配も。

けれどとりあえずやってみなければわからない。6月頭にある入学試験(実技と筆記など)へ向けて一人オランダへ飛びました。親はまた仕事なので同行できず。よって、すでに予約しておいた日本人の経営するホテルに泊まり、電話を借りて到着したことを報告。ホテルのオーナーさんにはお世話になるのでと、日本の美味しいそうめんを持っていきました。

入試当日(実技)・・・きちんと弾けていたと思います。いったん部屋の外に出され、不安な気持ちで待つ5分は長く、とうとう呼び戻されてその場で結果が言い渡されます。

「Congratulations!」

言ってる意味が分からず、みーみーはぽかーんとしていました。それを見た先生たちが「言ってることわかる?受かったんだよ?」と笑いながら言ったので、その様子でみーみーもやっと自分が受かったことが分かって安心したのを覚えています。のちの筆記試験で「英語やってきてね」と念を押されます(笑)

この入試でショパンも弾きました。考えてみれば、初めて弾いたクラシックの作曲家は8歳の時に弾いたショパンの小犬のワルツ、14でショパンコンクールで感化され、18のコンクールでショパンのバラード1番で一位、そして入試でも弾いて合格、となるとショパンにあやからないわけにはいかなくなるのです!(笑)ショパン様、ありがとう!!!

とにもかくにも、こうしてみーみーはオランダで6年間ひたすら勉強の毎日でした。オランダの学校は入るのは簡単でも出るのが難しく、最初の4年間はほぼ遊ぶ暇などなくアムステルダムの街すらあまりよく知りませんでした。

言葉の壁もあって日本に帰りたくなりました。

そんなとき親から「辛かったら帰ってきていいんだよ。それで家事やったりして過ごせばいいじゃん」というメールが返ってきたときには、絶対に帰らないと心に誓い、最初の一年は帰らずにオランダで過ごしました。

もちろん一年ぶりの家族との再会は涙なしではいられませんでしたが。

卒業後は他国へさらに勉強しに行こうと思いましたが、あいにくヨーロッパ内でのビザ取得が困難な時期に突入してしまい、一番簡単なオランダにそのままいることにしました。

ビザを取るために卒業後は日本のブラック企業にちょっとだけ勤めましたが、早々に辞めて自営ビザで個人レッスンなどの仕事を始め、今は個人レッスン・2都市の小学校での伴奏員・アムステルダムのミュージックスクールでの講師をしています。

知ってる単語を並べて下手くそなオランダ語で大丈夫なのかな?と首をかしげながらレッスンしています。でも音楽に国境はありません。子供たちがみーみーのピアノで笑顔になるとき、それがみーみーの一番幸せな時間なのですから。


長々とお付き合いありがとうございました☺️

これからもこんなみーみーを宜しくお願い致します。

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