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Let's鬼退治!

とある女の子の物語  

あたしに出来ることなんて、本当にちっぽけで役立たずで、なんの意味もないことなのかもしんない。だけどこのまま何もしないで終わるのは、本当にイヤだったの。


はじまり


あたしはそこにあった古いこん棒を拾いあげ、肩に担いだ。

「ねぇ、やっぱり鬼退治に行く」

 そう言ったあたしに、ママとパパは驚いてギョッと顔を上げた。

緑の芝生の広がるお庭の先にある、小さくてかわいいケーキ屋さん。

大好きなあたしのおうち。

「えぇ! なんだって?」

 大きな小麦粉の袋から、今日使う分だけのとりわけ作業をしていたパパは、今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。

「やめてよそんなこと、ももちゃんのすることじゃないでしょー!」

 手伝っていたママも、呆れたようにため息をつく。

「だからさぁ、そういうことは他の人に任せておけばいいんだって、あれほど……」

「だって!」

 だって、あたしのこの大切な世界が滅びようとしているんだよ。

そんなのほっとけないし。

「ごめん、もう決めたから。行くね」

 散々考えた。

もう何日もそのことで頭がいっぱいで、全然眠れなかった。

あたしに出来ることなんて、本当にちっぽけで役立たずで、なんの意味もないことなのかもしんない。

だけどこのまま何もしないで終わるのは、本当にイヤだったの。

「ちゃんと帰ってくるから」

 あたしの決心に、ママはふぅとため息をついた。

「日が落ちる前には帰って来て」

 パパはそんなママに対してキーキー文句を言って怒ってるけど、ママは気にしない。

「これ、ママとパパで焼いたクッキー」

 小さなころから食べている大好きな手焼きのクッキー。

ガラスのショーケースの上にいつも飾られている。

かわいくラッピングされたその一つを、ママはあたしに手渡した。

「お腹が空いたら、これを食べなさい」

「うん」

「今夜はシチューにするから」

「分かった」

 ママはいつだって、あたしの一番大事なことを分かってくれる。

あたしの大好きなご飯が、とろけるような甘いシチューだってことも、ちゃんと知ってる。

「じゃ。遅くなっても心配しないで」

 武器はこん棒一本、服は学校の制服で十分。

制服って、本当は戦闘服なんだと思ってる。

「ママは言ってることと、やってることが矛盾してます!」

 まだ怒っているパパの隣で、ママは笑顔で手を振る。

よく晴れた月曜の朝、あたしは鬼退治を始めることにした。


第1章

 いつもの駅でいつもと反対のホームに立つ。

一度やってみたいと思っていた。

月曜の朝にいつもと反対の電車に乗って、行けるところまで行ってみること。

肩にかついだこん棒をじろじろと見られていることは知ってるけど、覚悟の決まったあたしにはそんなこと関係ない。

こん棒は鬼退治を目指す者の修行中の証。

正当な剣士と認められれば、刀が授けられる。

あたしにそれをくれるのが、どんな人になるのかは知らないけど。

 車窓から差す朝の光は眩しくて、それが月曜の朝の学校サボりってだけで、また特別な感じがする。

トンネルを抜けると、視界に海が飛び込んできた。

ずっとずっと電車に揺られていた。

海なんて見るの久しぶり。

行く当てなんてどこにもなかった。

偶然停まった駅で気まぐれにホームに降り立つ。

スマホでチェックしてみたら、案外海まで遠かった。

それでも歩き出す。

「うわ、こん棒担いでるよ、こいつ」

「鬼退治かよ、ダッセー!」

 集団登校の小学生たちが、そう言ってあたしを指さす。

キッとにらみ返したら、高い声できゃあきゃあと笑いながら駆け抜けて行った。

その最後尾にいた女の子がくるりと振り返る。

彼女はあたしを見て、グッと親指を突き出した。

『グッドラック。幸運を。君の歩む未来に幸あれ』

あたしもすぐ、同じようにそれを返した。

他の子には見つからないように、こっそりと出された親指と、そのランドセルを見送る。

ありがとう。

あなたの気持ちは受け取った。

大丈夫よ。

あたしは負けない。

朝の住宅街はどこまでも平和で、あたしは人々の行く波に逆らい海を目指す。

「どうしたの?」

ある日の昼下がり、ショッピングモールで泣いている女の子を見かけた。

つい数日前のことだ。

彼女はしきりに泣きじゃくり、鬼が出たと訴えていたのに……。

小さな女の子だった。

あの時のあたしも。この時のその子も。

 他の誰も声をかけないから、思わず足が動いた。

泣いている小さな肩に触れたら、彼女は涙をとめどなく流しながら見上げた。

「鬼が……、鬼がいたの。あたしの腕をつかんで、連れて行こうとしたの。逃げ出したら追いかけてきて……」

 大丈夫よと言って、抱きしめた。

あたしは泣きやんだ彼女と手をとりあって歩く。

鬼が出たと言われて連れてこられたのは、イベントホールのど真ん中だった。

「本当よ。さっきここにいたの」

「信じるよ」

 丸テーブルと椅子が並んでいる。

真ん中には大きな白い樹のオブジェがあって、クリスマスでもないのに金の飾りつけが輝いていた。

賑やかな音楽が流れ、行き交う人々は思い思いに過ごしている。

どこにでもあるごくごく普通の風景で、おかしなところは何もない。

彼女の両親と思われる二人が駆け寄ってきた。

「どこへ行ってたの、心配したじゃない!」

 その時の彼女があたしの手をぎゅっと握りしめたことを、一生忘れない。

「ママとパパ?」

「うん」

 小さな手は自ら離れていった。

あたしは迷子を連れてきたお礼を言われ、そのまま手を振って別れた。

「もう鬼は大丈夫なの?」と聞いたら、パパはその子を叱った。

「またバカなこと言って」って。

彼女は真っ赤な顔をしてうなずいた。

あたしはそれに悲しくなる。

知ってるよ。

キミが嘘なんかついてないってこと。

 空気に潮の香りが漂い始めた。

空の色はわずかにその色調を変える。

海岸線に沿ってたくさんの樹が植えられていた。

この向こうには海があるんだってことが、何となく分かる。

防潮堤代わりの国道を乗り越えた。

 あたしが鬼の姿をはっきりと見たと覚えているのは、やっぱり小学生の時だ。

二年生くらいだったと思う。

友達数人と自転車で遠出をしていた。

ちょっとした冒険のつもりだったのに、道に迷ってすっかり帰りが遅くなってしまった。

太陽は沈み空は真っ赤に燃え上がり、すぐそこまで夕闇が迫っていた。

あたしたちは自分が今どこにいるのかも分からなくて、誰もが焦っていた。

本当に家まで帰り着けるのか、それすら信じられずにいた。

このまま世界から取り残されてしまうような気がして、ちゃんと言いつけを守らなかったことを、黙って遠くに行かないという約束を破ってしまったことを、後悔し始めていた。

 互いに非難をする余裕もなくなっていて、ただただペダルをこぎ続けた。

次第にハンドルを握る指先は冷たくなり、足も疲れてくる。

どうしてこんなことをしちゃったんだろう。

家から出なければよかった。

こんな冒険、言い出したのは誰だっけ? 

「自分は行かない」って、どうして断らなかったんだろう。

 見つけた公園で一休みした。

トイレに行きたいという子たちが連れだって行ってしまい、一人でベンチに座っていた。

背後から伸びてきた醜い手が、あたしの腕をつかむ。

引きずりこまれそうになるのを、なんとか踏ん張った。

「違うよ。こっちだよ。何してるの? ちょっとここで休憩していかない? お菓子あるよ。食べる? 大丈夫だから」

 そんな声が聞こえた。

叫びたくても恐怖で声が出ない。

「この道、来るときも通ったよね!」

 やっと戻ってきたみんなの姿が見えた。

仲間の誰かがそう言って周囲を見渡す。

鬼の腕はスッと姿を消した。

「あそこの病院、おばあちゃんが入院してるとこ!」

 遠くに見えたその建物には、確かに見覚えがあった。

車でいつも通る道沿いにある病院で、もう知っているところまで近い。

「近道しよう」

 自転車にまたがったみんなのところへ、あたしは駆けだした。

ただでさえ不安で一杯のところに、何も言えなかった。

目印となった病院を目指して進路を変えようという話しになった。

川沿いの遊歩道をずっと走ってきたのだから、そのまま道に沿って進んでいればよかったのに、あたしたちは方向転換した。

まだ鬼がこちらを見ていることに、気づいているのはあたしだけのようだった。

「そのまままっすぐ行こうよ」

「絶対こっちの方が近道だって!」

「どうして? この道を通ってきたのに……」

 一人にされるのが怖かった。

走り出したみんなの後に結局ついて行った。

低く唸るような鬼の声が聞こえ、背筋が凍る。

 結局その時の彼女たちの提案は正しくて、今になって地図をながめてみると、川沿いを行くより随分とショートカットされていた。

あたしたちは完全に真っ暗になる前にそれぞれに家にたどり着き、誰からも怒られずママも何も言わなかった。

「おかえりー。楽しかった?」なんてキッチンに立つママに言われて、「うん!」と元気よく答えた。

あたしはもう見えなくなった鬼の影におびえて、腕についた真っ赤なアザのことを誰にも言えずにいた。

 それ以来、鬼の存在を感じる度にこのアザは痛みだす。

反発なのか抵抗なのかは知らない。

成長するにつれその感覚は次第に大きくなり、ついに恐ろしいその姿を目撃してしまった。

 真っ赤に腫れ上がった顔に潰れた目。

太く短い角は何よりも禍々しく、吐く息は甘い異臭を放ち、その人を見下ろした。

伸ばされた筋肉質な腕とかぎ爪は彼女の腕をつかむ。

捕まったその人が喰われ、潰されていくさまを、怯えながら陰に隠れ息を殺し目も耳も塞いでやり過ごした。

もう二度とあんなものは見たくもないし、誰かを犠牲にさせるつもりもない。

月曜朝の海岸は信じられないほど広々としていて、あたしがいつも電車に揺られている時間に、こんな世界がすぐそばにあったのかとびっくりする。

学校がイヤなわけでも、友達や家のことがダメなわけでもない。

ただこのまま何にもしないで終わってしまうのかと思うと、果てしなくそれに耐えられなくなっただけ。

 清掃ボランティアのおばあちゃんおじいちゃんたちが通り過ぎてゆく。

砂浜にうずくまったままのあたしの隣に、こん棒の転がっていることだけはジロジロ見て、何も言わず通り過ぎていった。

 鬼って、普段はどこにいるんだろ。

 鬼検索アプリを起ち上げてみても、地図上にはどこにも表示されていなかった。

まぁそんな簡単に見つかっちゃうようなら、『鬼』って言わないか。

 こん棒をつかみ立ち上がる。

手についた砂を振り払った。

「えいっ! やぁっ! とぉぅ!」

 澄み切った青い空と海に向かって、無心にそれを振り回す。

剣道とかやったことないし、昔見たような気のするアニメの主人公になったような気分で、かっこつけて振ってみたりなんかしてみただけ。

 踏み込んだ足から靴に砂が入る。

その靴も靴下も全て脱ぎ捨てた。

体が熱い。

じんわりと汗が浮きあがって、自分の腕すら重たくなってくる。

それでもあたしは振り回し続けた。

「痛っ」

 素足に何かを踏んで、こん棒を落としてしまう。

足の裏をのぞき込んだ。

その場にしゃがみこんで小さな貝殻をつまみとると、海に向かって放り投げる。

砂浜の向こうで青い空と海はどこまでも広がっていた。

 もう鬼なんていないんだからとか、この世からとっくに滅んだなんて言う人もいるけど、あたしは信じていない。

だって時折痛むこの腕がなによりの証拠だし。

だけどそんなことを言っても誰も相手にはしてくれないから、言わないだけ。

既に滅んだと言われている鬼はまだどこかにいて、それと戦っている人がいる。

周りの人たちはバカなことをと笑うけど、やめるつもりはない。

何度そんな言葉に騙されただろう。

大丈夫だと、平気だと言われて連れて行かれたその場所にはいつだって鬼が潜んでいて、気がつけばガッチリと取り囲まれていた。

そこから抜け出すことは出来るけど、アイツらはいつでもそこにいて、ニヤニヤとあたしを見下ろす。

その姿がどうして他の人には見えないのか、ママにもパパにも分からないだなんて、納得いかない。

気のせいだとか考えすぎだとか、もう子供じゃないだなんて、もっと合理的に考えろとか、損得感情も時には必要だとか、あたしにとって大事なのはそんなことじゃなくって、ただ我慢ならないだけ。

どっちの方が得かだなんてとっくに分かってる。

うまく利用して上手にやっていくのが正解だなんて、言われなくても知ってるよ。

だけどね、そういうことでもなくない? 

あたしのこのモヤモヤとした行き場のない感情は、どうすればいいの? 

そんなものを抱えたまま生きろというのが、本当の鬼の正体のような気がしてきて、あたしまますます意地を張る。

だってそうでもしないと、やってらんない。

 お日さまはどこまでもキラキラとまぶしくて、それに負けないくらい海もキラキラしていて、あたしはどうしたってそんなキラキラには勝てそうになくて、だけどまぁ相手がお日さまと海とにだったら負けてもしょうがないかなんて、思い直してみる。

「帰ろ」

 お腹空いた。

ママからもらったクッキーの袋を開けて食べる。

清掃ボランティアのおじいちゃんがこっちをにらみつけながらまた通り過ぎていったけど、ゴミはちゃんと持ち帰りますよーだ。

 時計は9時を過ぎたころで、じゃあ今から学校行っても午前の授業にはまだ間に合うなーとか考えてる自分も、それなりに悪くないと思うんだ。

 スカートの砂を払ったら、準備万端。

気分も落ち着いた。

こん棒も忘れない。

もう一度それを肩に担ぎフンと鼻を鳴らすと、あたしは歩き出した。



第2章


 駅まで戻って電車に乗る。

朝のラッシュは解消されていて、それなりに空いていた。

「ねぇねぇキミ、鬼退治は出来た? ん? どうなの?」

 こん棒を見かけたおっさんが声をかけてくる。

本人は優しい笑みを浮かべているつもりなのかもしれないけど、人を見下したゲスい下心がミエミエだ。

「鬼ってどう? やっぱ強いでしょ。倒せた? どう? それともやられちゃった?」

 ニヤニヤした臭い息があたしにかかった。

「……キモ」

 そのとたん、おっさんの顔に怒りと侮辱と卑下たプライドが渦を巻く。

「嫌だなぁ。誤解しないでほしいなぁ。僕はね、心配して聞いてあげてるんだよ。頑張ってる子は応援してあげたいと思っているから。そりゃキミはもちろん頑張っていると思うし、余計なお世話だっていうことは分かってるよ。だけどね、僕はキミみたいな若くてかわいい女の子が……、いや、女の子は誰だってかわいいと思ってるよ。年齢とか関係なく全ての女性は……」

 ため息が出る。

やり過ぎなくらい下手に出れば、その下心はバレないとでも思ってるのかな。

「消えろよ、ウザいって」

 もう一匹退治してきたとか、これから倒しに行くだとか、いくらでもテキトーなセリフは思いつくけど、相手にするのもうっとうしいときはこの一言に限る。

明らかに気分を害したらしいおっさんは、ニヤついた顔を豹変させた。

「っんだよ、このガキ。これだからクソ女どもは、どれもこれもまともにしゃべれもしねぇ。だから鬼退治とかやってるヤツはバカって言われんだよ。世の中つーものがどうなってるのか……」

 さっそく怒り始めた。

ブツブツいいながらスマホを高速タップしている。

やっぱキモい。

つーか盗撮してんのバレてるからな。

面倒くさいからなんも言わんけど。

 次の駅で逃げるように電車を降りたおっさんの背中を見送る。

こん棒をずっと肩に担いでるのもいいけど、片手が塞がっちゃうのは辛いな。

やっぱベルト買ってこよう。

どんなベルトにしようかな。

制服のスカートに似合うやつがいいな。

吊り下げるか、背中に背負うか、普通に腰に差すような感じのか……。

遠くでクスクス笑う声が聞こえる。

「アレなんのバット? 短くない? 使えねーだろ」

「ダセー」

「いまさら鬼退治? つーか鬼ってまだいんの?」

「アレならお前でも楽勝に勝てんじゃね?」

「こん棒だし、カタナじゃねぇし」

「つーか木刀だろ? 実質。そんなの担いでる女ってどうなの?」

 あたしが視線を向けると、彼らはドッと笑った。

20代くらいの男3人。

バカの相手は出来ないので黙っている。

笑いたきゃ笑えばいい。

聞こえるように言って、あたしが困ったり恥ずかしがるかもって、そんなのを遠くから眺めて楽しむつもりだった? 

どうせあいつらには何にも出来ない。

3人が1人降りて2人になった。

急に大人しくなって、それぞれにスマホをいじり出す。

つまんない男にはスマホより楽しい友達なんていないんだろうなと、そういうのを見るたびにいつも思う。

あたしはくるくる巻いた黒い天パの短い髪を引っぱって整えた。

地下鉄の窓に映るあたしの姿はやっぱかっこいい。

こん棒あるしね。

 ようやく学校の最寄り駅にたどり着いた。

朝のラッシュ時では考えられないくらい少ない人通りだ。

そういえば、こん棒担いでこの改札を通るのは始めてだな。

これから毎日よろしくね。

あたちたちはもうずっと一緒だよ。

 階段を駆け上がる。

いつもの通学路を10分も歩けば校門は目の前だ。

見慣れたはずの街並みが今日は違ってみえる。

新しい一歩を踏み出した、あたしだけの記念日だ。

 瑶林高等学校は長い歴史のある女子校で、それなりに人気もある。

元大名屋敷跡にそのまま建てられたため、敷地面積も広い。

それをぐるりと取り囲む高いレンガの壁は、この学校のシンボルでもあった。

出入り出来る門だって一つしかない。

 あたしはその高いレンガに挟まれた鉄格子の正門を見上げる。

ぐるぐると渦巻く葉っぱの装飾の、ぴったりと閉じられた横にくっついてるインターホンを押した。

「遅刻しました。開けてください」

「何年何組? 名前は?」

 ため息をつかれる。

この声は国語の堀川か? 

あたしはレンガの壁に埋め込まれたカメラに向かってこん棒を掲げる。

「二年二組花田ももです。鬼退治に行ってました」

 赤茶色のレンガに同化したようなそれは、無言のまま反応した。

遠隔操作でガチャリと門の開く音が聞こえる。

そっと押してみると、わずかに開いた。

くぐり抜けたのを見届けると、それはオートマチックに閉じてゆく。

再びガチャリと音がしたときには、完璧な開かずの門に様変わりしていた。

「結界かよ」

 隔離された広大な敷地に、芝生の庭園と静かな木立が揺れる。

だけど残念なことに、空だけは繋がっているんだな。

 学校は授業の真っ最中で、あたしは体育の授業をしている校庭の横を通る。

自分のクラスだ。

気づいたクラスメイトたちが遠くで手を振った。

「ももー!」

 あたしはそれに大きく振り返す。

そうだ。

今はサッカーやってたんだ。

鬼退治とか行かずに学校来とけばよかったかな。

時計を見上げる。

2時間連続の体育はまだ続いていた。

「急いで着替えて来るー!」

 教室へ駆け上がり、こん棒と鞄をロッカーに放り込む。

速攻で体操服に着替えると、運動場に飛び出した。

一、二、三組が合同で授業をしている。

あたしは二組に合流した。

「遅いよもも」

「負けてんの?」

「いっちーが頑張ってる」

 長いミルクティー色の髪を後ろで一つに結んだいっちーは、ピッチの真ん中に立っていた。

対戦相手の三組が上げたパスを、敵ごと体でなぎ倒し胸で受け止める。

真正面でキャッチしたそれを、思い切り蹴り上げた。

相手ゴール前に控えていた味方にパスが渡る。

そのままきれいなゴールが決まった。

湧き上がる歓声を横目に、いっちーは口元を拭う。

さっき相手と体ごとぶつかったところかな? 

血が出てるみたいだ。

 試合は後半開始20分を過ぎたころで、得点は二組が2点、三組も2点の同点だ。

選手交代の合図。

三組はここで金色の髪を短く刈り込んだ坊主頭の巨乳を出してきた。

ずいぶんと背は低い。

「これ以上、あんたらに点は取らせないから」

 人差し指で狙いを定め、ウインクでいっちーを撃ち抜く。

いっちーは無言で彼女をにらみつけた。

試合再開。

キックオフで受け取ったボールは金髪坊主に渡る。

いっちーはその子に向かって走り出した。

「あの三組のボール持ってる子、誰?」

「パツキン坊主? 猿木沢さん。さーちゃんって呼ばれてる」

 いっちーは肩を下げ、彼女にぶつかっていく気満々だ。

猿木沢さんはボールを膝に蹴り上げ、リフティングをしながらいっちーの突撃して来るのを待っている。

いっちーの右足が鮮やかに空を切った。

「なんか空手の蹴りと勘違いしてね?」

 あたしはそんないっちーに眉をひそめる。

「まぁ道場の娘だからさー」

 しっかり型の出来上がった流暢な連続技。

猿木沢さんは押され気味だ。

リフティングだけでかろうじてかわしている。

そんな攻防がどこまでも続くのかと思った瞬間、ふいに坊主頭はニッと笑った。

「その前しか見ない性格、直した方がいいと思うよ」

 膝上のボールを高く蹴り上げた。

いっちーの頭上を超え軽やかに舞い上がる。

そのボールを視線で追いかけるいっちー。

と、その横を彼女はさっと抜いた。

次の瞬間、猿木沢さんの足がガツンとボールを蹴り上げる。

「しまっ……」

 いっちーの気づいた時には遅かった。

彼女の膝上で踊るボールを奪うことに集中しすぎて、ジリジリと立ち位置を動かされていることに気づかず、彼女の罠に嵌まっていた。

センターラインを超え自軍に攻め込まれ、味方のパスが通りやすい配置になった瞬間、猿木沢さんからのボールは味方に渡る。

「さーちゃん、ナイス!」

得点を知らせるホイッスル。

難なく逆転のゴールを取られてしまった。

「もう点は取らせないって言ったでしょ」

 得意げに見上げる彼女を、いっちーは無言で見下ろす。

キックオフからの再開。

いっちーは転がってきたボールを足裏で押さえつけた。

「私、あんたみたいな調子いいの、大嫌いなんだよね」

 束ねた髪が大きく揺れる。

後ろに振り上げられた足が、豪快にボールを蹴った。

宙を舞う白と黒のボールを目指して、ピッチにいる全員が走り始める。

いっちーの走る目前に、猿木沢さんの背中が立ち塞がった。

「邪魔!」

 押しのけようとするいっちーの進路を、坊主頭が妨害している。

落下地点を巡っての争いは、猿木沢さんに軍配が上がった。

いっちーに押しのけられる前に、彼女はポンとボールをパスする。

いっちーの腕が彼女の背に触れるか触れないかのタイミングで、猿木沢さんは転んだ。

「ご、ゴメン。大丈夫?」

 いっちーの足が止まった。

それでもボールは進み続ける。

いっちーの差し出した手に、彼女は笑った。

「あんたって、本当にバカだよね」

 ゴールを知らせるホイッスルが聞こえる。

猿木沢さんは何事もなかったかのように立ち上がった。

「ワザと転んだだけですけど?」

 その瞬間、いっちーの平手打ちが周囲にこだまする。

猿木沢さんはぶたれた頬を押さえている。

「何すんのよ!」

 同じようにやり返す彼女の手も、いっちーの頬をぶった。

あっという間に取っ組み合いの喧嘩が始まる。

二組と三組の仲間が取り囲んだ。

ヤジを飛ばしてあおり立てている。

殴りかかってきた猿木沢さんのパンチを簡単に受け止めると、いっちーは正拳突きに型を構えた。

「やめな」

 あたしはそのいっちーの腕をつかむ。

「いっちーあんたさ、武道やってんだったら、そんなことしちゃダメだろ」

「……。フン。こんなの相手に本気出すわけないし」

 いっちーは舌打ちをして腕を下ろす。

「あんたのそういう態度が気に入らないんだよ!」

 猿木沢さんの手が伸びる。

いっちーの胸ぐらをつかもうとして、それは失敗した。

彼女を後ろから三組の連中が押さえつけている。

「さーちゃんもういいよ」

「あんな脳筋、相手にすんなって」

「ちょ、いまなんて……!」

「だからやめなって」

 あたしは再び吠えつこうとしたいっちーの腕をつかんで、そこから引き離す。

「おいでよ。口の端切れてんでしょ。保健室行こ」

「余計なお世話だ」

 その手はあっさりと振り払われた。

一人で歩き出したいっちーの背中を、あたしは追いかける。

「来んなよ」

「勝手についてきただけだし」

 高い塀で囲まれた校内の空を見上げる。

振り返ると次の試合が始まっていた。

さっきまで殴り合いの喧嘩をしていた猿木沢さんが、今度は最初からピッチに入っている。

元気に走り回る彼女を見て、あたしはちょっぴり安心した。

「……。遅刻してきたのに、私について来たら試合出られないじゃん」

「なに? もしかして気ぃ使ってくれてんの?」

 いっちーはそんなあたしを無視して歩き出した。

外から直結している保健室のドアをガチンと勢いよく開く。

保健の先生は不在で、勝手に上がり込んだいっちーはすぐに備品をあさり始めた。

ベッドのカーテンが開く。

長い黒髪の女の子が顔をのぞかせた。

「いっちー? どうしたの?」

「切れた」

 ベッドに寝ていた彼女は起き上がった。

「消毒して絆創膏貼る?」

「唇にしみるから、塗り薬と絆創膏だけでいい」

 クラスでは比較的独りでいることの多いいっちーが、彼女には懐いている。

優雅な黒髪の大人し気な彼女は、いっちー口の端に細い指でそっと薬を塗った。

「キジはまた体育サボってんの?」

「私、ああいうの嫌い」

 キジと呼ばれた彼女は、甘くささやくような声でそう言った。

いっちーを見つめながら目を細め微笑む。

あたしはなんだかその雰囲気に恥ずかしくなってきて、モジモジとしている。

「こんにちは。あなたがいっちーを連れてきてくれたの?」

 いっちーはあたしをにらんだ。

「違うよ。勝手についてきただけ」

「そう。ありがとうね」

 あたしにまでにこっと微笑むから、ますます恥ずかしくなる。

「じゃ、先に戻ってるね」

 知り合いなのかな? 

あたしとは同じクラスになったことのない子だ。

いそいそとそこを抜け出す。

校庭に戻ったら、サッカーの試合は続いていた。

「負けてんだけど」

「本当だね」

 猿木沢さんに2点を入れられ、4対2で負けている。

「もも、出られる?」

「任せて」

 選手交代。

ピッチに立ったあたしの前に、猿木沢さんが立ちはだかった。

「あんた名前は?」

「花田もも」

「ダセー名前」

「そういうの、あたしには効かないよ」

 視線をボールに移す。

キックオフのホイッスル。

走り出したあたしの足を、猿木沢さんが引っかけようとちょっかいを出してくる。

それを飛び越えようとして、肩と肩が激しくぶつかり合った。

外野からのヤジが飛ぶ。

執拗にマークされていた。

パスが一つも通らない。

体操服をつかまれ、動きが制限されている。

あたしはワザと高くボールを上げた。

その動きに気を取られているうちに、サッと走り出す。

「しまった!」

 団子状態になっていた集団をようやく抜け出した。

猿木沢さんの足でも追いつけない。

「もも、頼んだ!」

 飛んで来たパスをドリブルで駆け上がる。

敵も味方もほとんど全てを後ろに置いてきた。

キーパーは大きく両腕を広げている。

あたしは狙いを定めた。

「いっけー!」

 右上のコースを狙ったシュートは、飛び上がったキーパーの指先をわずかに外した。

「ゴール!」

 歓声が上がる。

同時に試合終了のホイッスルが鳴った。

試合結果は4対3。

あたしの周りには駆け寄ってきたクラスのみんなが飛びついた。

「さっすがもも! カッコよかったぁ!」

「負けたし」

「いいんだよそんなこと。気にすんな」

 同じクラスのはーちゃんとしーちゃんがあたしの両腕に絡みついた。

「行こう。次は数学だよ。どうせ宿題やってないんでしょ?」

 三組のグループに猿木沢さんの姿が見えた。

振り返った彼女と一瞬目が合う。

彼女たちの次の授業何なんだろう。

ふとそんなことが気になった。



第3章


 教室に戻った時には、いっちーはもう制服に着替え普通に窓の外を眺めていた。

椅子の上で片膝を立て、じっと動かないのはいつものこと。

授業が始まってからも、それはあんまり変わらない。

「犬山ぁ。外ばっか見てないで、黒板の問題出てきて解け」

 突然当てられたベクトルの問題も、スラスラ出来ちゃうから先生も文句は言わない。

昼休みになった。

あたしはいつものように、はーちゃんとしーちゃんと机をくっつけて囲む。

いっちーは二年になってからずっと独りでご飯を食べていて、特に誰も気にしていないし本人も気にならないタイプっぽいから、誰も何にも言わないし特に何かが何とかともなってはいない。

ぐちゃぐちゃに体操服やらお菓子やらを突っ込んでいたあたしのロッカーから、こん棒が滑り落ちた。

「あ」

 60㎝以上はあるこん棒をそのままロッカーに差し込んでいたのだから、落ちてしまうのは自然の摂理で、それは案外大きな音を教室に響かせた。

そこにいた何人かが振り返ったけど、教室のロッカーから誰かのモノが落っこちるなんていつものこと。

こん棒を拾い上げたのはいっちーだった。

「誰の?」

「あたし」

 お箸を咥えたまま、さっと手をあげる。

いっちーは明らかにムッとした表情を見せた。

「邪魔」

 落ちた時と同じようにこん棒をロッカーに突っ込むと、教室から出て行く。

あたしは空になった弁当箱をそのまま机に押し込むと、すぐに後を追いかけた。

 廊下に飛び出したのに、いっちーの姿は見えない。

トイレの前で張り込んでみる。

ちょっと待ったら、案の定彼女はハンカチで手を拭きながら現れた。

「……。なに?」

「あたし、鬼退治始めたの」

「……。で?」

「それだけ」

 いっちーはあたしを横目でにらみつける。

そのまま歩き出した彼女を追いかけた。

「どこ行くの?」

 そう聞いたのに返事はない。

昼休みの廊下はどこまでも自由だった。

いっちーのミルクティー色の髪が歩幅に合わせて静かに揺れる。

「ねぇ、一緒に鬼退治しない?」

「友達誘えば? はーちゃんとしーちゃんなら付き合ってくれんじゃないの」

「あの二人は生徒会書記だから無理。あたしはいっちーがいいなと思って」

「へぇ、どうでもいい相手だったらいいってことなんだ」

「そんなことないよ」

 彼女はゆっくりと振り返った。

「迷惑なんだけど。やりたいなら勝手にやって」

「鬼退治、興味ない?」

「しつこい!」

 いっちーは眉間にしわを寄せ、険しい顔つきで声を荒げた。

「どういうつもりでそんな気になったのか知らないけど、あんたみたいないい加減なのが『鬼退治やるー』『始めました~』とか言ってんの、一番ムカつくんだよね」

「やるよ」

 あたしより少し背の高いいっちーを見上げる。

彼女の、やっぱり髪みたいに茶色の目はじっとあたしを見下ろした。

「やるって言ったら、あたしはやるよ」

「あはは……!」

 とたんにいっちーは大声で笑い出す。

彼女の鼻先があたしの鼻先に迫った。

「じゃあ勝手にやってなよ。頑張っテネ、応援してルヨ」

 昼休みの終わりを告げるチャイムの音が響く。

教室に戻らなくてはならない。

あたしはやっぱりいっちーの後を追いかけて教室に戻った。

よく分からない色んなモノが詰め込まれたロッカーに、彼女の突っ込んだこん棒が突き刺さったままだった。

それをまた落っこちないように、もう一度押し込む。

彼女はそんなあたしを見て、フンと鼻で笑った。

そんな挑発的な態度に、あたしはますます確信する。

放課後になるのを待って、振り上げたこん棒の先をいっちーに向けた。

「あたしに教えてほしい」

「は? なに?」

「空手」

「こん棒じゃん」

「うん」

「こん棒だよね」

 もう一度うなずく。

いっちーはガタンと立ち上がった。

「こん棒って鬼退治の見習いクラスだし、空手でもないし」

「そうなの?」

 いっちーはあたしを見下ろす。

「ま、なんでもいいから、一緒にやろ」

 彼女の眉間のしわは、より一層深くなった。

「バカにしてんの? それともあんたが本気のバカ?」

「あー、もしかしたらそうなのかも」

 いっちーは無言で通学用のリュックを背負った。

わざとらしく肩をぶつけてくる。

そうやってあたしを押しのけると、廊下へ出て行ってしまった。

「だって、鬼退治用の刀くれそうな人、知らないんだもん。いっちーなら知ってるんじゃないかと思って」

 その声が彼女に届いたのかどうかは分からない。

鬼退治協会はその役目を終えたとして、公式には活動を停止している。

新たな刀が鬼退治用として認定されることはない。

残された刀を受け継いだものだけが、鬼退治をする者として認められる。

「私だって、そんな人知らないから」

 それだけを言い残して、いっちーは姿を消してしまった。

一人取り残されたあたしは、ざわつく放課後の教室でついため息をつく。

「なにあの態度」

「もも。いっちーなんか誘うのやめなよ」

 はーちゃんとしーちゃんは呆れたような表情を見せた。

「ううん。あたしはいっちーがいいの。きっといっちーなら最後まであたしに付き合って、やってくれる」

 いっちーの頑なな行動に、あたしはますますそれを確信する。

「なんでいっちー? どうして?」

「ん?」

 そう尋ねた2人をあたしはみつめた。

「いっちーはさ……。なんか、あたしに似てる気がするんだよね」

「全然違うよ」

「いっちーはああ見えて真面目だしちゃんとしてるし優等生だよ」

「ももは違うじゃん」

 あぁ、うん。まぁね。

いっちーがオカタイ優等生なのは知ってる。

「ねぇ、ももにとって鬼退治ってさ……」

 あたしは二人の心配に、首を横に振った。 

「ううん、信じて。大丈夫よ。つーかマジで護身術みたいなのも習いたいし」

 こん棒を肩に担ぎ直す。

「それに、いっちーを説得出来ないようじゃ、どっちにしろこの先ムリだって思ってるから」

 あたしは教室を出る。

速攻でフラれたのは、ちょっとショックだったけど、きっと彼女には届く。

必ず来てくれる。

作戦は考えた。

校庭の隅のこん棒振っても大丈夫そうな場所を見つけると、そこにリュックを置いた。

 ネットの動画で見つけた素振りをマネしてみる。

縦に振って、横に振って、斜めに構えて気合いを入れる。

遠くで野球部の集団がランニングをしている。

吹奏楽部の楽器の音と、絶え間ないかけ声が聞こえてくる。

ちょっとこん棒を振り回しただけで、もう腕がだるい。

この軽やかな笑い声は、どこから聞こえてくるんだろう。

お日さまはいつまでも暖かくて、あたしは芝生の上に寝転がった。

やっぱ基礎体力からだな。

それもスマホで検索。

「やっぱやる気ないじゃん」

 校舎の陰から顔を半分だけのぞかせていたのは、いっちーだ。

「なに? なんか用?」

 返事はない。

「だって疲れたんだもん」

「そういうとこ!」

 あたしはニッと微笑む。

やっぱり来た。

何だかんだで、気にはなってるんだよね。

面倒見はいいんだから。

「心配して見に来てくれたんだ」

「……。忘れ物を取りに来ただけ」

 いっちーの顔は真っ赤になっている。

あたしは笑いそうになるのを我慢しているのが辛い。

照れているのを隠すために向けた彼女の背は、校舎の陰に消えた。

すぐに後を追いかける。

放課後の誰もいない廊下に、あたしたちの足音だけが響いている。

「あたしね、鬼を見たことがあるの!」

 どこまでも続く長い廊下の真ん中で叫んだ。

いっちーの足が止まる。

彼女の背を見つめながら、あたしは疼きはじめた腕を押さえた。

「つかまれた腕が今も時々痛む。その痛みを……いっちーも知ってるんじゃないかと思って」

「……。それがなに?」

 ようやく振り返ってくれた。

「鬼と戦ったことのない女の子なんていないでしょ。みんな誰かしら遭遇したことあるし、それなりに応戦してる。別に珍しいことでもなんでもないし、普通に騒いだりしてないだけでしょ」

「そうだよ。それは分かってるよ。だけどあたしは……」

「仲良しの、他の友達に頼めばいいじゃん」

 いっちーの目は、あたしの目を見ようとしていない。

「その方が楽しくやれるでしょ」

「いっちーなら、本気で戦ってくれそうな気がした」

 手に持つこん棒を握りしめる。

あたしはそれを正面に構えた。

「共感してくれる友達なら沢山いる。あたしがほしいのは、一緒に戦ってくれる人。あたしと勝負して、負けたら空手教えて」

「素手の私を相手に木刀まがいのもの振り上げて、なに言ってんの?」

「勝負!」

「……やんない」

 いっちーは再びあたしに背を向ける。

「じゃ、いっちーの負け。あたしの勝ち。教えて」

 彼女の膝がわずか曲がった。

その低い姿勢からの不意打ちの回し蹴り。

こん棒でなんとか防いだものの、それはあたしの手から弾き飛ばされた。

「わーお。カッコイイ」

「勝ったから教えない」

「あたしが負けたんじゃん。負けたから空手教えて」

 拳が飛んで来た。

それを避けたのに、続けての繰り出される足蹴り。

だけど、さっきの攻撃でいっちーの足の長さは分かったから大丈夫。

パッと脇へ避ける。

左からの突きを肘で受け止め、素早くそれをつかんだ。

「いっちーはさ、鬼、知ってるでしょ」

 すぐに振り払われる。

後ろに飛び退いた。

靴先が鼻をかすめる。

「だからみんな会ったことくらいあるって!」

 止まらない連続攻撃を受け止める衝撃で、手首から下の骨がビリビリと響く。

防戦一方では本当にこのまま押し切られそう。

間合いを見計らって距離を取る。

「ちょっと待った!」

 そう叫んでおいて、あたしは素早く制服のブレザーを脱ぐと床に投げ捨てた。

ブラウスの袖ボタンを外す。

「何? 本気でやんの?」

 身構えるいっちーの前で、その袖をめくった。

剥き出しになった腕を見た瞬間、彼女の動きはピタリと凍り付く。

「このアザがどういう意味か、分かるよね」

 左の二の腕は、あたしが昔鬼につかまれたところ。

その気配を感じると赤黒く浮かび上がる。

いまでも時折うずく痛みに、あたしは目を閉じた。

「鬼に会ったことがある人は沢山いても、このアザが浮かび上がる人は、そんなに多くはないんじゃない? あたしは同じ傷を持つ仲間を探してる」

 あたしはいっちーの目を見つめた。

「ねぇ、やっぱあたしと鬼退治に行かない?」

「そんなもん見せられたって、どうしようもないでしょう!」

 語気を強めそう吐き捨てる彼女は、また背を向けた。

「同情はするしかわいそうだとは思うけど、そんなもんで私を脅さないで」

「脅してない」

「私には出来ないの!」

 そう叫ぶ彼女はうつむいた。

窓からの夕陽が差し込む。

廊下の床に長い影が伸びていた。

「その傷のことは誰にも言わない。そんな卑怯なことはしないから安心して」

 いっちーは歩き出す。

「ねぇちょっと待ってよ、いっちーてばさ!」

 追いかけようとしたら、彼女は走り出した。

いっちーのくせにあたしより足が速い。

「待って! いっちーは何がダメなの?」

 階段を飛び降り、廊下を駆け巡る。

あちこちを探してみたけど、もう明るいミルクティー色の髪は見当たらなかった。

「くっそ……」

 絶対に彼女は仲間になってくれる。

てゆうか仲間になってもらう。

どうしてなのか分からないけど、あたしはそう感じているし、そうだと信じられる。

なのになぜかふと、教室でいつも独りでいる彼女の横顔を思い出す。

いっちーを悪く言う奴なんて、ここにはいない。

本当に心からいい子だって、みんな知ってる。

それなのにどうして、彼女は独りでいることを望むのだろう。

 翌朝、いつもより早く起きて学校に行った。

いっちーを待ち伏せするつもりだったのに、すぐ見つかって逃げられる。

休み時間にも昼休みにも、授業中だって手紙回してもらったりなんかしてみたのに、いっちーは届いた手紙をそのまんまポケットにねじ込んで見てくれない。

こうなったらもう、出待ちを決め込むより仕方がない。

あたしは放課後の始まりを知らせるチャイムと同時に、リュックを背負い校門へ走った。

高い城壁に囲まれたこの学校に、門は一つしかない。

「お、正解」

 入り口が一つなら出口も一つ。

あたしに気づいたいっちーは、露骨にイヤな顔をした。

「仕方ないじゃん、見つかっちゃうのは。ここしかないんだもん」

「ついてくんな」

「それは無理」

 駅までの一直線の道を歩く。

風は少し冷たくて、目の前で揺れるいっちーの淡いミルクティー色の髪はサラサラしすぎていて、あたしはいっちーにつけられた傷のことを思う。

「まーた瑶林の生徒か! お前らはいっつもいっつもうるさいのぉ!」

 駅バァだ。

うちの学校の制服を見ると、すぐ絡んでくる駅前の有名人。

私服で通ると何も言わない時もあるらしいから、別に誰か個人を特定してやってるわけでもないらしい。

とにかく目の前をうろつく他の女が大嫌いなバァさんだ。

「あんたらの散らかすゴミで、どれだけ周りが迷惑してると思ってんだ!」

 いや、あたしら今ゴミとか捨ててないし。

どこに住んでいるのかとか、名前とかも誰も知らない。

ただいつも駅前広場の決まった場所に陣取り、引いてきた椅子型キャリアバックに腰掛け、目についた女を罵倒し続ける白髪のヨボヨボ婆さんだ。

「なんじゃその目は! 汚い足晒しよって!」

 しわくちゃの拳を振り上げる。

カーッと喉を鳴らし、ペッと唾を吐いて威嚇してくる。

あたしたちはただ通りかかっただけなのに、その罵声のおかげで一身に注目を集めてしまう。

この世にいて迷惑なだけの婆さんだ。

「相変わらずウザいな」

「相手する方が負けだよ」

 駅前広場の人だかりから、ふいに声がかかった。

「あれ、一花?」

 一花とはいっちーの下の名前だ。

「あ、そっか。瑶林だもんね、高校」

 そう言った声の主は、恥ずかしそうに頭をボリボリと掻いた。

鬼退治の刀だ! 

腰に刀をぶら下げている。

漆の鞘に収まり、彫られた紋章は本物の証。

腰の柄に手を置くと、彼はそれをグッと押し下げた。

「お友達?」

 あたしを見下ろす。

いっちーは慌てて首を横に振った。

「違う! ただ近くを歩いてただけの人だから」

「何それ、いっちーひどーい」

 黒髪の背の高い彼は、にこっと軽やかな笑みを浮かべた。

その後ろにまた別の男の子が二人いる。

「お友達、鬼退治やってんの?」

 そう言ったのは金髪ロン毛。

「何だ。やっぱり一花も興味あったんじゃん」

 こっちは切れ長の目に細めの長身。

三人とも腰に刀がぶら下がる。

「いっちーの知り合い?」

 最初に声をかけてきた黒髪の彼は、変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。

「そうだよ。俺らの師匠の娘さんだから」

 あたしはいっちーを振り返った。

何それ。

いっちーんとこは空手の道場かと思ってたけど、そうじゃないんだ。

「いっちー、鬼退治してんじゃん」

「あんたたちは黙ってて!」

 彼女はあたしではなく、その男の子たちをにらみつけた。

「一花は学校で『いっちー』って呼ばれてんの?」

「帰る!」

 いっちーは怒っている。

でもあたしは、もう少し話しがしたい。

「待って」

 彼女の袖をつかんだら、ガッツリ振り払われた。

足早に歩き出す背中を仕方なく見送る。

「あ、なんかゴメンね」

 最初に声をかけてきた黒髪の男の子は、そう言っていっちーの遠ざかる背中を視線で追いかける。

「一花はあまり、自分のことは話さないんだ。俺たちに」

「学校でもそんなにしゃべんないよ」

「だけど、道場ではいつもかいがいしく皆の世話をしてくれてて……」

「まぁ、世話好きではあるよね」

「それがなんだか、申し訳なくて」

 あたしはそう言った彼を見上げる。

「いっちーだからね」

「女の子だから」

 彼は腰の柄に手をかけた。

カチャリとこすれ合う音がして、あたしに手を振った。

「ゴメン。やっぱ一花のとこ行ってくる」

 いそいそと駅へ向かう彼の背を見送る。

金髪ロン毛の男の子が微笑んだ。

「じゃ、鬼退治頑張ってね」

「邪魔したな」

 もう一人の長身の彼もそうつぶやき、構内へと吸い込まれてゆく。

彼らはどこの学校の生徒なんだろう。

知らない制服だ。

あたしは手にしたこん棒を肩に担ぐ。

結局誰だか分かんなかったけど、そんなことに負けてらんない。

 鬼退治協会は、その活動を終了してしまった。

現在は残された公式の刀が使用されているだけで、新たに生産されることはない。

警察に返納する人も後を絶たなくて、それを手に入れたいと思うなら、譲り受けるより方法はない。

やっぱりいっちーの近くには、刀を持っている人がいる。

いっちーはそれを、欲しいと思ったことはなかったのかな。

 翌日の放課後になるのを待って、あたしは彼女を演武場に呼び出した。

鬼退治サークルを作りたいと、前々から学校申請して生徒会に臨時使用許可をもらっていた。

どれくらい待っただろう。

もう来てくれないのかと思い始めた頃に、ようやく門は開いた。

「私があんたに付き合うのは、これが最後だから。いい加減あきらめて」

「一緒に鬼退治しよう」

 しつこいとか言われても、気にしてる場合じゃない。

「色々と教えて欲しい」

「鬼退治の師範なんてどこにでもいるし。私は刀を持ってないよ」

「いっちーがいいの」

「もっと強くていい人いっぱいいるよ」

「いやだ」

「なんで?」

「どうしても」

「あんた、私に負けたじゃん」

 彼女を見上げる。

あたしは真剣で、彼女も負けずに真剣だった。

いっちーは続ける。

「私より弱いのに、なんで鬼退治なんて出来ると思った? 私ですら勝てない相手に、勝てるわけないし」

「どういうこと?」

「見たでしょ、昨日の」

 いっちーはその髪と同じ色をした淡い茶色い目を、あたしからそらした。

「昨日のあの三人はさ、うちらと同い年なんだよね。鬼退治を始めて、あっという間に帯刀者になっちゃった。私は小さい頃から父さんの道場で習ってたのに、一度もこん棒を握らせてもらったことがなくて……」

 彼女の視線は、あたしの前に置かれた二本のこん棒を捉える。

「どんなに頑張ったって、どうせ勝てないじゃない。あいつら、めっちゃ強いよ。人にはそれぞれ役割ってもんがあって、やれる人間がやれることやった方が……」

「いっちーは誰と戦ってるの?」

 用意していたこん棒の一本を、彼女の前に投げる。

鬼退治用の「こん棒」と呼ばれるその木刀は、床を滑りいっちーの目の前でピタリと止まった。

「いっちーは、何と戦ってるの?」

「……。私はこれを持つことすら、許されたことは一度もない」

「自分がやりたいんなら、やればいい。出来ないなんて誰が決めたの」

 あたしは自分の持つこん棒をくるりと一回転させた。

それを左右に振ってから正眼に構える。

「いっちー。あたしたちが戦っているのは周りにいる『誰か』じゃなくて『鬼』だよ。相手を間違えてる。人間の男だって敵わない『鬼』と戦うんだ。あたしには自分たちなりのやり方があるって思ってる」

「本当の『強さ』ってのを知らないから、そんなことが言えるのよ」

 いっちーはこん棒に目もくれず、両腕で手刀を構えた。

「やりたいって、欲しいって、自分で言ったことある?」

「どんだけあんたがバカなのか、教えてあげる」

 いっちーの足が空を斬る。

だけど、安全領域を理解したあたしには届かない。

着地させた足からの回し蹴りがこん棒を打ち付ける。

不意に詰められた距離に手元はふらついた。

腹に彼女の拳が入りそうなのを、なんとか避ける。

これでは近すぎて逆にこん棒が邪魔だ。

あたしは肘打ちで迎え撃つ。

互いに一歩も譲らない攻防は続いた。

一瞬の間合いを取る。

あたしもいっちーも息が上がり始めた。

「どう? 素人にしては上出来じゃない?」

 そんなセリフで時間を稼いでみる。

流れる汗を拭いこん棒を握りなおした。

これ以上の接近戦は避けたい。

いっちーは身構えたまま、静かに呼吸を整えている。

今度はあたしから間合いを詰めた。

こん棒の距離を生かしての打ち合い。

いっちーの動きが鈍い。

あたしは一瞬の隙をつき、その切っ先を彼女の左肩に押しつける。

「……あたしの勝ち」

 いっちーはそれでも動かなかった。

勝負はついた。

すぐにそれを脇に戻すとこん棒を下げる。

いっちーはもう、戦う気がなくなった? 

あたしは床にひざを付いて座ると、姿勢を正した。

「お願いします。一緒に鬼退治をしてください」

 指の先をきっちり丁寧に合わせ、深く頭を下げる。

彼女からの返答はない。

あたしはゆっくりと顔を上げ、彼女を見上げた。

いっちーは制服の上着に手をかけると、それを脱ぎ捨てた。

胸のリボンをほどき、シャツのボタンを外す。

はだけた胸から剥き出しの肩を晒して見せた。

「私のアザよ」

 彼女の白い肌が光に透ける。

いっちーの背後から伸びた醜い手が、彼女の肩をつかんだ。

太く長い指が細い肩をわしづかみにし、鋭い爪は肌を貫き切り裂く。

「この痛みが、あんたにも分かるって?」

 赤黒くくっきりと浮かぶその痕は今も鮮やかに、確かな痛みを持って彼女に疼き続けていた。

「私はね、いつもこの痛みを抱えてる。あんたと違って毎日毎日、朝起きたら、夜寝る時にも、何を見ても何を聞いても! 私のすぐ側にこいつらはいて、いつだって……『俺の存在を忘れるな』って……そうささやき続けて……」

 いっちーの頬を涙が伝った。

「鬼退治なんて、本当に出来るなんて思えない。私にもあんたにも、誰にも」

「その傷の存在を知っても、あんたのお父さんやその道場の奴らは、やっぱりいっちーには自分たちの背中に隠れとけって言うの?」

 あたしは立ち上がる。

彼女に近づき、その傷痕にそっと触れた。

「その傷を、今もまだ深くえぐり続けているものはなに?」

目を閉じる。

あたしは泣いているいっちーの額に自分の額をつける。

「大丈夫。あたしたちは戦える」

 彼女のむき出しになった肌を覆うためのブラウスのボタンを、一つ一つとめてあげる。

「悔しくはないの? ムカつかない? それで鬼退治が終わったら、どんな顔して『ありがとう』って言うの?」

 いっちーの涙は、いっちーだけの涙じゃない。

「あたしは弱くてマヌケでバカだから、殴られたら殴り返されても殴る。たとえ死んでもあいつらだけは許さない。あたしは自分の大切な人が誰かに殴られていたら、自分が死んでもやり返す」

 床に落とされたブレザーを拾い、肩にかけてあげる。

あたしはいっちーを抱きしめた。

「悪いのは、あたしやいっちーに傷をつけさせた鬼よ」

「本当に勝てると思ってる?」

「死んでも戦う。そうしないと、自分が後悔するから」

 あたしはいっちーに微笑んだ。

「あたしは自分のために戦うの。負け戦になるかもしれないけど、一緒に来てくれる?」

「頼りない」

「はは。いっちーが来てくれたら勝てるかも」

 彼女の腕が肩に回って、一緒に泣いた。あたしたちは独りじゃない。

「このこん棒、いっちーのだよ」

 差し出した鬼退治用のそれを、彼女は手に取った。

目と目が合って、彼女は静かに微笑む。

「全く。しょうがないな」

 そんな彼女の顔はとってもきれいだなと、あたしは改めてそう思った。



第4章


 いっちーと一緒に鬼退治サークルを作るとして、サークル認定されるためには部員が足りない。

いくら条例で『鬼退治をしようとする者は必要と認められた場合他に優先される』とはいえ、まぁそう簡単にいくもんでもない。

「ねぇ、一緒にベルト買いに行こうよ」

 いっちーはあたしに自分のスマホ画面を見せた。

「もも、何だかんだでまだ買ってないっしょ」

「欲しいとは思ってんだけどねー」

「ほら、これなんかどう?」

 いっちーが探してくれたのは、ピンクの細い革ベルトにお花やふわふわのついたかわいくてお洒落なやつ。

「かわいい」

「ね、いいよね!」

 いっちーはうれしそうに画面をタップする。

「ネットで注文しちゃう? 同じの2個頼む?」

 確定画面に進もうとして、指が止まった。

「やっば。これ5万もする! あームリムリムリ」

「いっちーんとこので、何かいい感じのないの?」

 彼女はそのまま超高速タップでスマホ検索を続けている。

「あんなのやだ。かわいくないもん」

 昼下がりの放課後はどこまでものんびりで暖かくて、あたしは学校を取り囲む高い城壁にもたれて、襲い来る眠気と激しい死闘を繰り広げている。

「ねぇもも。コレは? あ、待って。もっと安いの探す」

「いっちーがいいなら何でもいいよ……」

 寝落ちしそうだ。

横を向こうと片膝を立てると、スカートの裾は太ももを滑った。

芝生の絨毯を踏むわずかな足音が聞こえて、いっちーもそれに反応する。

「うわ。マジだ」

 猿木沢さんだ。

「バカが増えてる」

 彼女は仁王立ちであたしたちを見下ろした。

おっぱいが大きすぎて顔が全部見えない。

「誰がバカ? お前?」

「何その棒」

 いっちーは彼女をにらみ上げる。

猿木沢さんはフンと鼻を鳴らした。

「堂々とこん棒担いで歩いてるバカが現れたと思ったら、早速感化されたバカが増えたって聞いてさ。信じられなくて見に来たの」

 猿木沢さんは呆れたようにため息をついた。

「マジでガッカリ」

「じゃあわざわざ話しかけてくんなよ。サルが」

「脳筋のくせに口答えしてくんなや」

 いっちーはこん棒をつかんだ。

立ち上がろうとするその腕をつかむ。

「いっちーやめな」

「あんたが、ももね」

 猿木沢さんはあたしを見下ろす。

「同じ学校にいるのも恥ずかしいから、さっさとやめてよね」

 その一言だけを残して、彼女は立ち去った。

金色の短すぎる髪が日の光を反射する。

なんでそんなことをわざわざ言いに来たんだろ。

いっちーはその背中に向かって吠えた。

「なにアレ? それを言うためだけにうちらを探して来たの? そっちの方がバカじゃない?」

「あの子知ってるの?」

「知らん!」

「えらい絡まれるじゃん。いつも」

「知らないよ。知らないけど、何かいっつも喧嘩売られてる」

 あたしはいっちーを見つめた。

「好きなんじゃない?」

「なんでだよ!」

 このままここに居ても仕方がないので、あたしたちは学校を出た。

もういっそ近くのどっか売ってる店でベルトを買ってしまおうかという話になって、そこへ向かう。

大型ショッピングモールはいつだって賑やかで、ここにくればとりあえず一番最初にアイスを買うのはお約束。

「ももはなに?」

「コーヒーショコラアーモンド」

「いつものやつだ」

「いっちーは?」

「ベリーベリーベリー」

 アプリの期間限定ポイントが余ってるとかで、それを使って30円引きになった。

「あれ? ももじゃん」

「むーちゃん?」

 振り返ると、むーちゃんと猿木沢さん、他に知らない子が二人。

「ももは相変わらずソレなんだね」

 むっちゃんにアイスを差し出す。

彼女はそれを一口かじった。

「買いに来た?」

「うん。ポイント使いに」

「余ってるよ」

「あ、欲しい」

 スマホを取り出す。

あたしといっちーの周りをむーちゃんたちが取り囲んだ。

猿木沢さんは何でもないみたいな顔をして、少し離れた位置から横を向いている。

「名前は? なんて呼ばれてんの?」

 あたしはむーちゃんに聞く。

「猿木沢、さーちゃんだよ」

「さーちゃんはいいの?」

 あたしがそう呼んだら、彼女はムッとした顔をした。

「スマホ出しなよ。ID交換しよ」

「あ、そのスマホケースかわいい」

 いっちーがそう言うと、さーちゃんは彼女をギロリとにらみ上げる。

あたしはいっちーが舌打ちしたのを聞き逃していない。

そのむーちゃんたちと別れて先に座っていたテーブルに、むーちゃんたちは当然のようにやってきて腰を下ろした。

「あ、ココナッツパイン?」

「ピーチオレンジ買ってみた」

「ミルクキャラメル塩バター!」

 無言のさーちゃんが食べてるのは、きっとバニラバニラバニラだ。

女子高生が6人集まれば、みんなそれぞれに違う味を買って、一口もらったり交換したりとかもする。

まず学校と先生の悪口が始まって、やがてそれはゲームとか動画の話題に移る。

テーブルに立てかけてあったあたしのこん棒に、何かが当たった。

「こんなところにこんなモンが置いてあったら、危ないだろうが! 周りのこともちょっとは考えろ!」

 四十過ぎくらいのおっさんだ。

あたしたちのテーブルをギロリと見下ろす。

こん棒はちゃんと邪魔にならないように立てかけてあったから、このおっさんがわざわざ近寄ってきて足を出さない限りはぶつからない。

「なんだ? こんなところで女子高生だけで集まって、鬼退治の相談か?」

 その顔に気色悪い笑みを浮かべた。

「俺もな、昔やってたんだよ鬼退治。ちょこっとだけどな。教えてやろうか?」

 手を左右に振っている。席を空けろとのサイン。

「え、頼んでませんけど」

 いっちーが言った。

「誰ですか?」

 あたしはぼんやりと、ここでこん棒振るには狭すぎるなー、どうしよっかなーとか考えている。

「は? なに? このオ、レ、が! 教えてやろうかって言ってんの。分かる? ありがたい話しだろうが」

 男は急にぐにゃりと表情を変えた。

自分では「優しい笑顔」のつもりらしい。

「君たちだけじゃ不安でしょ? 俺が付いてちゃんと教えてやるからさ」

「いらねーよバーカ。さっさと帰れや」

 あたしの言葉に、男の顔色は変わった。

「あ、それ、私の彼氏のです。今トイレ行ってるんですけど」

 金髪坊主のさーちゃんが、男の蹴ったこん棒を指さした。

男の視線はパッと彼女に移る。

さーちゃんはにっこりと微笑んだ。

「私の彼氏、つい最近鬼退治始めたんで」

「あぁあぁそうかそうか。じゃ、そっちに聞けばいっか」

 驚くほどの猛スピードで男は消える。

人間、あんな機敏な動きが出来るものなのかと逆に感心した。

「え、彼氏いたの?」

 いっちーは小声で尋ねた。

さーちゃんの眉間に思いっきりしわが寄る。

「んなもん、いるわけねーだろ」

 どっと周りにいた三組メンバーは笑った。

「いつものワザだよね。さーちゃんの妄想彼氏」

「男は男だせば引っ込む説の証明」

「ムカつくよねー」

 さーちゃんはフンと鼻を鳴らす。

「こんなところでこん棒振り回そうとか、頭おかしいだろ。だから鬼退治してる奴はバカにされんだよ」

 いっちーがガタリと立ち上がった。

完全に頭に血が上っている。

「やめなよ。アイス溶ける」

 いっちーは何かを言いたげにあたしをにらんできたけど、本当にアイスが溶けちゃう。

「これからベルト買いに行くんだ」

「そっか。好きにしなよ」

 金髪坊主の美少女はにっこりと微笑んだ。

「じゃ。私たちもう行くね」

 さーちゃんたちと別れて鬼退治関連グッズ売り場に移動してきても、いっちーはまだ腹を立てていた。

「何なのアイツ! あの金ザル! あっちの方が頭おかしいんじゃない?」

 雑貨屋さんの一角にもうけられた鬼退治関連グッズコーナーには、わずかな商品しか置いてなくて、置いてあるのも鬼避けのお守りとか防犯ブザーみたいなのばっかりだ。

「あ、この根付け同じのにしようよ」

「かわいい」

 こん棒や柄につけるアクセサリーばかりで、探していたベルトはすぐにちぎれてしまいそうなファッション性の高いものしかない。

あたしはふと帯刀したいっちーの男友達の姿を思い浮かべた。

重い真剣を一日中ぶら下げて、実戦に耐える実用性重視のしっかりした作り。

あの刀は誰から譲り受けたんだろう。

「ねぇ……」

「ん? なに」

「……あ、やっぱなんでもない」

 それを聞いてはいけないような気がした。

それを彼女に聞けるようになるのは、少なくともあたしたちが帯刀者並みに認められてからだ。

こん棒すら握らせてもらったことがないといういっちーに、そんなことはまだ聞けない。

ビニール製のすぐにすり切れてしまいそうな帯刀用ベルトは、重いこん棒をぶら下げるには余りにも頼りない。

それを手に取ったいっちーの横顔も沈んでいる。

そうだよね。

あたしたちの望んでいるものは、こういうものじゃないんだ。

「あんまりいいのないね」

「……帰ろっか」

「うん」

 一番に望んでいるものは、実は自分たちの間近にあって、本当はそれを分かっているけど何にも言えないのは、やっぱり自分たちにはふさわしくないんじゃないかとか、頑張っても無理なんじゃないかとか、そんなふうに迷っているから。

本当にやり遂げられるんだろうかとか、それで出来なかったらどうしようとか、そしたらでかい口叩いたくせに周りに迷惑かけちゃうなとか、そんなことばかりを気にしている。

駅まで戻ると、いつものように駅バァがいた。

「またそんなもん持ちまわりよって! ろくになぁーんにも出来ん奴ほど、下らんことにばっかり手を出しよる!」

 くしゃくしゃのつまらない婆さんのクセに、声だけは誰よりもでかい。

「いつまでもフラフラふらふら遊び歩かんと、やることせんか!」

 知っている人にとってはいつもの風景だし、ランダムテロだって分かってるけど、初めて聞くような人たちはすんごいびっくりしたような顔をして、あたしたちを見てくる。

その群衆の中にさーちゃんの姿があった。

「何よ。結局ベルト買ってないんじゃん」

 彼女を見た駅バァは、急に大声で笑い始めた。

「出たな黄ザル! お前はまたヘマをやらかして坊主にされたんか! いつまでたっても成長せんのぉ!」

 下品な笑い声が小さな広場に響き渡る。

彼女は駅バァをチラリと見ただけで、全く気にしていない。

「買わなかったの?」

「いいのがなくて」

「かわいいの?」

 さーちゃんのその挑発的な物言いに、いっちーの眉がピクリと動く。

「残念だったね!」

 彼女は満面の笑みを浮かべた。

「黄ザルは今度は何をやらかしたんじゃ! 相変わらず成長せんヤツじゃのう! 頭悪いんか!」

さーちゃんはあたしたちに向かって大きく手を振るふと、ホームに姿を消す。

「何なのアイツ!」

「あたしもちゃんと探してみるね、ベルト。明日からはちゃんと練習もしよう」

 そう言ったら、いっちーは大人しくうなずいた。

「私もちょっと勉強してくる」

「うん」

「バカはバカ同士でつるんどんか! 腐っとる!」

 その場で別れる。

あたしはこれからのことを色々と考えなから、前へと踏み出した。



第5章


 やりたいことのある放課後というやつは、どうしてこうも来るのが遅いのだろう。

終業のチャイムが鳴ると同時に、あたしは立ち上がった。

いっちーと肩を並べて進む廊下は、走っているのか踊っているのか分からないくらい。

「ねぇ、昨日送った動画、いいでしょ?」

「見た見た。一緒にアレ、やってみよう!」

 鬼と対峙したときの剣の使い方、振り方とその立ち回り。

昔と違って鬼退治をしようとする人は随分減ってしまったけど、それでも居なくなったわけじゃない。

鬼はいる。

姿は見えなくても、まだあちこちに。

 鬼退治サークル創立の申請はしているけど、まだ許可が下りているわけじゃない。

創立のための活動許可が下りたら規定に沿ってメンバーを5人以上集め、顧問の先生を探さなければならない。

全ての条件が整ってから再び審査を受け、それに合格してからようやくスタートだ。

 校舎裏の芝生に入り込むと、制服を脱ぎ捨てた。

スカートの下に元々半パンを着ていたから大丈夫。

3分で着替え終えたあたしたちは向かい合った。

「動画の初級編、その壱?」

「そっからだね」

 こん棒を振り下ろす。

ぶつかり合ったそれはカツンと小気味よい音をたてた。

空高くまで響き渡る。

「やだ、ゆっくりやらないと、ももに当てちゃいそう」

「寸止め寸止め」

 いっちーは空手ばかりでこん棒を持ったことはないって言ってたけど、道場でずっと練習している人たちを見ていたから、それなりに上手い。

基礎体力もかなりある。

あたしのはどれも独学の見よう見まねで、なんともならなかった。

すぐに腕もだるくなって、その場に座り込む。

「疲れるー」

 校内をぐるりと取り囲む赤茶色の高い壁は、いつでもあたしたちを守ってくれている。

もたれるとひんやりと冷たくて気持ちいい。

「見て。新発売のレモン炭酸」

 いっちーはペットボトルの新商品を取り出す。

蓋を開けると爽やかな炭酸が耳に弾けた。

あたしはリュックの中からお気に入りのミルクティーを取り出す。

「あ、うちから持って来たクッキーもあるよ。食べる?」

「ももんちの?」

 鬼退治の仲間が出来たってママに言ったら、一緒に食べなさいって持たせてくれた。

「わ、やった!」

 袋を開けたら、すぐに甘い匂いが漂う。

「おいしい」

「でしょ?」

 こうなってしまったら、もう誰にも止められない。

美味しいお菓子と気の合う友達がいれば、おしゃべりはどこまでも続く。

そっちに夢中になりすぎて、あたしたちは近づいてくる他の人の気配に気づいていなかった。

「ねぇ、サボってんのなら、ちょっと貸してよ」

 転がっていたこん棒を取り上げたのは、さーちゃんだ。

いっちーの舌がチッとなる。

「あんた鬼退治に興味ないんでしょ。だったら……」

「いっちー、ストップ」

 あたしはいっちーの次の言葉を遮る。

「ふん。あんたたちの頭が悪すぎるから興味あんのよ」

 彼女はこん棒を肩に担いだ。

「重た! 何コレ」

 そう言ってうれしそうに笑う。

「こんなの担いで振り回したって、体力じゃ鬼に勝てないよ」

 さーちゃんはニッとあたしたちを見下ろした。

「鬼のこと、ホントに知ってんの?」

「あたしはさ……」

「うるっさいな、興味ないなら来んなよ!」

 いっちーが吠えた。

「テメーに言われる筋合いはねぇ!」

 あたしはため息をつく。

それは彼女が一番言われたくない言葉。

「そうやってすぐに吠えるクセ、直しなって言ったよね」

 さーちゃんの挑発に、あっさり乗っかってしまう。

いっちーはこん棒を握りしめた。

「私は世界最強女子になるんだから!」

「あはは、なにそれ、おもしろーい」

「いっちー、あたしも! あたしも世界最強女子になる!」

「ももが世界最強になったら、私が世界最強になれないじゃん」

「えぇ、そこは一緒になろうよ」

「う……」

 顔を赤らめたいっちーは小さくうなずいた。

「うん。いいよ……」

「なに言ってんの、一番は私よ!」

 さーちゃんはこん棒を振り回す。

「あんたたちなんかに、絶対負けないんだから!」

 彼女はバトンのようにこん棒をくるくると回転させると、パッと脇に挟んでポーズを決めた。

「なによ、あんたやっぱり鬼退治に興味あるんじゃない」

「ないって。チアでバトントワリングやってるからだし」

 さーちゃんはあたしのこん棒を構えている。

「あんたたちみたいなハンパなのが、鬼退治するとか言ってるのが、ムカついてるだけ」

「やっぱあんたには負けらんない」

 さーちゃんといっちーは互いにこん棒を構え向き合う。

あっという間に打ち合いが始まった。

 何だかんだ言っても、この二人は仲良しなんだと思う。

あたしはママのクッキーをかじりながら、二人の様子を見ていた。

まっすぐに突っ込んでいくタイプのいっちーに対して、さーちゃんは柔らかな体の特徴を生かし、ひらひらと身軽にそれを交わしてゆく。

ぶつかり合うこん棒の音は、どこまでも軽やかで新鮮だった。

カツン!

 一段と高く、乾いた木のぶつかる音が響いた。

二人の手から同時にこん棒が弾けとぶ。

丸腰になってしまったいっちーとさーちゃんは、にらみ合い、手刀を構えたまま動けない。

「ね、一緒にクッキー食べよう」

 あたしは相変わらずママのクッキーをかじっている。

「おいしいよ。たくさんあるから、ね」

 その言葉に、ようやく二人は腰を下ろした。

今日はお日さまぽかぽかいい天気。

ケンカをするにはもったいないような日には、仲良くした方がいい。

そのまま芝生の上で三人でクッキーを食べ終えたら、すっかり日の傾いた道を駅まで歩く。

あたしの右側にはいっちーがいて、左にはさーちゃんがいた。

「ね、あたしたちもID交換しようよ」

「好きにすれば」

 放課後はたこ焼きを食べるのがいつものお約束。

フードコートの空いていた席を見つけてそこに座った。

「さーちゃんはなんでそんなに鬼退治を嫌がるの?」

「別に。嫌がってはないよ」

 熱々のたこ焼きの上でかつお節が踊る。

あたしたちはパック詰めのソースを一つ一つのたこ焼きに丁寧にかけている。

「こん棒が恥ずかしいだけ」

 結局まだベルトは買えていなくって、それは未だ丸テーブルの横に立てかけられている。

「別に持ってたって恥ずかしくはないよ。これは決意表明だから。負けませんっていう、証」

 さーちゃんはマヨネーズを端っこにまとめて出すタイプ。

竹串でそれをすくってソースの上にのっけると、プスリと突き刺した。

「そんなもんが決意表明になるんだったら、ラクでいいよね」 

 大きなたこ焼きをあーんと一口。

熱かったのか両手で口を覆ってはふはふしてる。

放課後の時間帯のフードコートは、いつだって人でいっぱいだ。

「なぁあのコ、何か食べ方ヤらしくない?」

 すぐ隣に座る男子高校生のグループからだ。

さーちゃんを見て笑っている。

「なにあの頭。丸坊主だし」

「だっせー。かっこつけてるつもりなわけ?」

「胸でかいのにもったいねー」

「あんなんで鬼退治とかマジ?」

 こちらにわざと聞こえるようにしているのはバレバレだ。

気にしても仕方がないので放置している。

そのうちに話題も変わるかと思っていたのに、向こうにそんな気はないらしい。

かまって欲しいのなら、もうちょっとやり方考えろよとは思う。

言い返そうと振り返ったあたしの腕を、さーちゃんはつかんだ。

「おいしい! こんな熱々でおいしいたこ焼き食べたの久しぶり。病院じゃ出てこないから」

 彼女は目尻を拭う。

「抗がん剤の副作用が強くて、髪も胸もこんなになっちゃったけど、外でものが食べられるってだけでなんか幸せ」

 さーちゃんは微笑む。

いっちーは彼女を見つめた。

「え……。そうだったの?」

「うん。だから……いつも無理言ってゴメンね」

 見つめ合う金髪の坊主頭とミルクティー色の長い髪。

いっちーはさーちゃんの手を取った。

「ご、ゴメン。私、そんなこと全然知らなくって……。それで、それで……」

 いっちーはさーちゃんの手を握りしめたまま涙ぐむ。

あたしは分かりやすく背を反らし、隣のテーブルをのぞき込んだ。

「たこ焼き、おいしいね!」

 そう言ってにらみつけると、ヤジを飛ばしてきた連中はコソコソと立ち上がり、すぐに視界から消えた。

本当に面倒くさい。

「ゴメンね。さーちゃん。私も猿木沢さんじゃなくって、さーちゃんって呼んでもいい?」

 いっちーの頬に涙が流れた。

「わた……、私も、さーちゃんとID交換したい」

 ぽろぽろと涙をこぼすいっちーの手を、ふいにさーちゃんは振り払った。

「って、そんなのウソに決まってんじゃん、あんた本気でバカ?」

「え?」

 あたしはもうどうしていいのか、半分分かんない。

「まぁ、ホントじゃないのは分かるよね。だってさーちゃん元気だし、毎日学校来てるし」

 いっちーはあたしを見下ろす。

その本気でびっくりしている表情に、なんだか申し訳なくなって、無言になってしまった。

いっちーの体は怒りに震えている。

「あんたってのは、本当にいつもいつも……」

「アホか」

 さーちゃんは、いっちーの胸ぐらをグッとつかんで引き寄せた。

「私がこんな頭にしてんのはね、バカにされないためよ。ふわっふわのくるくる長い髪だとね、どんなにカッコつけてたって相手にされない。バカにされるだけ。分かるでしょ? 私みたいなチビの巨乳はね、絶対まともに扱ってもらえないの。話しすら聞こうとしない」

 さーちゃんはドカリと椅子に腰を下ろした。

「いつもニコニコ笑って周囲のイメージ通り、頭の悪いフリしてんのはもう飽きたから。だからね、思い切って頭を坊主にしてみたのよ」

 彼女は笑っていた。

「そしたらね、本当の私を知っている人以外、誰も寄りつかなくなった。便利じゃない? 私はようやく自由になれたのよ。ラクすぎちゃってさー」

 少し冷めたたこ焼きを、彼女はまた一口で放り込む。

今度は美味しそうにもぐもぐと食べた。

「だからね、こん棒なんていらないの」

 いっちーのまっすぐな長い髪と、あたしのくるくる天パショート。

さーちゃんが髪を伸ばしたら、どんなふうになるんだろう。

「たこ焼き、食べないの?」

 さーちゃんにそう言われて、いっちーは串を手に取った。

「食べる」

 まだ温かいそれを、口に放り込む。

さーちゃんは学校ではいつも元気で明るくて、友達もいっぱいいて、楽しそうに過ごしている。

いっちーは浅く長いため息をついた。

「あんたが鬼退治に興味ないってのならいいけど」

 いっちーはさーちゃんを見つめる。

「私は別に、嫌いじゃないよ」

「あはははは! やっぱ真面目だね」

 さーちゃんは腹を抱えて笑う。

目尻にあふれる涙を拭った。

「私はあんたのそういうトコ、面倒くさいって思ってるよ」

 いっちーは静かに闘志を燃やしていて、さーちゃんはニヤニヤ笑ってるから、あたしはもう何だかどうしようもない。

「早く食べないと、あたしが全部食べちゃうよー」

 いっちーのたこ焼きにぷすりと串をさす。

それを目の前でひらひらさせたら、いっちーの口が開いた。

そこへ放り込む。

最初はちゃんといっちーね。

意外と何でも自分が一番じゃないと気に入らない、真面目でお堅い性格。

次はさーちゃん。

お友達になった記念にやっぱりあーんしてパクリ。

チャラチャラしてるように見えるけど、中身はすっごいしっかりしてる。

あたしは串に刺したたこ焼きを、そんな二人に一つずつ食べさせてあげる。

「みんなで食べるとおいしいね!」

 二人はムッとした顔のまま、もぐもぐしていたけど、たこ焼きはおいしいから大丈夫。

「ね、やっぱりベルト、いっちーの道場で使ってるやつを買えないかな。親には相談できない?」

 いっちーはたこ焼きをゴクリと飲み込んだ。

「分かんない。親は私に何も言わないから。こん棒とベルトくらいはあると思うけど……」

 いっちーはうつむいてしまった。

空っぽになったたこ焼きの舟の上には、青のりとかつお節の残骸が散らばる。

「私はいつも手伝いっていうか、雑用ばっかりで……。そういうのは何ていうか……」

「鬼退治が悪いとかは、全然思ってないけど」

 さーちゃんは立ち上がった。

「あんたたちにそれなりの覚悟があるってとこを見せないと、誰も助けてはくれないと思うよ」

 彼女はリュックを肩に担ぐと、空っぽになった三人分の舟を持ち上げる。

「みんなそれなりに自分たちのやり方で、鬼とは戦ってるんだから」

 彼女のその言葉に、あたしが笑みを浮かべたら、いっちーはムッとした顔をする。

さーちゃんはフンと鼻息一つだけを返して行ってしまった。

すっかり静かになってしまったままのいっちーと駅前で別れる。

また明日も学校で会えるってのは、とっても幸せなことだと思った。



第6章


 職員室への呼び出しがかかったのは、その日の昼休みだった。

あたしはいっちーとそこへ向かう。

「失礼しまーす。なんっすかー」

 堀川は国語教師で、典型的によくある派手なオバさんだ。

いつもでも短すぎるピチピチのタイトスカートに、ボタンがはちきれんばかりの巨乳をブラウスから振りかざし、眼鏡をかけた厚化粧はS系イヤミ教師そのもの。

「コレ、あんたたち?」

 見せられたのは、鬼退治サークルの創立申請書だ。

「え? 先生が顧問やってくれんの?」

 バン! と、堀川はそれをテーブルに叩きつけた。

「冗談じゃないわよ。なんで私がこんなことしなくちゃいけないの」

 肩までの髪をさらりとかき上げる。

「面倒なこと言ってないで、さっさと諦めなさい。あんたね? 最近木刀持って校内うろついてるってのは」

 職員室の事務的な椅子がキィと鳴った。

そのままあたしといっちーを見上げる。

「今更なんなの? こんなことにこだわってるのなんて、時代遅れもいいとこじゃない」

 堀川の視線はあたしたちをくまなく観察していた。

「今だってこん棒持ってないじゃない。なによ。そんなんで本当にサークル起ち上げる気?」

「今は学校だから。鬼は出ないし……」

「ふざけんじゃないわよ。帯刀者ってのはね、寝る時以外はずっと肌身離さず身につけているものなのよ」

 盛大にため息をつかれる。

「ま、所詮そんなもんよね、あんたたちなんて。どうせメンバー5人も集まらないでしょ。創立許可は下りたけど、期限は一ヶ月よ。その間にメンバー集まらなかったら、取り消しになるから」

 眼鏡の奥の大きな目が、キッとあたしたちをにらんだ。

「じゃ、せいぜい頑張って」

 職員室を出る。さっきまでの賑やかな昼休みが、まるで異次元の喧噪みたい。

いっちーは不安そうにつぶやいた。

「どういうこと? 一ヶ月以内にメンバー集めないといけないなんて、知らなかった」

 堀川の話によると、どんなサークルを作りたいのか、生徒が出した申請書を審査して、まず学校がそこに許可をだす。

作っていいよって言われてから、実際に作る準備を始めて、条件を整えたところでまた審査する。

それで通れば晴れて成立ということになるらしい。

「ま、なんとかなるっしょ。うちらの他に3人集めればいいだけだし」

 ふと顔を上げれば、廊下を歩いているクラスメイトが目に入る。

「ねぇねぇ、ちょいとそこの素敵なお嬢さん?」

 あたしは通りすがりのしーちゃんの肩に、腕を置いた。

「サークル起ち上げのメンバーにさ、名前だけ貸してもらいたいんだけど、どう?」

「あはは、ももの鬼退治ぃ?」

「そ」

 堀川から渡された、真っ白なサークル名簿を見せる。

「いいよー。もも頑張ってー」

 その様子を見ていた周りの連中も、わらわらと近寄ってきた。

「なになに? 鬼退治サークル本当に作るんだ」

「名義貸し?」

「別にいいよー」

 約10分足らずで、あたしといっちーを含めた7人の署名が集まる。

職員室へ向かった。

「こんなもん、認められる訳がないでしょう!」

「なんで?」

 堀川は最高にイライラしている。

「集めたじゃん」

「やり直し!」

 ムッとしたあたしに、堀川は言った。

「創立時のメンバーは専属部員が必要です! こんなの、あんたら以外全員他の部活入ってるじゃない」

 まぁそう言われればそうだけど、そんな話は聞いたことがない。

「でも、他にも掛け持ちしてる子なんて、普通にいるし」

「起ち上げの時は別なの!」

「んだよ、それ」

 堀川は鼻息荒く腕を組む。

「とにかく、このメンバーでは認められません! 名簿は処分します」

 目の前でみんなの名前がシュレッダーにかけられる。

せっかくの思いが、小刻みに震えながら機械に消えてゆく。

「もっと真面目にやってちょうだい」

 結局、振り出しに戻された。

あたしはイラついたまま芝生の上に寝転がる。

「くっそ、なんだよアイツ! めっちゃ腹立つんだけど」

 いっちーは渡された紙切れをじっと眺めていた。

「もも。これよく見たらさ、メンバー集めただけじゃダメだよ。設備とか備品の使用許可もとらないといけないから、そう簡単にはいかないよ。演武場使いたかったら、バレエ部とチア部に使用時間の交渉しないと」

「あいつらか……」

 バレエ部とチア部は、めちゃくちゃ仲が悪いので有名だ。

伝統ある女子校には、踊る方のバレエ部がなければいけないらしい。

いや、しらんけど。

学校創立時から存在するというバレエ部はうちの名物といえば聞こえはいいが、いまや名前が残されているだけの、幽霊部員受け入れ箱だ。

 そのバレエ部に対抗するようにチアリーディング部が出来たらしいが、これもまた遙か昔の話し。

チア部にいたっては何をやっているのか分からない、正体不明の集団に成り下がっている。

「不定期で軽音と演劇部も割り込んでるよ。そこにうちらも入り込める?」

「あー」

 体育館はガチな運動部が占拠しているから絶対に無理だし、吹奏楽部みたいに廊下で筋トレ……は、主な活動場所として音楽室があるから許されている特別使用許可だ。

「鬼退治」のメインで使用するのが通常教室というのは、言い訳だとしても難しい。

「どっか他に練習出来そうな場所あるかな?」

 今いるところは校舎と壁の隙間みたいなところで、屋根もない。

「こん棒も何本かは欲しいし、ロッカーとかもあったらいいよね」

「それも創立許可が下りないことにはどうにも……」

 ここでウダウダ考えていても仕方がない。

あたしはヨッっと立ち上がった。

「とりあえず、活動できそうな場所を校内に探してみよっか」

 いっちーと2人、放課後の校内を巡回してみる。

正門前の広場では、運動場の割り当て曜日から外れた野球部がキャッチボールをしているし、その校庭ではサッカー部が走り回っている。

テニスコートはテニス部だけのものだし、競争率の激しい体育館の使用日程に、割り込む隙なんて見当たらない。

中庭と校内に残っているわずかな隙間に至っては、完全に陸上部が占拠していた。

「うちの学校って、こんなに部活盛んだったっけ」

 ついそんな言葉を漏らす。

いっちーもため息をついた。

「まぁね。あたしも陸部に誘われたことあったし……」

 あたしもいっちーも、運動神経は悪い方ではない。

うろちょろしてたら、「入部するなら歓迎するよー」とか言われてますます困る。

「『鬼退治』って言うと、全部譲らないといけないと思ってるからさ。部活やってる子には嫌がられてるかもね」

「あぁ、それか」

 ため息をつく。

『鬼退治をしようとする者は必要と認められた場合他に優先される』か。

あたしは持っていたこん棒を肩に担いだ。

「仕方ないよ。後から始めようってんだから、こんなもんだよ」

 体育館横にある体育準備室が見えた。

そこにはうちの体育教師5人の席がおかれている。

今は放課後部活の時間で、中には誰も見当たらない。

「おぉ。こん棒担いで相変わらず威勢がいいのぉ」

 小田ティーチャーだ。

体育科所属の最高齢先生。

ぽっちゃり体型の白髪のおじいちゃんは、体育準備室横の花壇のお手入れをしている以外に、他で姿を見たことはない。

「小田せんせー。聞いてよー」

「なんじゃこん棒担いで。ベルトはどうした?」

 おじいちゃん先生は基本的に、自分の興味があることにしか興味はない。

「鬼退治サークル作りたいんだけどさー。メンバーが集まんないのー」

「は? 鬼退治か。よし。ちょっとそこで待ってろ」

 腰にぶら下げた鍵の束から、体育科倉庫を開ける。

「うちにも昔は鬼退治部があってなぁ。それがまだ残っとるんじゃあ」

 小田ティーチャーが取り出したのは、校章入りの立派なベルトだった。

「ホレ、お前らにやる」

「マジで! いいの?」

「かまんじゃろ」

 そう言って先生は笑った。

あたしといっちーはそそくさとそれを装備する。

「昔はどこの学校にもあったんだけどなぁ。今はもう流行らんからなぁ」

「めっちゃカッコよ!」

「先生ありがとう!」

 やった。

本気でうれしい。

まさかこの学校の校章入りベルトが存在するなんて、思いもしなかった。

「サークルじゃなくて正式な部活みたい!」

「やばい、やる気出てきた」

 黒革のしっかりとしたベルトは、少し古風なデザインが逆に今っぽくてとてもよい。

何より制服によく似合う。

「おぉ、よく似合うな。頑張れよ」

「小田先生ありがとう!」

 あたしといっちーは走り出す。

何かもうこれだけで満足しちゃいそう。

職員室前の廊下にある、大きな鏡の前に立つ。

あれこれポーズをとって騒いでいたら、堀川が顔を出した。

「……。なにそれ。どっから持ってきたのよ」

「小田先生からもらった」

「まだいっぱい体育科倉庫にあったよ」

 堀川の視線は、じっと制服の上のベルトに注がれる。

深く息を吐いてから、眉間を押さえた。

「ま、いいわ。メンバーは集まったの? どうせまだなんでしょ。やれるもんならやってみなさい」

 堀川はあたしたちを鏡の前から追いやると、どこかへ行ってしまった。

「なんだ? アレ」

「感じワル」

 仕方なく教室に戻る。

堀川から渡されたサークル新規起ち上げ条件を、じっくりと読み返した。

「なんの部活にもサークルにも所属してない子って、知ってる?」

「完全な帰宅部ってことでしょ。そういう子って、大概他に名義貸したりしてるからなぁ」

「ねぇ。もも待って」

 いっちーが紙面を指さした。

「コレ。顧問の予定が堀川になってるよ」

「うっそ。それはない」

 堀川自身は別に好きでも嫌いでもなんともないけど、顧問となると話は別だ。

「誰が決めた?」

「校長? それとも堀川自身?」

 顔を見合わせる。

「確か顧問の先生って、こっちから頼めば誰でもよかったよね」

 生まれて初めて高校の生徒手帳、校則のページを開く。

「ほら、やっぱそうだ」

「登録許可書、堀川に内緒で新しいのもらってこよう」

 いま持っている書類は、あたしの机に突っ込んだ。

顧問のアテは決まっている。

生徒手帳によると、部活やサークルの管理は生徒会の所属になっている。

生徒会室なんて学校のどこにあるのか知らなかったけど、それも生徒手帳に書いてあった。

とても便利な手帳だ。

「失礼します」

 返事がして中に入る。

はーとしーの双子がいた。

「おいっす」

「ももじゃん。どうしたの?」

 あたしは事情を説明した。

「あぁ、そういうことなら、新しい書類あげる」

「で、メンバーは集まりそうなの?」

「掛け持ちはダメって言われて、ちょっと苦戦してる」

「掛け持ち?」

 はーとしーは同時に首をかしげた。

「そんな規則はないと思ったけど」

 はーちゃんは生徒会室の棚から、何かの冊子を取り出した。

「顧問の先生は生徒自身の依頼と許可でオッケーだし、メンバーも5人は必要だけど、掛け持ちかどうかは規定にないよ。主な活動場所の確保は必要だけど」

「ホントに? じゃあなんで堀川は、あんなことを言ったんだろ」

「さぁね」

「邪魔するつもり?」

 はーちゃんからしーちゃんの手に渡った何かの冊子は、ポンと元の位置に戻ってその棚の扉は閉じられる。

「つーかこのベルトなに? どうしたの?」

「めっちゃカッコイイ」

 あたしはいっちーと目を合わせ、ニッと微笑む。

「まぁね」

「小田っちからもらったんだ」

「いいね!」

「うん、いい!」

 はーとしーも一緒に笑う。

「頑張って」

「うまくいきますように!」

 新しい書類を手にしてしまえば、なんの問題ない。

小田っちを落とし込む計画も完璧だ。

あたしたちは廊下を猛ダッシュして、まっすぐに体育科倉庫へ向かう。

小田っちはやっぱり花壇の草むしりをしていた。

「先生! あたしたちの顧問になってください!」

 麦わら帽子のおじいちゃん先生は、くるりと振り返る。

「そりゃ知っとるぞ。確か顧問に国語の堀川先生がなっとったじゃろが」

「あたしたちは、先生に顧問になってほしいんです!」

 小田っちはじっとあたしたちを見つめる。

いっちーは真っ赤な顔をして、もじもじと秘密兵器を取り出した。

「あ、あの……これ。入部希望者のみんなから、やっぱり小田先生に顧問やってほしいって、寄せ書きしたんです」

 さっき購買部で買ってきたばかりの色紙だ。

名前を借りるついでに、こっちも書いてもらった。

製作時間正味15分の即席アイテム。

それを見た小田っちの顔がビシッと強ばる。

「先生、やっぱりみんな、小田先生がいいよねって」

「堀川先生も素敵なんですけど、いつもお世話になってる小田先生の方が、頼もしいかなって……」

「あ、あの……迷惑でしたか?」

 小田っちは動かない。

失敗だったか? 

そう思った瞬間、その頬に涙が流れた。

「……そうか。分かった。お前らがそんなに言うなら、ワシが顧問になっちゃる」

 しわしわの手で豪快に涙を拭う。

「しっかり頑張れよ!」

 やった! おだっちのピカピカ笑顔だ!

「はい!」

「全部書類が埋まったら、最後に持って来い。ワシがサインして提出しておくからな」

 笑顔で手を振られる。

あたしたちも思いっきり手を振った。

先生の姿が視界から消え、息を止めてワザと真っ赤にしていた顔から、ようやく深呼吸する。

「ちっ、やっぱ活動場所の確保まではしてくれないか」

「仕方ないね。ヘンに口出しされるよりかはマシだと思わないと」

 いっちーと目を合わせる。

勝負はこれからだ。



第7章


 日を改めて、もう一度校内を見て回る。

鬼退治サークルの活動場所としてふさわしいのは、どう考えても演武場以外ありえない。

「やっぱここか」

「だよね」

 体育館横に立つ円形に近い建物。

正面には昔書道の先生が書いたという看板が掲げられる。

「どうする?」

「聞かれても」

 あたしの隣には、いっちーが立ってくれている。

方法はこれしか思いつかない。

チア部とバレエ部が仲悪いとか、考えてみればうちらとは何の関係もないし。

体育館半分くらいの広さの、さほど大きくはない演武場だ。

「行くか」

「だね」

 あたしは演武場正面の扉を突き破った。

「たのもう!」

 入り込んだそこには、バレエ部とチア部の部員ほぼ全員が集合していた。

両者対面しギリギリとにらみ合う。

「うっ……」

 その緊迫した雰囲気に、あたしといっちーは固まった。

「あんたたちが最初にこんなことしたんでしょう!」

「どうして自分たちのせいにできるの?」

「話し合って決めたことくらい、ちゃんと守ってほしいんだけど!」

 今にも暴動に発展しそうな勢いだ。

「あ、あの……。スミマセン……」

「何の用?」

 チアの2年生だ。

「もも。もしかしてあんた、またここを借りたいって言ってくるんじゃないでしょうね」

 バレエ部の方からも声がかかる。

「悪いんだけど、今そんなことに構ってられる余裕ないから」

「あ……えっと……」

 その最悪過ぎる雰囲気に、あたしといっちーは完全に怖じ気づいた。

「し、失礼しましたぁ!」

 即座に退散。扉が閉まったとたん、その向こうから罵詈雑言の応酬が響き渡る。

これは予想以上に酷い。

困った。

「話合いどころじゃないじゃん」

 扉を見ながら、いっちーもため息をつく。

「誰かチアかバレエ部に知り合いいない? どうなっているのか、もっと正確な状況を把握しないと……」

 校庭からこちらに走ってくる金髪坊主頭が見えた。

階段にさしかかったところで、あたしたちを見上げる。

「何?」

「さーちゃん、チア部だっけ?」

「チアの部長」

 そう言って、あたしたちがさっき閉め出されたばかりの扉に手をかける。

「あぁ……」

 あたしといっちーから絶望のため息が漏れた。

そんなあたしたちをさーちゃんはにらみつける。

「何よ、見学? 鬼退治はどうした」

 フンと鼻息を残して、乱闘騒ぎの続く渦中へと消えた。

とたんに中が静まり返る。

「あー」

 状況は非常によろしくない。

「どうする?」

「今日のところは一旦引こう」

「いいの?」

「作戦立てた方がいいよ。このまま突っ込んでも、いいことないだろうし」

「……。分かった」

 それからいつもの校舎裏に戻って、2人で剣の練習をする。

完全下校を知らせるチャイムが鳴り、あたしたちは外へ出た。

 快速の止まらない小さな駅前広場でも、夕方の帰宅ラッシュ帯にはそれなりの人手がある。

ビルの谷間に傾いた太陽は、徐々に赤みを帯び始めた。

いっちーはため息をつく。

「で、どうするよ、もも」

「向こうの事情がどうなってんのかは分かんないけど、それとこれとは話が別だから。あたしたちはあたしたちのことをやんないと」

 いっちーと今後の方針について話し合う。

まずは最終目標をはっきりさせること。

その実現のためには、手段を選ばないこと。

たとえどんな行動を互いにとったとしても、それは全て鬼退治サークル設立のためだと信じること。

「あんたたち、なにやってんの?」

 さーちゃんの声がして、振り返る。

「いま帰り?」

 彼女はためいきをついた。

「こんなところで制服に木刀ぶら下げてた厳つい女子高生同士が、腕組みしながらなにを真剣に話し合ってんのよ」

 あたしは覚悟を決める。

「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 バレエ部とチア部のいざこざについて聞いてみる。

「……。別に、たいした理由じゃないんだけどね……」

 金髪坊主のさーちゃんは、駅前花壇の縁石に腰を掛けた。

あたしといっちーもその隣に座る。

「昔は仲良くてさ。そもそもチアもバレエ部もたいした活動なんてしてないじゃない? 互いに行ったり来たりしながら、何となく仲良くやってたんだよね。練習も今みたいに別々にしてなくて、バレエ部とチア部とには分かれてるけど、ずっと一緒に使ってて……」

 昨年現役を引退した今の3年生部員は、特にバレエ部とチア部で仲がよかった。

両者の混成チームでチア部最後の大会に出場し、有終の美を飾るはずだった。

その試合中、最後の見所となる総決算のタワーが崩れ落ち、助っ人参加していたバレエ部のエースは足を捻挫してしまう。

そのためにバレエ部は目指していた最後の大会に出られず、それぞれの活動は終了してしまった。

「大変なことじゃん!」

 いっちーが口を開いた。

「そりゃ根に持つって」

「問題はそこからよ」

 さーちゃんは続ける。

「何だかんだ言ってもね、うちの学校って基本的に、部活も何もかも生徒任せじゃない? 強いところは強いけど、バレエ部とチア部ってねぇ……ほら、それなりだから」

 存続すら危ういバレエ部と、部員数減少の一途をたどるチア部。

「その一件で決裂したの?」

「逆よ、逆」

 怪我を負わせてしまったチア部部長は部の解散を決めた。

部員たちも納得し、チア部はそのまま解散、バレエ部に全てを明け渡す予定だった。

「ち。そうしてくれればよかったのに」

 あたしは舌打ちをする。

いっちーは両目に思いっきり感動の涙を浮かべ、さーちゃんの話に聞き入っていた。

「そんなことは許されないって、去年のバレエ部部長がチア部部長を説得して、それで円満解決よ。最後の打ち上げは合同でやってすっごい盛り上がって、今後も仲良くやっていきましょうって……」

 暗く沈み込むさーちゃんの横顔に、あたしはため息をつく。

「で、結局なにが問題なの?」

「その打ち上げはね、カラオケボックスの大部屋借りてやったのよ。そしたら人気アイドルの推し被りが発覚して……」

「は?」

 前年度バレエ部部長の万上さんことバンジョウ先輩と、チア部前部長の千愛ちゃんことチア先輩が、絶対同担拒否の推し被りだったことが発覚した。

「もう最悪よ。感動のお別れ会のはずが、2人のカラオケバトルから殴り合いの喧嘩にまで発展しちゃって……」

 さーちゃんは大きくため息をついた。

「私ももう、どうしていいか分かんない。2人とも大好きだしそれぞれの部員はみんなそれぞれの部長側についてるし……。『愛』ってホント罪だよね……」

「なるほど。状況はよぉーく理解した」

 あたしはスカートの裾を振り払い立ち上がる。

ギリギリと奥歯をかみしめた。

「任しとけ。そんなのあたしがガッツリあっさり綺麗さっぱり解決してやんよ!」

「そう簡単にはいかない」

 さーちゃんも立ち上がる。

「うちらの問題はうちらで片をつける。そういうもんでしょ」

「今ですらどうにもなってないのに、どうすんのよ」

「それでも、どうにか……する……」

 珍しく、おどおどと彼女の視線は下に下がった。

さーちゃんはとぼとぼと歩き出す。

その背中はただ見送るしか出来なくって、あたしは隣にいるいっちーに向かって言った。

「コレを何とかしてみるか」

「そうだね。チアの部長がさーちゃんなら、バレエ部の部長も当たってみよう」

 翌日、生徒会のはーとしーに尋ねてみれば、そのバレエ部新部長は三組の雉沼さんだった。

三組にはさーちゃんもいる。

「キジ、呼び出したりしてゴメンね」

 一年の時にいっちーとキジは同じクラスだったらしい。

いっちーの呼び出しに応じたキジは、昼休みの中庭にやって来た。

「あら。珍しいこともあるもんだと思ってたら、なんの用?」

 キジと呼ばれた彼女は長い黒髪を泳がせ、仕草までとっても優雅で気品がある。

スラリと背の高いいっちーと彼女が並ぶと、長髪の騎士とどっかのお姫さまみたいだ。

「あのさ、バレエ部のことなんだけど……」

 一通り事情を説明した後で、キジはため息をついた。

「で、私たちのこととあなたたちになんの関係があるの?」

 キジは切れ長の目を冷たく光らせる。

「鬼退治サークルを作るのはどうぞご自由に。だけどそれとこれとは話しが別よ」

 彼女は立ち上がる。

「この話しはさーちゃんにも?」

 あたしはゴクリと唾を飲み込む。

この二人の関係をコントロールしたいなら、どうすればいい? 

だけどこんなところで、つまらないウソをついても仕方がない。

「さーちゃんから聞いた。彼女も何とかしたいと思ってる」

「そう」

 キジの艶やかな黒髪が揺れる。

「申し訳ないけど、あなたたちの助けはいらない」

 昼休み終了5分前のチャイムが鳴る。

去りゆく彼女の背中に、昨日見たさーちゃんの寂しそうな背中が重なる。

あたしは覚悟を決める。

やっぱりなんとかしなくちゃ。

それは鬼退治のためってだけじゃない。

放課後になった。

「頼もう!」

 勢いよく演武場の扉を開けた。

さーちゃんとキジはそれぞれの仲間を引き連れ、やっぱり向かい合っている。

「来たね、もも!」

 さーちゃんは手刀を構えた。

「ここにあんたたちの居場所はないって言ったよね!」

 その手にはチアのポンポンが握られている。

キジは派手なバレエ用の扇子を手にしていた。

「口出しは無用って、確かに伝えたはずだけど?」

「くっだらない喧嘩してるくらいなら、うちらに場所譲れ!」

「悪いけど、それは無理!」

 あたしは腰のこん棒に手を置いた。

さーちゃんの高いジャンプからの跳び蹴り。

チア部部長の彼女は、身軽さが最大の武器だ。

着地と同時に床を擦るような素早いリーチからの回し蹴り。

飛び退いたあたしの落下予測地点に、渾身の拳を突く。

その拳を避けたはずのあたしの頬を、ポンポンのヒダがかすめた。

レインボーラメのそれは薄い刃のように肌を裂く。

空中で自在に弧を描くポンポンは、さーちゃんの手に戻った。

「キジ、ここは一時休戦ってことで」

「そうね。まずはももたちをなんとかしないと」

 元々は仲良く同じチームを組んでいた相手同士だ。

手強いのは分かってる。

「どっからでもかかって来い!」

 さーちゃんは両手に大きくポンポンを掲げ大の字ポーズを決める。

その前でキジはバレエダンサーらしく扇子を片手にしなやかなポーズと取った。

「邪魔はさせない!」

 腰のこん棒を抜いた。

「望むところよ!」

 あたしが踏み込むと同時に、2つの影は動いた。

ポンポンは手裏剣のように交錯する。

その1つをたたき落とした。

その隙をついた死角からキジの足蹴りが伸びる。

あたしは床にこん棒突き、それを支点に真上に伸び上がった。

ポンポンは空を斬る。

手の甲に赤い血筋が走った。

「やるわね」

 着地したあたしは、こん棒を握る手の甲を舐める。

2対1では分が悪い。

「わたしも手伝う」

 いっちーがこん棒の柄に手をかけた。

「ダメよ。これはあたし1人でやる。だから見てて」

 優雅かつ無駄な動きのないバレエ部キジは、ルルヴェのつま先立ちから、右手を挙げ左膝を折り曲げたパッセの姿勢へ変わった。

手足を水平に伸ばしたアラベスクからの、腰を落とした前屈レヴェランスで落ちていたポンポンを拾う。

それを高く空中に放り投げた。

受け取ったさーちゃんは、そのポンポン二つを縦にして上下に激しく振る。

「さぁ、今度はどこへ飛ばそうか」

 キジの軽やかなステップがスタッカートを刻む。

あたしはこん棒を正眼に構え、ゆっくりと間合いをとる。

「鬼退治サークルを作りたいの。場所を貸してほしい」

「鬼退治なんて、特別にサークル作るほどのことでもないって言ったよね」

 さーちゃんが動いた。

両手を床につき倒立からの跳び蹴り。

すかさずポンポンは舞う。

「私たちはいつだって、鬼と戦ってる」

 飛び交うポンポンの影でキジは動く。

遮られた視界で、その動きは読みにくい。

「こん棒ぶら下げてる人間だけが、戦ってるわけじゃないし」

「それでも!」

 神経を研ぎ澄ます。

「こうしてこん棒ぶら下げて歩くことに意味があると思ってる。あたしは、『あたちたちは戦っています』っていう証明がほしい」

 左斜め前からさーちゃんの手刀が下りてくる! 

それをこん棒で受け止めた瞬間、ポンポンは耳を切り裂いた。

飛んでくるもう一つを避けようとするあたしに、容赦なく飛び交うキジの扇子が襲う。

「いらないでしょ。そんなの」

 さーちゃんからの回し蹴りが脇腹にクリーンヒット。

その衝撃に片膝をつく。

2人はあたしを見下ろした。

「誰にだって、知られたくない傷の1つや2つ、あるでしょ」

「それを晒してどうするの」

「こん棒も鬼退治サークルも、いらなくない。絶対!」

 水平に斬る。

パッと飛び退いたキジに、あたしはすかさず斬りかかる。

「自分は1人じゃないって、遠くからでも見てくれる子がいればそれでいい」

 彼女は身軽なステップと身のこなしで、華麗に剣先を避ける。

「こっちを忘れてない?」

 さーちゃんの倒立から振り下ろされた蹴りを、まともに食らった。

手からこん棒が吹き飛ぶ。

倒れ込み床に這いつくばったあたしは、傷だらけの拳を握りしめた。

「あたしは、その旗印になる。たとえ燃やされ、落とされ、汚されても、それでも一度は自分たち自身で戦ったんだって、証がほしいの」

「くだらないね」

「なんの役にも立たないじゃない」

 さーちゃんはこん棒を踏みつけた。

「意味ないね」

「同じ女の子なのに、そんなことを言うんだ……」

 腹の底が熱くなる。

あたしが戦わないといけないのは、本物の鬼だけじゃない。

もっと違う何かとも戦わなければいけないんだ。

 起き上がる勢いでの体当たり。

さーちゃんとキジはパッと避けた。

瞬時に拾い上げたこん棒へ向かってポンポンは飛ぶ。

弧を描き襲いかかるそれを、こん棒で叩き落とした。

滑るように光るそれは、カシャリと乾いた音を立て動きを止める。

「うまくいくと思うの?」

「そんなの、やってみないと分かんない!」

 水平に掲げたこん棒の先に、二人の姿が並ぶ。

あたしはこんなところで諦めるわけにはいかない! 

踏み込む勢いで斬りかかる。

キジは体が柔らかく横移動が多い。

さーちゃんは高い筋力で上からのジャンプ攻撃とポンポンを繰り出す。

攻撃パターンが読めてきた。

あたしがキジを避けている間に、さーちゃんは飛び上がる。

それに気をとられればポンポンは襲い、態勢を立て直したキジがその隙に攻撃を仕掛ける。

あたしはボッコボコにされながらも、じっと反撃のチャンスを狙っていた。

いくら連携のとれた二人にだって、スキや油断は生じる。

二人の立ち位置が、微妙にずれた。

「そこだ!」

 渾身の一撃を繰り出す。

さーちゃんの上に振り下ろしたそれを、割り込んだキジの扇子が受け止めた。

一瞬の静寂。

肩での荒い呼吸が演武場に響いている。

もう動く力の残っていないあたしは、その場に崩れ落ちた。

そんなあたしを、さーちゃんとキジは見下ろす。

「ふん。しょうがないわね、譲ってあげるわよ」

「そうだね。やる気は見せてもらったし」

 二人はくるりと顔を合わせた。

「てゆーか、私たちやっぱり息ぴったりじゃない?」

「ホントそう思う! 私の相方は、やっぱりさーちゃんじゃないと無理みたい」

「私も!」

 両方の手の平を合わせ、互いの指を絡める。

「ね、キジ。やっぱりバレエ部とチア部、合体させない?」

「そうだよね。その方がより高みを目指していけると思う」

「やっぱり? キジならそう言ってくれると思った」

「当たり前じゃない。私たちの表現に対する情熱は、どこまでも自由なのよ!」

 演武場の扉が開く。

「さすがね、あなたたち!」

「それでこそよ!」

「バンテ先輩!」

「チアちゃん先輩!」

 そう呼ばれた二人は、さーちゃんとキジ、互いの手を取った。

「演武場が大変なことになってるっていうから、駆けつけてみれば……」

「あなたたち二人なら、きっと大丈夫だって信じてたわ」

「先輩!」

「もう仲直りしたんですか?」

「えぇ。手の届かない尊い推しも大切だけど、目の前にいるリアルな関係はもっと大切でしょ」

「いつまでもそんなことでいがみ合う私たちじゃないし」

 歓喜と賞賛の声が辺りを包む。

あたしは起き上がろうとして、痛みに崩れ落ちた。

演武場はすっかり幸せに包まれている。

「もも。お疲れさま」

 目の前に差し出された、いっちーの手をつかんだ。

彼女はこん棒とあたしを抱き上げる。

「行こう」

「うん」

 よかった。

さーちゃんとキジが仲直り出来て。

いっちーも笑ってくれたし。

あたしはその微笑みに安心する。

肩をかしてもらい、いっちーに引きずられるようにしながら立ち去る。

「もも!」

 さーちゃんの声だ。

「演武場、チア部の時間をあんたたちに譲る」

 あたしたちは振り返った。

「ありがとう。もものおかげで助かった」

「そうね。これからよろしくね」

 その横でキジも微笑む。

「うん!」

 入って来た時には、果てしなく気で重かった扉を、晴れやかな気持ちで後にする。

保健室に運び込まれたあたしに、いっちーは手当をしてくれた。

慣れた手つきで軟膏を塗り、絆創膏を貼ってくれる。

「もう。無茶ばっかりして。今度から私も戦うからね」

「うん。次は一緒に頼むわ」

 夕焼けの日差しに、ミルクティー色の茶色の髪が透けている。

しばらくして、演武場使用に関する合意書が生徒会に届けられた。



第8章


 生徒会書記のはーちゃんとしーちゃんに見てもらいながら、最後の書類を整える。

設立許可証と人員名簿、施設使用許可書とそれに関する合意書に、学校のルールは守るという同意書などなど……。

「あぁ! 面倒くせぇ!」

「もも、ここが最後の難関よ」

 はーとしーがいてくれなかったら、本当に何にもなってなかったと思う。

あたしが二人の指示通りにあれこれ書き物をしている間に、いっちーは必要なハンコをあちこち走り回ってもらってきてくれた。

「ねぇ、まだ終わんないの?」

「ももの書き間違いが多すぎるから。やり直しの手間さえなければ、もうちょっと……ね」

 はーちゃんの言葉にぐうの音も出ない。

「デジタル対応……」

「早く出来るといいよねー」

 しーちゃんは出来上がった書類をチェックしている。

「うん。これでいいんじゃない。しめきりギリギリで、よく間に合ったわね」

 いっちーと同時に、ようやく安堵のため息をつく。

「ありがとう二人とも。助かった」

 生徒会室から職員室へ向かう。

書類の窓口になっているのは、あの堀川だ。

「先生、書類揃いました」

 散らかった机を前に、眼鏡の奥からあたしたちを見上げる。

堀川は無表情のままそれを受け取った。

「そ。じゃ、見せてもらうわね」

 全く興味ない仕草丸出しで順番にそれをめくる。

そのままバサリと机に投げ出した。

「で?」

「で? なんすか」

 堀川の言葉に、あたしたちは首をかしげる。

「書類は揃ってるようね。だけど、これは顧問の小田先生から提出してもらわないと」

「そうなんですか?」

「普通そうでしょ」

 大量に積まれた何かのプリントの山の上に、あたしたちの書類は再び放り投げられる。

「だって、あんたたちは小田先生に主任顧問をお願いしたんだから」

 堀川はペン先でボリボリと頭を掻くと、こっちには全くの無関心な状態のまま、自分の仕事を始めてしまった。

落ち着きのない職員室のざわめきの中で、あたしたちはぽつんと取り残されている。

仕方なく投げ捨てられたそれを手に取った。

「じゃ、小田先生にお願いしてきます」

 職員室を出る。

その瞬間、いっちーは舌を鳴らした。

「ちっ、なにあの態度」

「まぁまぁ。だから小田っちに頼んだんだし」

 放課後の体育科準備室は、部活指導に抜けた先生たちばかりで閑散としていた。

どこを見渡しても誰一人見当たらない。

「すみませーん」

 空っぽの部屋に何を言っても返事はない。

当たり前か。

「えー、どうするいっちー」

「どうするも何も……」

 小田っちの机はどこだっけ。

誰もいない準備室におずおずと入っていくと、ひょいと机の下から青白い顔が飛び出した。

「うわっ!」

 細木だ。

「お、お前ら……。こん、こんあなところで、何やってんだ……」

 この細木というのは、男性の新米体育教師だ。

共学化に合わせて採用されたとか何とかいう噂はあるけど、とにかく女子高生が怖くて仕方がない。

「小田先生は?」

「い、いませんけど!」

 そんな青ざめた顔でブルブル震えながらにらみつけられても、こっちだって困る。

ここへ来てもう二、三年にはなると思うのに、未だにうちらには慣れないようだ。

「いや、いないと困るんだけど……」

 細木は正面のホワイトボードを指さした。

綴じ紐でぶら下げられたメモ用紙の束が見える。

「メモ。して残せば。しらんけど」

「……」

 あたしたちは、まだ遠く机の向こうにしゃがみ込んだままの細木を見下ろす。

じっと観察していたら、その姿は再びゆっくりと机の下に消えていった。

「なにあれ」

「さぁ」

 不思議な生き物もいたもんだ。

だけどまぁこんなところに、いつまでもいるわけにもいかない。

「ここにメモ書きして置いとけばいいよね」

「そうだね。分かってくれるっしょ」

 細木に教えられた連絡用メモを引きちぎる。

その印刷ミスの裏側に、『サークル設立の書類が出来ました。提出をお願いします。花田もも 犬山一花』と書いた。

「これでよし!」

 今日はもうこれで帰ろう。

あたしはいっちーと目を合わせ、ニッと微笑む。

いっちーも同じ笑顔を向けた。

「ね、アイス食べて帰ろう」

「うん」

 学校を出る。

まだまだ明るい空は気持ちよく晴れていて、爽やかな風も吹き抜ける。

いつものように駅前に陣取る駅バァは、今日も元気に暴言を吐く。

「まだそんなモン振り回しとったんか! 野蛮な女なんてもんはロクなもんじゃない。さっさとやめちまえぇ!」

 だけどそんなことも気にならないくらい、今は気分がいい。

「ね、もっとちゃんと練習メニューも考えよう」

「そうだね、今から相談しない?」

「いいね!」

 放課後のフードコートほど、あたしたちにふさわしい場所なんてこの世にはなくって、とにかくサークル活動の始まるのが、今は楽しみで楽しみで仕方がない。

夕方の混雑した小さな丸テーブルにいっちーと二人ノートを広げ、あれやこれやとこれからの活動計画を立てた。

 それから2、3日が過ぎた。

はーとしーの二人があたしたちに声をかける。

「ねぇ、サークル設立の書類、ちゃんと提出した?」

 昼休み、あたしはいっちーと協力してスマホゲームのラスボス攻略に忙しくて、今はそれどころじゃない。

「えぇ? こないだいっちーと一緒に小田っちんとこ持ってったよ」

「そうだけど、生徒会にまだ連絡が来てないよ」

「新サークルの設立書類って、そんなしょっちゅうあるもんなの?」

「いや、ないでしょ」

「ちょっとくらい時間かかんじゃないの? 校長の許可とかいるみたいだったし」

 だけどそれは提出期限を翌日に迎えても、まだ受理されていなかった。

はーとしーからの連絡を受け、あたしたちは職員室に乗り込む。

「どういうことですか!」

「どういうこともなにも、まだ書類だされてないんだもの、審査のしようがないじゃない」

「は?」

 堀川はすました顔で言い放つ。

「小田先生からなんにももらってなーい」

 あたしといっちーは速攻で体育科準備室へ向かった。

確かに提出をお願いしておいたはずなのに……。

無人の準備室の、その小田先生の机には、あたしが数日前に置いた状態そのままに書類とメモ書きが残されていた。

「ちょ、どういうこと?」

 遠くでガタリと音がする。

パッと振り返っても誰もいない。

あたしはいっちーとアイコンタクトを取る。

足音を忍ばせ音のした場所にそっと近寄ると、机の下をのぞき込んだ。

そこに隠れていた細木を捕まえる。

「小田先生は、いまどこにいますか!」

「い、いまはしっ……で……」

「はい?」

 声が小さすぎて、なんて言ってんのか目の前にいても聞こえない。

「……だから出張でいないって……」

「は?」

「指導員研修に行ってて、戻ってくるのは来週だし」

 おどおどと答え、震える指先でホワイトボードを指さした。

そこにはあたしたちがメモ書きを置いた日の二日前から、明後日土曜日までの二週間不在の文字があった。

「え……じゃあ、小田先生が学校に戻って来るのは……」

「つ、次の月曜日ですけど……」

「この書類、明日がしめきりなんですけど!」

「いや、そんなこと言われても……」

「今どこ!」

「き、キビヤマ市……」

「隣じゃん!」

 顧問の欄には、小田先生直筆のサインがある。

これで何とかならないものか。

もう一度職員室へ向かう。

「確かにサインはあるけど、肝心の小田先生に直接確認出来ないことには、承認出来ないでしょ」

「なんで?」

 その問いに、堀川は無言で見上げている。

「そ、そこは電話とか……」

 あたしたちがどれだけモジモジ言い訳しても、その表情は一切変わらない。

「期限はちゃんとあったはずよ。それに間に合わせることが出来ないようじゃ、所詮無理だったってことなんじゃない?」

 あたしは堀川を見下ろす。

怒りで全身が震えるのを、押さえつけるのも難しい。

「それは言いがかりみたいなもんじゃないんですか?」

「だってさ、それは本当に決まりなんだから、しょうがないじゃない。変なサークルをむやみやたらに乱立させないための決まりなんだから、当然でしょ」

 生徒手帳のページを見せられる。

そこには確かに、設立申請が受理されたのち、設立の許可を改めてとるようにと書かれてある。

「チャレンジは認める。だけど、実際に出来るかどうかは別ってことよ。期限は明日。どうするつもり?」

 あたしはない頭を使ってぐるぐる考える。

方法はいくつか思いつく。

だけど……。

職員室特有のざわめきのなか、堀川のついた軽すぎるため息と横を向いたキィという椅子の音が、あたしの何かを邪魔している。

堀川は生徒の提出したノートのチェックを始めていた。

「明日までに考えてきます」

 職員室を飛び出す。

「もも、どうするの!」

 廊下を走り出したあたしのうしろを、いっちーは追いかけてくる。

「いっそ堀川に土下座して、顧問頼もうかとも思ったけど、やめた」

 いっちーの顔色が曇る。

小田先生が顧問になってくれるのはかまわない。

だけど書類の提出が間に合わないっていうのなら、他の先生に今から頼めばいいと思った。

それで顧問欄に署名してもらえれば、そのまま出せばいいんだ。

「だけどやっぱり……」

「だけどなに?」

 全速力で教室の角を曲がり、外へ飛び出す。

「ベルトくれた小田っちがいい!」

「そりゃそうでしょ! それが出来ないから……」

「だったら泣きつく!」

「どうやって!」

 体育科準備室の扉を勢いよく開けた。

やっぱり机の下に隠れていた細木を引きずり出す。

「先生! 小田先生の携帯番号教えてください!」

 いくら出張中の研修中だからって、休み時間くらいはあるだろう。

携帯に学校からの履歴が残っていれば、折り返しの連絡くらいあるだろう。

先生のいる場所は学校から電車で30分圏内だ。

帰りにちょっと寄ってもらうくらいなら、頼めるかもしれない。

「生徒に先生のケー番教えるとか、そんなのダメに決まってんだろ! ありえねぇ!」

「じゃあ細木先生から連絡してください!」

「ヤだよ」

「なんで」

「なんでって……」

 そのタイミングで、都合よく細木の腰辺りから着信音が鳴り始める。

「先生。先生の携帯、鳴ってますよ」

「いま勤務中だし」

「学校や生徒からの重要な連絡だったらどうするんですか?」

 あたしといっちー、細木以外にここには誰もいない。

ふっと呼び出し音は鳴り止んだ。

「履歴、確認しないんですか?」

「お前らの前ではしない」

 コノ野郎! 

って思う間もなく、準備室の固定電話が鳴り始める。

「……先生。電話鳴ってるよ」

「それがどうした」

「他の体育の先生、細木先生がココにいるの、知ってますよ」

 返事はない。

あたしはさらに細木に迫る。

「電話、出ないと不味いんじゃないんですか? 留守番の仕事、サボってると思われますよ」

 それでも細木に動く気配はない。

三人しかいない空間に、呼び出し音は響き続ける。

「あー、先生、いまここにいないっていう設定なんだ。知らないよー。後で何か言われても……」

 電話が切れるかと思った瞬間、細木はパッと受話器を取り上げた。

「はい! 瑶林高校体育科準備室です!」

 すかさず耳を寄せる。

「うわぁ!」

 びっくりした細木は、受話器を落っことした。

「おう! 細木先生か、ちょっと頼み事があるんですけどね……」

「小田先生!」

 すぐさまそれを奪いとる。

細木は男性体育教師、女子高生には怖くて触れない。

いっちーは両手を大きく広げ、あたしと細木の間に立ち塞がった。

「おい、返せ!」

「先生! あの、お願いが……」

「おー花田か、ちょうどいいところに出てきたな。鬼退治の書類は出来たか?」

「出来ました!」

「よし。そのことよ。細木先生近くにいる?」

「います」

 いっちーの向こうでソイツはぶるぶる震えている。

あたしは受話器を突き出した。

「小田っちが代われって」

 細木は速攻であたしたちに背を向け、隠れるように丸く縮こまる。

こっちには絶対に会話を聞かれないようにするつもりだったらしいけど、それは一瞬で自分からなかったことにしていた。

「は? 嫌ですよそんなの!」

 初めて聞くような大声だったのに、それはすぐに声をひそめた。

小田っちと細木が揉めている。

何かぼそぼそと文句言っているのは分かるけど、その内容までは聞き取れない。

「ほ、ホントですか……絶対に約束ですよ……。男子の方の受け持ちは……えぇ、ま……!」

 突然切れたらしい電話に、細木はおもいっきり顔をしかめ受話器をにらんだ。

が、すぐに我に返って、あたしたちを振り返る。

細木は視線を横にずらすと、決まり悪そうにそっと受話器を戻した。

静寂が訪れる。

体育科準備室にはあたしたち三人しかいなくて、学校の高い城壁で守られた放課後の校庭はどこまでも穏やかで、差し込む夕日とのんきな女子高生たちの声が響いている。

ふいに、細木がサークルの書類を握りしめた。

「ちょ、何すんのよ!」

 全力で走り出す。

「待て!」

 準備室を飛び出した細木を、あたしといっちーは追いかけた。

「うるせー! 俺はこんなことをしたくてやってるわけじゃないんだ!」

 廊下を全力ダッシュする細木は、普段のビクつきた様子からは想像できないほど足が速い。

「くそっ! ムダに体育教師してやがる!」

 階段を駆け上がった。

向かっているのは職員室? 

細木はガンとそこへ飛び込むと、堀川の前にそれを叩きつけた。

「え、なに?」

「……小田先生からの伝言です。コレを必ず今日中に通すようにって……」

 細木は机に転がるペンを手に取った。

その場で自らの名前を顧問欄に書き殴る。

「はい。これで問題ないでしょう。よろしくお願いしますよ、堀川先生」

 細木の顔が怖い。

「絶対に、よろしくお願いします」

 堀川はくしゃくしゃになった紙を広げる。

その一枚一枚に恐る恐る目を通した。

その様子を細木は能面のような表情で見下ろしていた。

「た、確かに受理いたしました」

「ここにもサインを」

 細木は書類の一部を指さした。

「先生も同罪ですよ。この件には一緒に関わってもらいます」

 堀川は書類に視線を落とす。

細木の迫力に押されて、ペンを手に取った。

震える手で自らのサインを顧問欄に加える。

それを見届けた細木はボソリとつぶやいた。

「よかった。これで何とかなる」

 振り返った細木と目が合う。

ギロリと見下ろしたあたしたちの横をそのまま通り過ぎ、職員室から出て行く。

ふらふらとよろけながら立ち上がった堀川は、書類を校長決裁の箱に入れた。

「あなたたちの勝ちよ。おめでとう」

 それはそのまま、サークル創立が承認されたことを意味する。

「あ、ありがとうございました」

 職員室を出る。

あたしといっちーの背後で、ガラガラと扉の閉まる音が聞こえた。

「ねぇ、いっちー……」

「うん。もも……」

 あたしの手といっちーの手が重なった。

「やったー!」

「出来たー!」

 その場でぴょんぴょん飛び跳ねてぐるぐる回る。

あんまりはしゃぎすぎたから、通りかかった他の先生に注意された。

だけどそんなことも全く気にならない。

部室はないから自分たちの教室に駆け込む。

窓から外に向かって思い切り叫んだ。

「やったよー!」

「出来たねー!」

 あたしたちの鬼退治サークルは、ここに成立した。



第9章


 無事校長決裁も下り、ようやくサークルとしての活動が正式に認められた。

体育科準備室に細木から呼び出される。

その細木は腹の底から深く長く重いため息をついた。

「ねぇ、なんで俺?」

「知らないよ」

「それはうちらのセリフだっつーの」

 細木の顔はどこまでも暗く青く沈んでいる。

「サークルとして認められはしたけど、まだまだ課題は山積です。活動実績がないと、予算はつかないよ」

「予算っているの?」

「金とか別によくない?」

「お前らは二人だけで、一生この調子でやっていく気か」

「いや一生って」

「高校生何年やる気だよ」

 細木の周囲の空気だけは、いつだってどんよりと曇っている。

咳払いをした。

「予算がないと、せっかく新設が認められても続きません。来年3月、いや2月までに実績つくって予算つけてもらわないと、事実上の自然消滅だね。別に俺はそれでいいんだけど」

 あたしは青白いやせっぽちの細木をギロリと見下ろす。

いっちーだって負けてない。

細木はまた咳払いをした。

「先生風邪引いてんの?」

「顔色悪いのはいつもじゃね?」

「うちの学校にはかつて鬼退治部があったし、昔その顧問をやってたのが小田先生で、この学校の卒業生で元主将の堀川先生がいたから、スムーズに許可されたけど……」

「堀川先生が?」

「そんなことも知らなかったのかよ」

 また重く長いため息をつく。

「この先は本当にお前ら自身の問題だよ。部員もこんな確定幽霊部員ばっかでさ。本気で鬼の首一つでもとってこないと、冗談とか意地悪とかじゃなくて、マジで無理だから。そもそもお前ら、ホンモノの鬼を見たことあんのかよ? 鬼退治なんて言ってんの、何年前の話だ。今はもう時代が違うんだって」

 どうせコイツには分からないのだろう。

あたしといっちーの体についた傷の痛みを。

先生はまたため息をついた。

「なんにせよ、サークルのままじゃあやりにくいよ。学校の支援が少ないからね。部に昇格させたかったら、自分たちで頑張れ。俺は知らん。以上」

 突然呼び出されてそんなことを一方的にまくし立てられても、どうしろって言うんだ。

そもそもコイツにあれこれ言われる筋合いはない。

あたしはじっと細木を見下ろした。

「問題起こしても責任は取らないからな! こんなサークル、すぐにぶっ潰してやる!」

 なぜかキレられる。

「はーい。分かりましたー」

「じゃあ失礼しまーす」

 あたしといっちーは体育科準備室を出た。

分厚い扉で仕切られたから、もう大丈夫。

「なんなのアイツ?」

 いっちーはブツブツと文句を言い始めた。

「イヤなら顧問辞めるか黙って放っとけばいいのに。なんでイチイチ言ってくるかな」

「文句言ってもしょうがないよ」

 細木の言うことも一理はある。

「間違ったことは言ってないもん。自分たちでどうにかするしかないよ」

 今日は演武場を使える日じゃない。

結局自分たちの教室に戻る。

窓からは秋の空が高く澄んでいた。

「鬼退治行くか」

 気は重い。

いっちーの顔にも陰りが浮かぶ。

「鬼検索アプリ、もう今月末で運用が終わるんだよね。元々死んでたけど」

 書き込みは半年に一度あるかないかのペースになってしまっている。

それも出没情報などではなく、「頑張って鬼退治を続けましょう」的な励ましの言葉が並ぶだけ。

たまに降って湧いたように勢いだけいいのが入ってくるけど、タイムラインをちょっぴり荒らすくらいですぐに消えていなくなる。

「最近、いっちーの傷は痛んでる?」

「……そんなの、なくなるわけないじゃん」

 熱を少し下げた風は校舎の外を吹き抜ける。

「じゃ、行こっか。鬼退治」

 顔を上げると、彼女はニッと微笑んで見せた。

「よし。腕章つけて行こうぜ」

 それでもあたしたちは、まだ鬼はこの世界にいることを知っている。

小田っちが倉庫に保管していた段ボールから、かつて鬼退治巡回中につけていた腕章も見つけた。

それを制服の袖に通す。

「なんかカッコよくない?」

「うん! すっごくいい!」

 腰にはこん棒がぶら下がる。

先のことは気にしたって仕方がない。

いまやれることをやるしかないんだ。

正門に並んだあたしたちは、ビシッとそろって腕組みをする。

外をにらみつけた。

「よし、行くか!」

「おう!」

 スマホの地図アプリを起ち上げ、巡回ルートを話合いながら歩く。

放課後に解放される大きな門扉はその口を開いたままで、午後3時という時間はあたしたちが鬼退治をするには平和過ぎたみたいだ。

すれ違うオバさんは眉をひそめたりプッと吹き出したりで、小学生の群れはこっちを指さしてヤジを飛ばし続け、違う制服の女子高生は声を上げて笑った。

駅前に出ると、道行く人たちの視線をそれまで以上により多く集めているのが分かる。

人々はあたしたちをチラリと見てすぐに視線を外した。

駅バァは大声を上げる。

「まーたお前らは、悪いこと考えてるんか! なんじゃあ汚い目ぇしくさって!」

 あたしはため息をつく。

「駅バァは今日も元気だな」

「そんなはしたない薄汚い格好までして恥ずかしい! なにが鬼退治じゃバカモンが!」

 クスクスという笑い声がすぐ側から聞こえてくる。

大学生っぽい男女のクループが、チラチラと視線を投げかける。

「もも……」

 いっちーはあたしの肩に手を置いた。

「私は、私たちがこうやってここに立っていることに、意味のあるんだと思ってる」

「うん。あたしもそう思ってるよ」

 あたしより少し背の高いいっちーのミルクティー色の髪が、まっすぐさらさらと流れる。

「ね、もう少しまわ……」

 いっちーの視線がピタリと止まった。

駅の改札から広場へ降りてくる階段に、日本刀をぶら下げた男の子たちの姿が見える。

「一花」

 三人組の一人がいっちーに手を振った。

いっちーの眉がピクリと動く。

「本当に鬼退治始めたんだね」

 うれしそうに駆け寄ったこの男には見覚えがある。

「あ、自分が一花を誘ってくれた友達?」

「ももよ」

「俺も桃、桃太郎」

 にこっと笑った黒髪のその笑顔は、人なつっこいだけじゃなくて、かわいげまである。

「いっちーの道場の人?」

「そうだよ」

 金髪サラサラ肩までロングの王子キャラは金太郎で、一番背の高いつり目は浦島だって。

「いっちーの仲間か」

「なんでこんな所まで来たの?」

 彼女の問いかけに、桃は答える。

「気になったからだよ。一花が鬼退治始めたって言うし。確か前にもここで会ったよね。この辺りは俺たちの巡回地域なんだ」

 彼らの腰には正式な鬼退治専用の刀がぶら下がる。

「協会に認められてるってことだよね」

「もう絶滅危惧種って言われてるけど」

 桃は腰の刀に手を置いた。

「だけど、俺はそれでいいと思ってるよ。俺たちの出番がなくなることが、ゴールだと思ってるから」

 金太郎と浦島もうなずいた。

「瑶林は女子校でしょ。鬼は自分より弱い者に狙いをつけるからね。この周辺を警戒するのは、正解だと思う」

 桃といっちーは並んで歩き出す。

どうやら一緒に回ってくれるらしい。

金太郎と浦島はあたしを真ん中に挟んだ。

「桃はね、一花ちゃんが心配で来てたんだよ。この辺で不審者情報もあるし」

「アイツ、見たまんまの不器用だからな」

 ヘンな距離感を保ちながら、二人の背中に先導されるように歩く。

あたしは不思議と気分が重くなってくる。

「瑶林って、来年度から共学になるって本当?」

 金太郎は言った。

「だったら俺、転入したいな」

「新入生募集の案内が入試情報にでてたな」

 そんな噂は前からあった。

少子化の中、いつまでも女子校のままでいるのは難しい。

あたしより随分と背の高い二人を見上げる。

「どうして鬼退治始めたの?」

 そう尋ねたら、浦島が答えた。

「俺は、どんなものにも負けない強さが欲しかった。鬼、あんたも見たことあんだろ?」

 うなずくあたしに、浦島は前を向いたまま続ける。

「もう誰にも、俺自身にも、あんな思いはさせたくない」

 金太郎はあたしをのぞき込む。

「泣いている女の子って、ほっとけないでしょ? 俺にとっての理由はそれだけ。桃も浦ちゃんも真面目だからね」

 笑った金太郎のその声に、桃といっちーは振り返った。

「なに? 何の話し?」

「俺らが鬼退治をやってる理由!」

「そんなの決まってる。仲間を守りたいからだ」

 桃の真っ直ぐで何一つ曇りない姿に、あたしはくらくらする。

小学生の男の子たちが彼らを見上げた。

「鬼退治してんの? すっげぇかっこいい!」

「頑張ってください」

 彼らはペコリと頭を下げた。

すれ違うオバさんはにこっと微笑んで会釈をする。

サラリーマンのおじさんは道を譲った。

こうして並んで歩いているだけなのに、見ている人たちの視線はまるで違う。

「一花はこのあとどうするの?」

 正門前まで戻ってきた。

桃はいっちーに尋ねる。

「どうって……。一度学校に戻って……片付けとかあるから……」

「そっか」

 桃の指先はいっちーのブレザーの裾に触れると、それをそっと引いた。

「こん棒、よく似合ってる……から、よかった」

「先に帰っていいから」

「う、うん」

 開かれた境界線を乗り越える。

桃の指先はいっちーの制服から離された。

ここからはあたしたちの世界で、彼らは立ち入ることは出来ない。

手を振る彼らに別れを告げると、いっちーはうつむいたまま校内を進んだ。

その足取りは速い。

「ねぇ、いっちーさぁ……」

 あたしはそんな彼女の背中を見ながらこん棒を肩に担ぐ。

「いっちーがあたしに付き合ってくれるのはうれしいんだけど、無理はしなくていいよ」

 何でこのタイミングって言われれば、分からない。

だけど、一度は確認しておきたいことだったのかもしれない。

「いっちー、元々あんま乗り気でもなかったし。環境とか立場ってのもあるし……。気持ちは……、分かるから」

 いっちーは背を向けたまま歩き続ける。

だって別に、一緒に鬼退治するのはあたしじゃなくてもいいわけだし。

もっと強くていい人がいるのならば、あたしだってそっちの人と行動したい。

変な同情してるとか、つまんないとか、思われてるんじゃないかって、そんなことは思ってないけど……。

「あんたは別に……いや、変な意味じゃなくてだよ。ちゃんとした人がいるんだから、無理にこんなことしなくっても……。いっちーにはいっちーのやり方があっていいわけだし。それはそれで全然……。応援とか、誰かの助けをするってのも、それはそれで……」

 振り返った彼女の手は、あたしの胸ぐらを掴んだ。

「大人しく黙ってていいのかって、言ったのあんただし!」

 いっちーの表情に、あたしの傷がうずき始める。

「やっぱり私にはなにも出来ないって? やってもらった方がラク? 確かにそうだよね、奥に引っ込んで笑ってりゃいいんだし」

 あたしをドンと突き放した。

「ももって名前の奴って、やっぱマジでムカつく。あんたまでそんなこと言うんだったら、私はもうやめる」

 いっちーはこん棒を投げ捨てると、着けていたベルトまで地面に叩きつけた。

「ああいうのはイヤだって、ずっと思ってるのに! にこにこ笑って誰かの手伝いか手助けばかりで。誰も私自身の気持ちになんて興味なくて、ただ便利で邪魔にならないのがやっぱり一番だって?」

 振り返った彼女の目に涙が浮かぶ。

「それを分かってくれてるのは、ももだと思ってた。なのにやっぱりそんなふうに言うんだったら、無理」

「いっちー、ごめん!」

「私はそんな自分が嫌いで変えたいと思った」

「だからゴメンって!」

 伸ばした手は、すぐに振り払われた。

「来ないで。今日は一人で帰る」

 遠くなるいっちーの背を見送りながら、気がつけばあたしは声を上げて泣いていた。

わんわん大声で泣きながらいっちーの捨てたものを拾い、演武場に借りた倉庫まで独りで片付けに行く。

あんまり派手に泣き続けていたから、ジロジロ見られてたのは知ってるけど、今はそれどころじゃない。

いくら泣いても泣いても泣ききれなくて、どうしようもなく止まらなくなった声を張り上げて泣いている。

「……なんだよ、なにがあった?」

 さーちゃんとキジだ。

あたしはぐずぐずと鼻水をすすりながら訴えた。

「失敗したぁ! 絶対いっちーに嫌われたぁ!」

「あらまぁ」

 キジはポケットティッシュを出してあたしに渡してくれる。

それで思い切り鼻をかんだ。

「で、いっちーとどうしたって?」

「あたし、絶対に言っちゃダメなこと言った。今まで散々言われてきて、あたしが一番嫌だったのと同じことを、いっちーに言っちゃった!」

「なにそれ」

 さーちゃんのスマホが鳴る。

そこには男女5人で歩くさっきまでの隠し撮りの画像が送られていた。

「原因はコレ? まさか男関係でケンカしたの?」

 激しく首を横に振る。

いつまでたっても涙があふれてくる。

「違うの。いっちーにはちゃんと守ってくれる人たちがいるんだから、別に鬼退治とかしなくていいんじゃないのかって。あたしなんかといるより、この人たちと一緒の方がいいんじゃないかって」

「それは傷つけちゃったね」

 キジはため息をつく。

「きっと道場のなかで、いつも彼女が言われていたことよ。だからいっちーは、ずっと我慢してこん棒を握らずにいたのに」

「ももから『いらない』って言われたのと同じじゃない」

 いっちーは強いけど女の子だからって、いつも一番後ろにやられることが、座って見ているだけにされることが、なによりも苦しかったのに……。

「あたしもそういうの、一番嫌い」

 自分より他に、もっと強くて上手い人がいたって、やりたいものはやりたいし、ヘタでもヘタなりに頑張りたい。

どんなに笑われたってバカにされたって、あきらめきれないものはあきらめられない。

「だからね、鬼退治サークル作ったの」

「うん。出来たじゃない」

「おめでとう。活動はこれからでしょ」

 鼻水が止まらない。

「ちゃんと謝ったら、許してくれるかな」

 いっちーを探しに行こう。

もう帰っちゃったかな。

また一緒にアイス食べにいきたい。

「電話してみたら?」

 さーちゃんに言われて、スマホを取り出す。

かけた電話はすぐにつながった。

「いっちー……あたしね……」

「もも」

 いっちーの声がする。

「いまどこにいるの?」

「蔵前公園」

 すぐ近くの公園だ。

「今から行ってもいい?」

「うん」

 それだけで通信はプツリと切れた。

「やっぱり怒ってるのかな」

 あたしはまた泣きそうな声になる。

「ねぇ、一緒についてきてくんない?」

 あたしのお願いに、さーちゃんとキジは顔を見合わせた。

「もう、仕方ないな」

 キジの方がさーちゃんより先に立ち上がった。

「もも。鼻をかんだ後のティッシュはちゃんと持ち帰って」

 あたしはいっちーのこん棒とベルトを手にとる。

「これ、持っていってもいいかな」

「いいんじゃない」

 さーちゃんはため息をついた。

「全く。それでなんであんたが泣いてんのよ」

 さーちゃんは体育科倉庫に押し込められていたこん棒を手にした。

「で、どうやってつけんの? これ」

 段ボールの山にあったベルトを装着し、腕に腕章も通す。

「さーちゃん、いいの?」

「実はコレ、ちょっといいなーって思ってたんだよね」

 彼女の制服に、校章入りのベルトとこん棒がぶら下がった。

坊主頭の彼女は腰に手を当て、くるりと回ってから意気込んで見せる。

「カッコよくない?」

「うん。いいと思う」

 キジはさーちゃんの制服のしわを伸ばし、さらにそれを整えた。

あたしは泣きながらもう一度鼻をかむ。

「いっちーを迎えに行こう」

 お日さまが傾きかけてるから、道を急がなくっちゃいけない。

さっき桃たちと巡回したコースからは、少し離れた場所にある公園だ。

小さな遊具がいくつか置かれた公園のベンチに、彼女は座っていた。

真っ赤な夕陽に照らされるミルクティー色の髪が、今は赤茶けて見える。

一人ぽつんと小さくなっている彼女の前に駆け出した。

「……私、ももとケンカしたいわけじゃないの」

「うん。分かってる」

 切らせた息の、呼吸を整える。

うつむいたいっちーの頭と前髪しか見えない。

「ごめんなさい」

「私も。ごめんね」

 いっちーは必要ないとかいらないとか、そういうことじゃなくって、変な劣等感を引きずりながら、辛い思いをしてまでやらなくてもいいってことが言いたかった。

あたしたちはスーパーマンじゃないから、空を飛んだり火を噴き出したりして敵をなぎ倒すことは出来なくて、それでも誰かの後ろに立っているのが嫌なだけ。

どうしたって勝てないって分かってる世界で、負け続けてたって、それでも立っていたい。

自分が誰かに守られていないと生きて行けない世界だなんて、そんなのは誰にとっても優しい世界じゃない。

「武器を持たなくても、誰かに盾になってもらわなくても、すきに歩けるようになりたい」

「それがももの鬼退治の理由?」

「そうだよ」

 立ち上がったいっちーの腕が、あたしの肩に回った。

「私は家の道場で、ただみんなを見ているだけだった。自分にも出来ることをすればいいと思って、お茶の用意とかお掃除とかしてた。だけど本当はね、私も剣をとって戦いたかったんだ。それを思い出させてくれたのは、ももだから」

「うん」

 いっちーを抱きしめる。

彼女も同じ強さで返してくれた。

あたしに、いっちーがいてくれて本当によかった。

「全く。なんなの?」

 一緒に来てくれたさーちゃんがため息をつく。

「ホント、人騒がせね」

 その隣でキジも微笑んだ。

「あ、ありがとう……」

 だけどやっぱり、この二人が付いてきてくれなかったら、あたしは怖くていっちーに会いに来れなかったと思うんだ。

「あの……。ちょっとすみません……」

 ふいに声がかかった。

見ると小さな女の子が震えながら立っている。

「も、もしかして、鬼退治してる?」

「そうだよ」

「してるよ」

「あのね、さっきそこで……」

 彼女の指す方向を振り返る。

「なんだよ俺は鬼じゃねぇぞ、人間だ!」

 20代前半から30代くらいの男が立っていた。

あたしは腰のこん棒を抜く。

「ここで何してんの。この子の知り合い?」

「そんなの知るわけねーだろ、バーカ! 勝手に正義のヒーローごっこでもしてろや!」

 その場に唾を吐き捨て、何かを怒鳴りながら立ち去る。

「あの人になんかされた?」

 女の子は首を横に振る。

「ううん。何にもされてない。……。ただ、ちょっと怖かっただけ」

「そっか」

 キジは小さな女の子の前にしゃがみ込むと、彼女に手を差し出した。

「もう大丈夫よ。心配しなくてもいいから」

 その手と手がしっかりと繋がる。

「キジ、いいの?」

「当たり前でしょ。その腕章だけでも貸してもらえる?」

 あたしは自分の腕章を外すとキジに渡した。

彼女は自らそれを腕に通す。

「いっちー」

「分かってる」

 さーちゃんの持って来たこん棒を受け取ると、ベルトを装着した。

「さーちゃんは?」

「キジについてく」

 女の子はさーちゃんとキジに任せることにして、あたしはいっちーと赤く染まりきった街へ駆けだした。

腕の傷が痛む。

あの子もこの痛みを知ってしまったのだろうか。

鬼らしき姿はどこにも見えない。

「検索アプリある?」

「見てるけど反応ない」

 どこへ消えたんだろう。

あの子の言う通り、確かにそこにいたはずなのに。

瞬時に現れては消える正体不明の鬼たちは、どこを探しても探しても簡単には見つからない。

辺りはすっかり暗くなってしまった。

流れる汗を拭う。

「いないね」

「これまでか」

 いっちーはスマホを取り出す。

「アプリに情報はあげとく」

「うん」

 あたしはこん棒をベルトに戻した。

ポケットのスマホが鳴る。

さーちゃんからだ。

「あの子はおうちに帰るバスに乗せたよ」

「そっか。ありがとう」

「あの子も、ももといっちーにお礼を言っといてだって」

「うん。ありがとう」

 通信を切る。

これでも少しは役に立てたのかな。

いっちーと目があって、彼女がそっと笑ってくれたから、あたしはちょっぴり安心する。

この腕はまだ疼いているけど、いっちーの肩も同じ痛みを感じているのだろうか。

「一人で帰れる?」

 そう聞いたら、彼女は笑った。

「だって、一人で帰らなきゃ」

 電車に乗った。

もう慣れてきたのか、こん棒を持つあたしをジロジロと見てくる人もいない。

あたしたちの負ったような傷を、どうかあの子も受け継いでいませんように。

そう願いながら電車に揺られていた。



第10章


 学校生活において、体育の授業というのは特別な時間だ。

いつもは小田っちのゆるゆる指導なので好き勝手やってるけど、今日は用事があって細木が代理を務めるらしい。

あたしたちは体操服姿で校庭に整列させられていた。

「あー。……。本日は……よろしくお願いします」

 そう言って細木はペコリと頭を下げた。

そんなこと言われたって、あたしたちもどうしていいのか分からない。

どう反応していいのかも分からず、ただ困って立ちつくしているあたしたちを前にして、あたしたち以上に細木は困っていた。

「えー……っと。……いま何やってんの?」

 いつもなら小田っちが授業の始まってすぐ「今日は何するー?」って聞いてくるから、体育館なら「バスケがいい」とか、運動場なら「ドッチボール」とか言って始まるのに。

もちろん「今日はマット運動じゃないとダメだからマットね」とか言われることもあるけど……。

チラリと細木を見上げた。

 何かのノートをめくっている。

どうやらそこに細木の探す答えは見つからなかったようだ。

ますます困った顔をしてあたしたちを見下ろす。

「体育の教科担当は?」

「はい」

 あたしとさーちゃんが手をあげた。

細木の顔が明らかに極端に曇る。

「なんすか」

「『なんすか』じゃないです。今は授業で何をやっているのですか」

 クラスのみんながざわざわとし始める。

あたしは前に出たさーちゃんと目を合わせた。

「どうする?」

「いつも通り、みんなに聞いてみんのがいいんじゃない?」

 あたしはくるりと振り返った。

「今日は何するー?」

 あれこれと意見が上がるなか、最終的に野球という意見に約30秒でまとまった。

「野球で」

 そう言ったのに、やっぱり細木は困っている。

てゆーかこの先生のこと、困っているところしか見たことない。

「ダメ?」

「お、俺は……。先生は、あまり野球が得意ではないんですが……」

 あたしとさーちゃんは、全くの同じタイミングと同じ角度で首をかしげた。

「それ、関係ある?」

「いや。多分ない……、です」

「じゃ、野球で」

 この先生と話していたら、貴重な体育の時間がもったいない。

「それでいいですか?」

「……はい」

 そうとなったら話しは早い。

バットやグローブを運びたい子は運んで、ファウルラインを引きたい子は「一回コレやってみたかったんだよねー!」とか言いながら準備を始めている。

そんなことも全く気にしないでキャッチポールを始めてるのもいれば、出てきたスコアボードへの落書きに夢中なのもいたりする。

「チーム分けはクラス対抗でいいよね」

「5回交代にしよっか」

「ピッチャーの位置、もっと前に出さない?」

 細木はずっと何かを言いたげに後ろでうろうろしてるけど、小田っち流でやってきてるあたしたちは、勝手にどんどんルールを決めていく。

細木の小言は全部無視。

「まずは教科書の……って、持って来てないか。キャッチボールの基本の構えとかバッターボックスとか、インコースアウトコースの公式ルールでは……」

「とりあえず、やりながら考えようぜ」

「了解!」

 合同で体育やってる一、二、三組の体育係で意見がまとまればそれでOK。

今日の気分が乗らない子は、記録係と公式ルール確認係だ。

最初に一組が審判係を引いたから、二組のうちとさーちゃんのいる三組が試合をすることになった。

「誰がどのポジションにつく?」

 そんなのも全部30秒で決まる。

自分のやりたいポジションがある子たちが勝手に集まって交代の順番決めてるし、誰もいないポジションには余ってる子が、適当に気を利かせて入る仕組みだ。

「よっしゃ、勝つぞ!」

 背が一番高いという理由で、うちの先発ピッチャーはいっちーになった。

あたしはファーストにつく。

三組の1番バッターが打席に入った。

「ストライク!」

 ファウルボールをいつくか打ってからの5球目。

突然キャッチャー役の子が立ち上がった。

「痛ぁ~い! 手の皮がむけちゃった」

 普段使うことのないミットを使用したせいで、親指の付け根が赤くめくれている。

「交代する?」

 キャッチャー交代を告げると、細木が駆け寄ってきた。

「何ですか。こんな簡単に選手の交代はしません!」

「だけどさぁ!」

 彼女の手を見せると、細木はグッと押し黙る。

「保健室、つれて行っていい?」

 ベンチ入りしている子が細木に言った。

「これくらい一人で行けるでしょう。自分で行ってきなさい」

「えぇ~!」

「サボる気ですか?」

 細木は二人を見下ろす。

なんだコイツ? 

やっぱムカつくな。

「そんなこと言ってないし」

「先生はここを離れるわけにはいかないので、一人で行きなさい」

「じゃあ先生が絆創膏貼ってよ」

 突き出される女子高生の手に、細木は後ずさった。

「……だから、一人で行ってきなさいって……」

「先生」

 ふっと現れたのは、三組のキジだ。

「私、保健委員なので、私がつれて行って手当をしてきます。それならいいでしょう? 今はスコア係の一人だし」

 キジは優等生な笑顔を見せた。

いつもの手でサボる気満々なのを知らないのは細木だけ。

「分かりました。では雉沼さんにお願いします」

 そこにいた生徒たちは全員、相変わらず上手いなーとか思ってる。

キジはこれでもう1時間は帰ってこない。

「5分で戻ってきてください」

 細木の言葉に、キジは立ち止まった。

「雉沼さんはいつも……、その、体育の時に姿が見えなくなる傾向があるので……」

「先生。ここから歩いて保健室まで行き、保健の先生に事情を説明して手当をするだけでも15分はかかると思います。それにもし、他の重傷者や発熱等の生徒がいれば、そっちを優先させるのは当たり前なんじゃないんですか?」

 キジは細木の返答を待たずに歩き出した。

負傷した子の背に手を添え寄り添う。

「5分じゃ戻れないと思うけど、行ってきます」

「じゃ、試合再開ねー」

 永遠に不機嫌な細木の相手なんかしてらんない。

あたしはフィールドで待っていた仲間に手を振った。

真っ先にスコア係を選んでいた子が、仕方ないねと入れ替わったポジションに入る。

 試合が再開されたのはいいものの、そっからの方が問題だった。

相手チームには野球部員が5人在籍していた。

こっちは0。

いっちーの入った1回は0点で交代したものの、その裏のあたしたちの攻撃は0点に終わり、ピッチャー交代。

うちのクラスのピッチャー希望者は、どこのポジションでもよかったいっちーを含め5人が一人1回で交代する予定で、投げる順番を決めていた。

そのいっちーから交代した2回の中継ぎ登板で、総崩れを起こしてしまった。

怒濤のヒット連発に走者一巡16点の大量得点を許す。

それでもまだ2アウト。

「1回10点でコールドにする?」

「そしたら、めっちゃ試合終わるの早くならない?」

 うちのクラスには、全くプレイしていない子たちも残っている。

「じゃ、次から1回10点で交代しよっか」

 こっちのピッチャーは2回に交代に交代を重ねた末、再びいっちーがピッチャープレートの前に立った。

「アウト!」

 ようやくこっちにも攻撃回が回ってくる。

「どうするよ」

「とにかく1点だけでも取ろう」

 クラスで円陣を組み、気合いを入れる。

その最初のバッターが打席に着こうとした時だった。

ずっとベンチに座っていた細木が立ち上がった。

「貸しなさい。先生も参加します」

「は?」

 細木のくせに珍しく、女子の手からバットを奪いとる。

「先生はみんなの味方です」

 バッターボックスに入った細木に、相手ピッチャーは眉をひそめた。

細木は2、3度バットを振ると身構える。

「……。なにアイツ?」

「さぁ……」

 なんだかよく分からない気合いの入った細木に対し、三組のピッチャーは困惑気味だ。

そりゃそうだ。

あたしも相手ピッチャーに同情する。

それでも彼女は気を取り直したのか開き直ったのか、投球フォームに入った。

振りかぶってからの第一球、体育教師細木のバットは快音を上げ、大きく伸びた打球は場外へと消えてゆく。

それを見送った三組のチームは、ただただポカンとしていた。

シングルホームランを決めた細木は、ゆっくりとホームを一周し戻ってくる。

あたしと目が合った。

「先生、ボールが……」

 細木は神妙な顔つきのまま、ヒーロー気取りで黙ってうなずいた。

「だから先生は、お前たちの味方だと言っただろ」

「いや、そうじゃなくて……」

 元華族の大名屋敷跡に建てられたという学校だ。

広大な敷地は校庭を野球のグラウンド代わりにしても、まだ十分に余裕がある。

細木のボールはその先にある茂みの中へと消えていた。

城壁に囲まれているから、校内にボールがあるのは間違いないけど……。

「探してこないと」

「何を?」

「ボール」

「なくしたら探さないと」

 細木の顔が見る見る青ざめる。

あたしはため息をついた。

「試合中断して、みんなで探す?」

「いや、いいです。先生が探してくるので続けてください」

 そう言ってとぼとぼと歩き出したと思ったら、遠ざかるにつれ徐々にスピードをあげ、最終的には猛ダッシュになって消えていった。

さーちゃんとあたしは、また同時にため息をつく。

「ねぇ、どうする?」

 あたしはクラスのみんなを振り返った。

スコアボードには細木の入れた1点の文字が書き加えられている。

「コレ、いらんくね?」

「いらないよねぇ!」

 とたんに黙っていたみんなが声をあげ始めた。

「つーかなんで細木入って来た?」

「意味分かんねぇ。邪魔!」

「得点消しちゃう?」

「消そう消そう」

「そうだよ、消そうぜ」

 満場一致で合意したところで、あたしたちはもう一度円陣を組み直す。

「1点取るぞー!」

「おぉっ!」

 ようやく試合再開。

いっちーが守り抜いてくれているものの、バッターが打てないと意味がない。

相手の野球部の子はピッチャーポジションではないらしいけど、こっちが本気なら向こうも本気だ。

互いの応援にも熱が入る。

「いっけー、たかち!」

「走れ、走れ!」

 何とかバットにボールが当たるようになってきた。

塁に出る子も出始める。

大量の得点差は埋まらないけど、互いに遠慮は一切ない。

5回表、最後の攻撃が始まった。

あたしはベンチで拳を握りしめ、ハラハラしながら成り行きを見守っている。

細木が帰ってきた。

「なんで俺の得点が消えてんだ?」

「は? あんなの、ノーカンに決まってんでしょ」

「なんでだ。俺がちゃんと1点入れただろ。なんでなかったことになってる?」

「もー、ちょっとうるさいよ」

 今はそれどころじゃない。

あたしに出来ることはもうないから、全力で応援中なのだ。

「雉沼さんたちもまだ帰ってきてないし」

「は? なんか言った?」

 ヒットが出た! 

ランナーは走り出す。

三遊間へ飛んだボールは、すぐに捕らえられ一塁に投げられる。

駆け抜ける走者の足は、一瞬先に塁を踏んでいた。

大歓声が上がる。

「よっしゃぁ!」」

「このまま行くよ!」

 盛り上がるクラスの横で、細木はまだふてくされている。

「花田、保健室見に行ってこいよ」

「いま授業中ですけど」

「やっぱサボってんじゃねーかアイツら」

「気になるなら先生が見に行けばいいでしょ」

「やだよ。なんで俺が行かなくちゃいけないんだ。花田が行って来いよ。絶対おかしいだろ」

 次の打者がバッターボックス立つ。

緊張のにらみ合い。

バットを構えた。

放たれた剛速球に「ストライク!」の声が響く。

「は? 保健室で吐き散らかした子でもいたんじゃないの?」

「片付けの手伝いをしてるって?」

 バッターは次の打球を見送った。

判定はファウル。

ピッチャーとバッターの視線はフィールドでバチバチに絡み合う。

「もう出番ないんだろ? 見に行って来いよ」

 振りかぶったピッチャーから放たれる白球。

バットは動いた。

だけどそれはイヤな音をあげる。

「あぁっ!」

 高く上がった打球は、相手にとって格好の獲物だ。

難なくフライに打ち取られる。これで1アウト。

「ドンマイ!」

「次だ、次!」

 細木はまだブツクサ何かを言っている。

あたしは本当にそれどころじゃないってのに!

「あのさぁ、吐き散らかしたゲロの始末のあとに、生理の血で汚れたベッドのシーツ洗うのも手伝ってるかもしんないでしょ?」

 そう言ったら、ようやく細木は黙った。

「そんなに気になるんなら、本当に自分で見に行きなよ」

「……。もういい」

 立ち上がり、少し離れた場所に座った。

まだ顔が怒っているけど、そんなの知るもんか。

次のバッターは三振に終わる。

最後のバッターが打席に立った。

緊張のにらみ合いからの、あっという間に2ストライク。

次が最後の一球となってしまった。

あたしたちは全員で両手を組み天に祈る。

みんなの応援が最高潮に高まった。

「ストライク! バッター、アウト!」

 結局、1点ももぎ取れることはなく、終わってしまった。

「ゴメンなさぁ~い!」

 あたしたちはみんなで、半泣きのバッターをねぎらう。

「いいよ、いいよ!」

「次は頑張ろう」

 慌ただしくチームの交代が行われているなか、細木は0の並んだスコアボードの前に立っていた。

ふいにチョークを手に取ると、2回の裏に「1」の文字を書き足し、最終得点にも「1」を付け加える。

「あの、交代なんで、消しちゃっていいですか?」

「あ、はい」

 速攻で消されてるの、マジでウケる。

校外のどっかへ行っていたらしい小田っちが、スーツ姿で現れた。

「あぁ、細木先生。すいませんね。無事にやれてますかね」

「あ、はい。大丈夫です!」

 細木はパッと立ち上がって、にっこにこの満点笑顔でペコリと頭を下げる。

「花田、大丈夫か?」

「せんせーい。大丈夫だよー」

 そう言って手を振ると、小田っちも満足そうに笑顔で手を振り返してくれた。

次の試合が始まる。

機嫌を直したらしい細木は、そこからずっとにこにこしながら大人しく試合を見守っていた。

「平和だなぁ~」

 あたしはそうつぶやくと、青い空の下主審についた。



第11章


 その平和な学校が、ある朝突然大変なことになっていた。

「なにコレ……」

 うちのシンボルでもあった学校をぐるりと取り囲む高い城壁に、細い足場がびっしりと組まれている。

「学校からの連絡見てないの?」

 キジだ。

「老朽化が進んで、周辺住民からの苦情が多かったんだって。崩壊の危険があるって。それで解体工事が始まったらしいよ」

「壊されんの?」

「さぁ」

 焦げ茶色のレンガにまとわりつくそれは、チョコレートを食べに来たシロアリみたい。

「来年度の共学スタートに合わせて、この壁も撤廃するんだって」

「……。シロアリはチョコ食べないか」

「工事のこと?」

「うん」

「私は分解者が蜘蛛の巣みたいに菌糸を張り巡らせたように見えるわ」

「……。え?」

「なんでもない。気にしないで」

 崩れてゆく城壁の、その壁で守られたお城の中へ、登校してきた女生徒たちは次々と吸い込まれてゆく。

「おはよう」

 いっちーも来た。

いっちーは日本刀をぶら下げた桃と一緒に立っている。

「おはよう」

 こん棒のいっちーはいつになく妙に機嫌が悪い。

「どうかした?」

「別に。キジ、こないだの公園の女の子のこと、ありがとう」

「ねぇももちゃん。この辺りで鬼が出たって本当?」

 真剣な表情で、桃はあたしに尋ねる。

「アプリに情報上がってて、びっくりした。こないだ俺たちが巡回した直後だよね」

 あたしはチラリといっちーの顔色をうかがう。

「あぁ、……うん。それで……、心配して、いっちーについて来たの?」

 彼は顔を真っ赤にした。

「べ、別にそういうわけじゃないんだけど、鬼が出たっていうから……」

 ため息をついたのはキジだった。

「平気でしょ、いっちーだし。私たちもいたんだから」

 キジは普段の柔らかで優雅な物腰とは全く違う、ガチガチに硬直したような冷淡な物言いで桃を突き放す。

「君も鬼退治サークルのメンバー?」

 そう聞かれたキジは、桃を見上げた。

「……そうかもね。早く自分の学校行ったら?」

 桃は「一花をよろしくね」と言い残し、いそいそと背を向けた。

いっちーは吐き捨てるようにつぶやく。

「アイツ、結局私を分かってないんだよ」

「どういうこと?」

「自分の見たいようにしか見てないってこと」

「誤解してるってこと?」

 いっちーはそれには答えない。

校内に向かって歩き出した。

「そうだと思う」

 そのいっちーの代わりに、キジが答える。

「あぁいうのは、大嫌い」

 キジも歩き出した。

彼女の長い黒髪が風に揺れる。

「早く教室に入らないと、ホームルームが始まっちゃうよ」

 その日のクラスでは、学園祭の話しになった。

「ももはどうすんの?」

「悪いけど、あたしは鬼退治サークルの方があるから、裏方で」

 そうだ。

立ち上げたばかりでまだ認知すらされてないサークルを、おもいっきり宣伝しないと。

そんでもって来年度入学してくる新入生を集めないことには、せっかく起ち上げたこのサークルも、速攻でお終いになってしまう。

「いっちー。あたしたちもなんか考えよう」

「だね」

 クラスのことはクラスに任せておいて、自分たちの作戦を練る。

出来るだけ目立つようにしたい。

あたしたちは考えに考えた末、学校敷地内の空きスペースを利用して、チャンバラ対決をすることにした。

対戦者はあたしかいっちーを選んで勝負する。

道具はこん棒のみ。

鬼退治サークルの校内周知と勧誘が最大の目的だ。

「今年は一般公開するんだって。文化祭」

「え? 在校生のみじゃないの?」

「来年度の共学化に向けて、転入生も受け入れるらしいから、当日は在校生の関係者や他校の生徒も入れるって」

 毎年中学生の参加は認められてきた。

中学生相手の剣技ならといいと思ったのに……。

「もも、どうする?」

「それでも、やるしかないっしょ。適当にルール決めて、時間制限つけよう」

 あたしたちはこれから鬼と対峙しようとしているんだ。

怖いものなんてない。

「いっちー。とにかく練習あるのみだよ」

「了解」

 クラスの出し物はお祭り屋台。

ヨーヨー釣りに綿アメとチョコバナナだって。

準備はお手伝いして、当日の当番はいっちーと時間を合わせてもらう。

学祭までの空いた時間はずっと剣術の稽古をして、当日のチャンバラ対決の時間も決めた。

「細木せんせーい」

 顧問の先生に許可を取ってからじゃないと、何事も出来ないことになっているので、書き上げた書類を持って行く。

細木は相変わらず、誰もいない体育科準備室の机の下に隠れていた。

「な、なんだ。お前らか」

 もぞもぞと這い出してくるのを、あたしといっちーは大人しく待っている。

「学祭の出し物決めたから許可して」

 紙を突き出しても直接受け取ろうとはしない。

机をトントンと指で指すから、そこに置く。

一息入れてからようやく拾い上げ、目を通した。

「なんで俺がこんなこと……」

 ブツブツと文句を言いながらも、顧問の承認印を押す。

「どうでもいいけど、俺に迷惑かけるなよ。問題起こしたら速攻解散だからな」

「はーい」

 ハンコさえもらえれば、コイツにもう用はない。

あたしたちはひたすら練習をして、学園祭当日を迎えた。

 今年の学祭は、去年までと随分雰囲気が違っている。

共学化に伴う、数十年ぶりといかいう一般公開も話題になって、とにかく人の数が多い。

鬼退治サークルのチャンバラ対決場には、小さな立て看板を一つ置いていた。

そこに開催時間が書いてある。

それまではクラスのお手伝い。

「いらっしゃいませー」

 あたしといっちーは裏方で、ひたすらヨーヨー釣りの風船を膨らましていた。

おまけでついてきたエアポンプなんて、ほとんど役に立たない。

膨らました風船を、ゴム紐でぐるぐる巻き付けてクリップで綴じたらお終い。

隣のクラスが自分たちの宣伝にやって来た。

「お疲れ~。うちにも遊びに来てねー!」

 隣の三組はコスプレ喫茶だ。

派手な格好をした連中の間に交じって、見慣れない奴がいる。

「え、さーちゃん?」

「そうだよー」

 いつもの金髪坊主の上に、黒髪のふんわり縦巻きカールのカツラをかぶっている。

白雪姫の衣装が、背の低い彼女によく似合う。

「かっわい~!」

「でしょ!」

 一緒に来ていたむーちゃんは、得意げにさーちゃんの肩に手を置いた。

「うちの最高傑作なんだから」

 真っ白な肌にツンと高い鼻は、ハーフっぽいとは思ってたけど、青いカラコンを入れたら本当に異世界から転生してきたお姫さまみたいだ。

しかも巨乳。

「まぁね」

 さーちゃんもそのふんわり巻いた髪をさらりと後ろに流す。

「私って、実はこんなにかわいいって知らなかった?」

「あー、はいはいはいはい。カワイーデスヨー」

 笑い声があふれる。

さーちゃんも楽しそうに笑った。

「ねぇ、貴重な姿だから、一緒に写真撮ろう」

「いいよ」

 さーちゃんがそう言うと、あっという間にみんなが彼女の周りに群がった。

「ねぇ、後で一人だけのサービスショットとツーショットほしい」

「いいけど、ちゃんとうちのクラスにも遊びに来てね」

 なぜ自分たちのクラスでやらないのかとか、そんなことは誰も思わない。

他クラスのお祭り屋台の会場で始まった、身内だけの撮影会だ。

一般参加の人たちはまだ体育館や野外の出し物に引きつけられていて、校舎の中には少ない。

さーちゃんは大きな顔でニッと笑ったり、一緒に写る友達と合わせてポーズをとったり、とにかくはしゃいでいた。

「ねぇ、あたしも、あたしも!」

「いいよ。もも」

 さーちゃんと、こんな風に過ごせるのが楽しい。

なんだかんだでいっちーも、さーちゃんをパシャパシャ撮りまくっている。

だって、かわいいものはかわいいんだから仕方がない。

「いやー。いいもん見させてもらったわ」

「うん。アレにしては上出来だった」

 普段はあんまり仲良くないくせに、いっちーまでさーちゃんと写真撮ってるのに、あたしはバレないようにこっそり笑ってる。

チャンバラ対決まではまだ時間があるから、あたしたちはヨーヨー釣りの水槽の前で接客のお手伝い。

来てくれた小さな男の子に、彼が挑戦して取れなかった風船を、代わりにすくってプレゼントしてあげる。

「一花! やっと見つけたぁ~」

 桃だ。金太郎と浦島もいる。

制服じゃないから少し幼く見える彼らの腰には、やっぱり鬼退治用の日本刀がぶら下がっていた。

「来なくていいって言ったのに……」

 いっちーはぼそりとそうつぶやいたけど、きっと桃たちには聞こえていない。

桃は水槽をはさんであたしたちの前にしゃがみ込んだ。

「俺もヨーヨー釣りする」

 いっちーはムッとしたままで、釣り紐を桃に渡した。

金太郎と浦島は教室内の他の屋台をのぞいている。

「どれが取りやすいとかある?」

「ない」

 いっちーは相変わらずぶっきらぼうだけど、桃はうきうきしていた。

「ね、このあと時間ある? 金太郎と浦島も来てるからさ、ももちゃんも一緒に回ろうよ」

 桃はあたしを見つめると、ニッと笑った。

その無邪気過ぎる笑顔に、もうなんて言っていいのか分かんない。

「いっちー、行っといでよ」

「あたしはいい。ももとじゃないと嫌だ」

 あたしはため息をつく。

いっちーが本音のところでどう思ってるのかとか、あえて聞かないけど……。

「ももといっちーお疲れー。交代時間だからもう行って大丈夫だよー」

 そう声をかけてくれたのは、気を利かしてくれたのか、そうじゃないのか。

でも交代の時間は本当だから仕方がない。

勝手に待ち構えている桃たちと一緒に、あたしといっちーは歩き出した。

こん棒と日本刀という劣等感、というよりも、あたしたちのサークルがこの桃たちによって支えられているメンバーだと、見に来ている人たちにそう思われたくなかった。

 あたしといっちーは、桃たちを順番に案内して回る。

焼きそばを食べたり、ダーツしたり。

桃たちが楽しむ様子を、腕組みしながら後ろで見ていた。

「ね、次はどこ行く?」

「あぁ、そうだね……」

 金太郎にそう言われて、あたしは困ってしまった。

次と言っても思いつく場所がもうない。

いっちーはどうやら、考えることも放棄してしまってるようだ。

浦島はそんなあたしたちを見てフッと笑った。

「いつもどこで昼飯とか食ってんの? 二人が普段、どこでどんなことをしてるのか知りたいな」

「そう! それ。そういうの」

 桃は急に振り返って、笑顔を振りまく。

「教室の席とか、いつも通る廊下とか、階段の手すりとか、校庭の思い出の場所に行きたい。いつも、一花とももちゃんが見ている風景が見たい」

 あたしはいっちーをチラリと観察する。

いっちーはムッとしたまま動かない。

仕方なくため息をついた。

「今は学祭だから、普段とは全然違うけど……」

 あたしは桃に話してあげる。

いつもお弁当を食べてる場所、サッカーしてた校庭、保健室、いっちーとあたしがいつも……。

「いつも、練習はどこでやってんの?」

「練習? あぁ、鬼退治サークルの? それは……」

 さーちゃんとむーちゃんが歩いている。

さーちゃんはかわいい白雪姫で、むーちゃんは赤ずきんの狼だ。

その二人が見知らぬ男二人に絡まれていた。

「ちょっ……。待って」

 あたしがそう言ったら、桃たちもさーちゃんたちの様子に気づいた。

嫌がるむーちゃんに執拗に男が迫っている。

もう一人の男は、さーちゃんの髪に触れようと手を伸ばした。

「これ、カツラだから触んないでくれる?」

 さーちゃんは自分で頭を取った。

正体を見せた金髪坊主のさーちゃんに、男たちの動きは止まる。

「あんたたち、邪魔だからどっか行ってくんない?」

 ナンパ男たちは驚いて、さーちゃんを見下ろす。

彼らはバカみたいに笑い始めた。

「ちょ、なにその頭? それで個性とか思ってんの?」

「女の子でそれはかわいくないよ~。せっかくのおっぱいが台無し」

 さーちゃんの右手が拳を固める。

彼女の半身が一歩後ろに下がった。

「もうちょっとさ、男ウケとか考えた方が……」

 さーちゃんの目標が、ナンパ男の腹に定まった。

「この子たちの知り合い? そうじゃないなら、迷惑してると思うよ」

 その手を先につかんだのは、桃だった。

桃はさーちゃんを見下ろす。

「ね、そうじゃない?」

「……。迷惑だね」

 さーちゃんは握りしめていたその拳をほどいた。

あたしが飛びだそうとした肩を、抑えたのは金太郎だった。

浦島は桃のすぐ後ろに立つ。

「邪魔だと言われたんだ。早めに引いとけよ」

 目つきが鋭く背も高い浦島に言われて、男たちはあっという間に姿を消す。

さーちゃんは桃たちを見あげてから、あたしといっちーもいることを確認した。

もう一度視線を桃たちに戻す。

「……。ありがとう」

 さーちゃんはカツラをかぶり直した。

「さーちゃん、ありがとう! やーん、ちょっと怖かったぁ~」

 むーちゃんはさーちゃんに抱きつく。

そんなむーちゃんぎゅっと抱きしめてから、さーちゃんは改めて桃たちを見た。

「ももといっちーの知り合い?」

「お、鬼退治仲間だから。貴重な!」

 桃は何でか慌てふためいている。

浦島はカツラをかぶったさーちゃんをじっと見つめた。

「それは学祭用の衣装なのか?」

 そう言った浦島を、さーちゃんは見上げる。

「どっちもよく似合っている」

「そうかな、そうでもないんじゃない」

 彼女はため息をつく。

「ま、なんだっていいけどね。こんな格好するのも、今日だけだし」

 桃と金太郎も、順番にさーちゃんを褒める。

「どっちだって可愛いよ!」

「髪と実際の顔の作りは無関係だって証明されたね」

 きっとこれがさっきまでの教室みたいに、女の子だけの会話だったら、さーちゃんはニッと得意げに笑って、いつものように「まぁね。自分がかわいいの知ってるし」とか「今さら気づいた?」とか言ってたんだろうな。

「ももはこれから、その人たちと鬼退治?」

 目も合わせずにそう言ったさーちゃんの、そんな言葉に傷つく。

あたしはそれに答えられない。

いっちーが代わりに答えた。

「ううん。この人たちは関係ないよ」

 そのまま彼らを振り返る。

「私たちはこれから用事があるから、悪いけどこっからは自分たちで楽しんできて」

「分かった」

 桃はにこにこと笑って、素直にいっちーに手を振った。

去りゆく三つの背に、あたしは腰のこん棒をぎゅっと握りしめる。

同じように見送るいっちーの横顔も、暗く沈んでいた。

「行こっか」

 対決の時間は近い。

「そろそろ演武の時間だし」

「うん。気持ち切り替えて行こ」

 いっちーの横顔はいつだって凜々しいのに、今はそれがなんだか寂しく見える。

あたしは身を引き締めた。

自分たちで出来ることは、やっぱり自分たちでやりたいしやらなくちゃいけない。

桃たちには悪いけど、この先は来てほしくないんだ。

 そうやってやって来たチャンバラ会場には、誰もいなかった。

周囲に立ち並ぶ他の部活のブースには、それなりの人だかりが出来ているのに……。

そんな知っていたはずのことにまで、ちょっぴりショックを受ける。

「マジでもうみんな、鬼退治とか興味ないのかな」

 あたしたちの立つ看板の横には、対戦者用のこん棒も用意していた。

腕には巡回中の正式な腕章もしたし、その下には『模擬中』の白い腕章もつけている。

これはちゃんとしたルールだ。

「……。こんなんで、新入部員集まるのかな」

 いっちーからの返事はない。

ここでは外の世界みたいに、こん棒をぶら下げて腕組みするあたしたちを笑うような人間はいない。

だけど、だからといって全てを認め受け入れられているワケでもない。

「呼び込みしよう」

 こんなこともあろうかと、あらかじめ借りていたプラスチックのメガホンが役に立った。

あたしは大声を張り上げる。

それでもやるって決めたことに、変わりはないのだから。

「鬼退治サークルで、挑戦者を受け付けておりまーす!」

 いっちーも大声を張り上げた。

「ももかいっちーの、好きは方を選んでチャンバラ対決出来ますよー!」

 呼び込みにも来場者の反応は薄い。

4歳くらいの女の子がこん棒に興味を持ってくれたけど、大きすぎて持ちきれなかった。

中学校の制服を着た男の子数人は、こん棒を手にするまではしてくれたけど、打ち合いまでは至らない。

30代くらいの女の人が一人、「私も昔、本当はやってみたかったのよねー」とか言いながら、話しかけて来てくれた。

数回カツカツと打ち合わせただけで、すぐに「ありがとう」と退散してしまう。

この企画は失敗だったのかな? そんな不安や焦りがピークに達した時だった。

「これは、誰が挑戦してもいいの?」

 傘立てに立てかけたこん棒の、一本が引き抜かれる。

「じゃあ、相手してくれる?」

 まっすぐにそれを構えたのは、桃だった。

腰には鬼退治専用の公式刀がぶら下がる。

「桃が?」

「ダメ?」

「ダメじゃないよ」

 桃の目は、今までに見たこともないほど真剣だった。

あたしは腰のこん棒に手を置く。

「じゃあ、あたしが対戦をお願いしてもいいかな。いっちーの強さは知ってるんでしょ」

「そうだね。お互い手の内やクセを知ってる」

 桃はこん棒を構えたまま、ゆっくりと間合いをとる。

こんなところで挑戦を受けて、引き下がれるハズがない。

「じゃ、お願いします」

「こちらこそ」

 これがオフザケだとか一時の気の迷いだとか、そんな簡単なものじゃないってことを、知らしめないと。

あたしはこん棒を抜くタイミングを見計らっている。

きっと桃も踏み込むチャンスを見ている。

互いにじっと合わせた視線から、深く集中してゆく。

辺りが急に静かになった。

あたしは腰のこん棒を抜いた。

「ちょっと待ったぁっ!」

 ガツンと3本のこん棒が重なり合う。

あたしと桃の間に割り込んできたのは、細木だった。

「何だよ、邪魔すんな!」

 あたしは2本のこん棒を真横になぎ払う。

桃と細木は飛び退いた。

細木に向かって振り下ろしたそれは、ガツンと受け止められる。

「くっ……」

 やっぱりパワーじゃ敵わない? 

そう思った瞬間、細木はあっさりとこん棒を投げ捨てた。

「キミ! その腰の刀は?」

 クソダサジャージの細木は、桃に向かって両腕を広げる。

「え? これは鬼退治の……」

「やっぱりそうだよね!」

 細木は桃に近寄ると、ガッツリと桃の両手を握りしめた。

「僕はここで鬼退治サークルの顧問をしていてね。もしかして君はこの学校に興味があるのかな?」

「え? えぇ、まぁ……」

「そっか!」

 細木が熱い。

「もしよかったら入学案内があるから僕がそこまで案内してあげよう。いやぜひ案内させてくれないか!」

 桃からの返事を待たずして、細木はくるりと背を向けた。

「よし、じゃあ行こう!」

「細木!」

 あたしはこん棒を振り上げる。

「本当は鬼退治になんか、興味ないくせに!」

 振り下ろしたそれを、細木はパッと避ける。

そのまま落ちていたこん棒を拾い上げた。

構わす攻撃を仕掛けるあたしを、奴はガツンと受け止める。

「当たり前だ! 小田先生に言われてやってるだけだ!」

「じゃあなんで割り込んでくるんだよ!」

 距離をとる。

間髪入れず踏み込んだあたしに、細木はこん棒で応戦する。

「誰がお前らなんかと鬼退治するか!」

 刀身と刀身がぶつかり合う。

交差するそれを挟んで、あたしと細木はギリギリとにらみ合った。

「俺はなぁ、この学校が共学化して、男子が入ってくることだけを生きがいに頑張ってんだよ」

「何だよそれ……」

「お前こそ俺の邪魔をするな。鬼退治サークルが存続するなら、お前にとっても悪い話しじゃないだろ」

 力で押し戻される。

あたしが後ろに引いたとたん、細木はやっぱりこん棒を投げ捨てパッと背を向けた。

「おぉ! よく見ればここにもお友達が!」

 金太郎と浦島に駆け寄り、勝手に手を取るとぶんぶんと握手でそれを振り回す。

「君も! 君も! 名前は?」

「おいっ! 勝負のじゃなすんな!」

「お前こそ俺の勝負の邪魔すんな!」

 細木の大声に、びっくりする。

コイツが今までにこんな大きな声を出したのを、聞いたことがない。

つーかこんな声出せたんだ。

細木は落ちていたこん棒をあたしに突きつけた。

「君たちはここで、サークル部員の勧誘を続けていなさい。僕は彼らを案内してくるから」

 細木は持っていたこん棒を横にすると、ぐいぐい押しつけてくる。

その異様な気迫に押されて、あたしはついそれを受け取ってしまった。

「じゃ。余計な問題起こすなよ」

 背を向けたとたん、突然の上機嫌に戻った細木は、桃たち三人を引き連れてどこかへ行ってしまった。

きっと転入案内のコーナーにでも行くんだろう。

「なんだあいつ!」

 あたしは最高にイライラしていた。

普段の練習とかには、全く興味ないクセに! 

校内で会っても目も合わさないクセに! 

そもそも細木の顔を見るのは、学祭の許可をもらいに行って以来だ。

「いっちー! あたしと模擬戦しよう!」

 彼女はすらりと腰のこん棒を抜いた。

あたしが打ちかかると、それに応じる。

いつも以上に熱が入った。

流暢な剣さばきに、結んだ彼女の長い髪がなびく。

ガツガツと腕に伝わる振動に、あたし自身がしびれていた。

何に対して腹が立つのか、どうしてこんなにイライラしているのか、そんなことを今だけは考えたくもない。

いっちーの繰り出す素早い剣さばきに、無心で合わせる。

繰り出される剣先を避け、また打ち付ける。

踏み込む動きに一切の無駄なんてない。

ぶつかっては離れ、離れてはまたぶつかり合う。

あたしはただただいっちーと打ち合っている。

一呼吸置いた時、ふいに拍手が沸き起こった。

いつの間にか辺りには人だかりが出来ていて、あたしたちを取り囲んでいた。

それに気づいて、急に恥ずかしくなる。

いっちーの顔も真っ赤だ。

「あ、ありがとうございました!」

 二人で一礼をしてから、あわててその場を逃げ出した。

「なんか突然で、びっくりしちゃった」

「私も」

 どこへ逃げ込もうか。

校舎内に駆け込んで、ようやく一息つく。

「なんか飲む?」

「う、うん。ももは?」

「あたしもなんか飲みたい」

 目の前の教室で屋台が出ていた、よく分からないミックスジュースを買う。

正義のイエローダイヤと愛のレッドルビーってなんだ? 

どうやら黄色系と赤系の市販のジュースをいくつかミックスしたものらしい。

「あ、知らない味だけど悪くないよ」

「うん。不味くはないね。むしろアレとアレを混ぜたらこんな感じになるんだって感じ」

 見慣れた校内を行き交う沢山の見知らぬ人たちの前で、あたしたちは色んなものがごちゃ混ぜになった不思議なジュースを流し込む。

ようやく落ち着いたところで、生徒会本部役員のはーちゃんとしーちゃんに出くわした。

「もも!」

「どうしたの? そんなに慌てて」

 はーとしーは慎重に辺りを見渡すと、小声でささやく。

「鬼が出たっぽい」

 マジな感じの様子に、空気が凍りつく。

「ホントに?」

 二人はうなずいた。

「先生たちも巡回してるけど、ももたちもお願いできるかな」

「分かった」

「いっちーと二人でね。絶対一人になっちゃダメだよ」

 深く息を吸ってから、ゆっくりとそれを吐き出した。

あたしはこん棒の位置を確認する。

いっちーと目を合わせた。

「よし。行こう」

「任せろ」

 ウォーミングアップは出来ている。

さっきまでの緊張とは、全く意味が違う。

あたしは巡回中の腕章に手を触れた。

この校内でそんなこと、絶対に許さない。

 賑わう教室一つ一つを、丁寧に見て回る。

あたしの傷は疼いていなかった。

出入りの激しい学祭の最中で騒ぎ立てるわけにもいかず、笑顔を振りまきながら慎重に見て回る。

「あれ? どうしたの、二人とも」

 さーちゃんとキジだ。

さーちゃんの頭が坊主に戻ってるから、今は休憩中らしい。

「鬼が入り込んだって」

 声を潜めて、そうささやく。

さーちゃんとキジの顔色も変わった。

「その巡回中の腕章はもうないの? あるなら貸してくれない?」

 キジが言う。

あたしはポケットから余っていたそれを取り出した。

「あるけど、いいの?」

「仕方ないじゃない。鬼が出たと聞いて、黙ってはいられない」

 キジは腕に腕章を通した。

「ベルトとこん棒は?」

「体育科準備室横の倉庫に入ってる」

 鍵も渡す。

さーちゃんは食べていたパイナップルを平らげた。

「しょうがないな」

 その串をくわえたまま、ニッと笑った。

「協力してやんよ」

「腕章つけてれば、他の人も分かってくれると思う」

「了解」

 さーちゃんとキジが味方になってくれるなら、心強い。

はーちゃんとしーちゃんだけでなく、あたしの見知らぬ生徒の腕にも『巡回中』の腕章がついている。

あたしはこん棒の柄を、もう一度しっかりと握りしめた。

「絶対にぶっ殺す」

 イベント会場になっている校舎の中は全部見た。

あとは屋外会場だけだ。

一旦校舎の外に出る。

遠くに見かけたクソダサ青ジャージの細木も、腕に腕章をつけていた。

まぁ先生ならみんなつけてるか。

ぐるりと一周してみたけど、特に気になるところもない。

「もう一回校舎に戻って、トイレとか見て回る?」

 いっちーはスマホをとりだした。

「あ、ダメだ。鬼検索アプリ、終わってたわ」

 中庭から校舎を見上げた。

賑やかに飾り付けられた、いつもとは全く違う落ち着かない校内に、あたしの胸も騒ぐ。

「もう一回全体を回ろう」

 鬼の気配を探っている。

嗅覚を働かせるように、感性を研ぎ澄ます。

人の多すぎるせいか、腕の傷はなにも教えてはくれない。

「一花! ももちゃん」

 桃たちがやって来た。

彼らの顔にも緊張が見られる。

鬼退治の公認刀をぶら下げているんだ。

連絡は入ってるか。

「見つけた?」

 桃は首を横に振った。

「こればっかりは、対面しないとどうしようもない」

 時計を見上げる。

一般公開の時間は3時までだ。

間もなく2時半になろうとしていた。

「それまでに見つかるかな」

「出来れば何事もなく、退散してくれることを願うね」

 巡回のため桃たちと別れる。

すぐに一般公開終了を知らせるアナウンスが入った。

それと同時に、人々の波は引き始める。

屋台や出し物の片付けも始まった。

本当にこのまま退いてくれるかな。

「後で被害の報告がなければいいんだけど」

 いっちーのスマホに連絡が入った。

桃たちは学園を後にしたらしい。

在校生だけの後夜祭準備が慌ただしく始まっている。

疼かない傷に、あたしは少しほっとしている。

一般公開が終了して、在校生以外は全員が外に出た。

正門の高い鋼鉄門が閉じられるのを見届けると、ようやくその緊張を一段階解く。

腕章をつけた先生や生徒会メンバーも、全員がそこに集まっていた。

小田っちがあたしたちに声をかける。

「よっ。無事だったか?」

「せんせ~い!」

 うっかり涙声になってしまった。

「もう大丈夫だ。俺が保証する」

 あたしは鼻水をすする。

「だけどな、このこん棒ぶら下げている以上、いつでも気ぃ引き締めとけよ」

「はーい」

 ぞろぞろと引き上げていく先生たちの間に、細木と堀川の姿もあった。

あたしはなぜだかそれに、またちょっとだけ不安と安心を覚える。

「もも。後夜祭行こう」

 だけど、いっちーにも笑顔が戻ったし、ヘンな心配はさせたくない。

あたしは元気よくそれに笑顔を返した。

「うん! さーちゃんとキジも誘おう」

 屋外の特設ステージに先生たちが上がった。

そこには細木の姿もあって、相変わらず生徒からヘンな笑いを奪っている。

湧き上がる会場のなかで、なんだか言葉にならない不安と緊張を抱えていることに、あたしは気づいた。



第12章


 高校の二年生というヤツは、学祭が終わってしまえば本当にすることがない。

だらだら学校に通って部活やって友達とおやつ食べてるくらいしか、本当にすることがない。

あたしは教室で退屈を持て余していた。

「あーひまー」

 もう今日の更新分の漫画は読んだし、ゲームのデイリーミッションもクリアしてしまった。

昼休み明けの体育からの国語。

これはもうそんな時間割を組んだ先生たちが悪い。

さっさと着替えて次の授業になんて、備えられるワケがない。

「だりーの極みだな」

 いくら女子校といえども、運動の後の体臭は気になるのだ。

流れる汗を拭き取って、ボディケアの真っ最中。

「こないだ見つけたの。ブリリアントパールの香り~」

「もはや何の匂いか分からねぇ!」

 とかいいながら、鼻を近づける。

さっぱりとした爽やかで上品な香りがする。

「高そうな匂いだな」

「ブリリアントパールだけに」

「ウケる」

 高らかな笑い声が響く。

すぐにそれは教室中に連鎖して、愛用するフレグランスご披露大会の始まり。

「これ、なっちゃんが使ってるやつだって」

 どこからか次のボトルが回ってくる。

「フレッシュローズガーデンの朝露の香り」

 朝露に香りがあるかどうかはおいといて、確かにバラ園の朝っぽい。

あたしは少量を手に取って肌に滑らせる。

「これもいいよ」

 今度はマンダリンブルーの深海の香り。

濃すぎるフルーハワイみたいな、甘い匂いがする。

さっきとは反対の腕につけてみた。

休み時間終了を告げるチャイムが鳴る。

廊下の向こうから、特徴のある足音が聞こえてきた。

その足音だけで何者かが分かる。

敵の接近を知らせる「ウグイス張り」の廊下をもじって「堀川張り」。

略して、ただ「バリ」と呼ばれている足音だ。

「バリ来たよ」

 その瞬間、勢いよく教室の扉が開いた。

「ほら! いつまでもダラけてないで、さっさと席につく!」

 秋も終わりの季節とはいえ、今日は暖かい。

冷暖房の行き届いた教室で、誰がまともに着替えなんかしてるかっつーの。

「さっさと服を着なさい! なんなの制服忘れてきたの? てゆーか、なによこの教室、あんたたち色々つけすぎ! 凄いよ今この部屋の匂い!」

 あたしは手にあったボトルを見た。

「先生、これ『ボタニカルエンジェルハート』だって」

「は? 植物性天使の心? 意味不明だし」

 とか言いつつも、やっぱり鼻先を近づける。

チョコレートのようでただのチョコレートではない、激烈に甘い匂いがする。

「この場合、ハートは『心』じゃなくて『気持ち』じゃない? 天使だし」

 それを左の太股にすり込む。

揮発する成分で、そこだけが少しひんやりとした。

「やかましいわ。さっさと着替えなさい」

「国語の先生じゃん!」

 堀川は教卓に置かれてあったボトルを手に取った。

「やだ、これ誰の? ちょっともらっていい?」

 ソルティレモンバームの香りを手に取ると、堀川はその巨乳ではち切れんばかりのブラウスのボタンを外した。

「おぉっ!」

 チラ見えするブラは、総レースの如何にも高そうなもの。

寄せて上げてしっかり胸の谷間を形成している。

「そのブラどこで買ったの? なんていうやつ?」

 クラス中の視線が集まる。

「あんたたちには絶対に教えないから、安心して」

「なんだよそれー!」

「教室の窓全開にして、冷気を入れられたくなかったら、さっさと着替えなさい」

 この時点でも、まだ誰一人としてまともに着替えていない。

「はーい。ここテストに出すよー」

 堀川はそんな教師ならではの権力を行使しながら、無理矢理授業を始めた。

教科書のページを読み上げ始めた堀川に、その数字を聞き逃さないようあたしたちは声を潜め、必死にメモを取る。

「つーかソレ、結局テスト範囲全部じゃね?」

「全員席についた? じゃあ授業を始めます」

 そんな日常を繰り返しながら、やがて冬になった。

冬にはサツマイモ星からやって来た、芋しか食べられないサツマイモ星人のように、焼き芋ばかりを食べて過ごす。

今日は特に寒くって、空に小雪が舞っていた。

「今日の芋もうまいな」

「焼き芋に外れはないよ」

 演武場前の階段に並んで腰を下ろしたその目の前には、取り崩されたレンガの残骸が山となって積まれている。

それはこの学校のシンボルでもあった、あたしたちを取り囲むぐるり高い城壁で、もうあたしたちを守るその壁は存在しない。

取り壊されたチョコレート色のレンガの後には、細い針金のフェンスが取り付けられていた。

そのあみあみの向こうには、今まで見えなかった外の世界が見える。

冬のお日さまは信じられないくらいのスピードで沈んでいって、まだ明るくてもいいはずに時間にもう辺りは薄暗い。

「体動かした後の芋は、最高だね」

「間違いないね」

 焼き芋の熱と吐く息とが混ざり合い白く濁る。

新学期が間近に迫っていた。

「……。やっぱ芋うまいな」

「最高だよ」

 春が来た。



第13章


 百年以上続いてきた学校の歴史が大きく変わる、記念すべき年度の始まりだった。

共学化新年を祝って植えられた桜の若木は、チラチラとみずみずしい花をつけている。

最高学年になったあたしたちは、新入生を迎える準備にかり出されていた。

 女子の制服はそのままで、そのデザインに合わせた男子の制服が登校してくる。

真新しいそれに身を包み、生まれ変わった校舎に入り込んだそれは、きっと春先にふさわしい新鮮な空気を運んで来ているのだろう。

「もも。あのさ……」

 新入生の受付案内をしているあたしの横で、いっちーは言った。

「ん? なに?」

「……。私のこと、嫌いにならないでね」

「どうして?」

 流れてくる新入生たちの波が、急に騒がしくなった。

一段と目を引くその中心に、桃たちがいる。

「あ、一花とももちゃんだ。すげー。早速一番に会えた」

 そう言って桃はうれしそうに笑う。

その横には当然のように金太郎と浦島もいた。

「マジで転入してきたの!」

「まぁ色々、優遇制度があったからね。瑶林といえば、人気の伝統校だし」

 桃はいっちーを見て、にっこりと微笑んだ。

「同じ学校になれてうれしい。これからよろしくね、先輩!」

 いつまでたっても何だかんだ言って、桃はいっちーから離れようとしない。

しびれを切らした金太郎と浦島がようやく桃を引きずって、入学式の会場となっているホールへ向かう。

桃はそれでもまだこっちに向かって手を振り続けていた。

「なんで先輩? 同級生だよね」

「学校在学歴が長いからだって、言ってた」

 いっちーの頬が少し赤くなって、ぼそりとつぶやく。

「バカだから許してやって」

 他にも男女ともに転入組はそこそこいて、突然クラスが2つ分増えた。

全転入組の割合を見ると、男子は女子の3分の1くらい。

新学期は、はーちゃんとしーちゃんとはクラスが分かれちゃったけど、いっちーとさーちゃん、キジとは同じクラスになった。

見慣れた女の子ばかりの空間に、見知らぬ男子がいるのは違和感しかないけど、まぁ気にならないと言えば、正直気にはならない。

「担任誰になるかなー」

 新担任の発表は、朝のホームルームに登場してくるまで分からない。

ざわざわと落ち着かない教室の外で、複数の足音が聞こえた。

この中の誰かが扉を開けてこの教室に入ってくる。

入って来たソイツがこのクラスの担任だ。

「おはようございます!」

 姿を見せたその人物の、正体を知っている在校組の女子たちは大騒ぎになった。

「うっそ、マジかよ。もしかして初担任がうちらってこと?」

「最悪じゃん!」

「コイツが『先生』とか出来んのかよ」

 その新担任は、教卓にドンと手をついた。

「在校組は黙れ。転入生、入学おめでとう」

 細木はいつものクソダサジャージではなくて、安っぽいスーツを着ていた。

「うっざ!」

「そこ。花田もも。ウザいとか言うな」

「あ?」

 一部でクスクスと小さな笑みがこぼれる。

誰だ笑ってんの? 

細木の正体を知っているクラスの8割が、そっちを振り返った。

とたんに見られた転入組は黙る。

いつもならここで、クラス中が細木に向かって非難ごうごうの嵐になるのに……。

「みんな、仲良くな」

 昼休みになった。

うちのクラスの転入組は、男女合わせて7人ぐらいか? 

互いに知り合いみたいで、比較的仲良くしている。

「一緒に食べよう」

 あたしはいっちーとさーちゃん、キジと机を合わせる。

いっちーはいつも、お兄ちゃんや家族の分の弁当を手作りしてくるので、ちゃんとしたやつ。

キジはお母さんが作ってくれるみたい。

あたしとさーちゃんはどっかで買ってきた何か。

「俺たちも混ぜて。一緒にご飯食べよう!」

 入って来たのは、桃と金太郎と浦島だ。

「え、自分のクラスで食べなよ」

「いーじゃん別に」

 そう言って勝手に机をくっつけ始める。

「ねぇ、食べ終わったらみんなで、学校の案内してよ」

「そういうのはいっちーの役目でしょ」

 彼女のビクリとした目が、ちらりとあたしを見た。

「私の役目って……。もも、みんなで行こうよ」

「えーやだぁ」

 いっちーからの提案に、あたしは即答する。

昼休みはいつも昼寝をすると決めていた。

じゃないと午後の体育のあとは、寝るしか出来ない。

「どっかで剣の練習でもすんの?」

 桃のお昼はあたしと同じどっかで買ってきた何か系だけど、金太郎と浦島は普通にお弁当だった。

浦島はふとさーちゃんに視線を移す。

「頭、触っていい?」

「は?」

 浦島の手が伸びる。

さーちゃんは無言のままじっと固まってしまった。

そんな彼女の手前で、浦島は一旦動きを止めたけど、逃げもせず拒否もしなかった坊主頭にそっと手を添えた。

「この手触り、一回確認してみたかったんだよね」

 そう言ってなで回す。

「すっげー。やっぱ男のとは違うな」

 浦島の手が引っ込んだ。

さーちゃんは彼を見上げる。

彼女がキレ散らかし始めそうな予感がして、あたしはとっさに、さーちゃんの頭へ抱きついた。

「分かる! いや、男の坊主頭をなでたことはないけど、短い髪って下から逆なですると気持ちいいよね」

 さーちゃんの頭は女の子の柔らかい髪質の上に、同じ長さでびっしりそろっているから、そんじょそこらの毛並みとはワケが違うのだ。

彼女はため息をつく。

「あんたたちも、いっつも触ってくるもんね」

 あたしはさーちゃんの、キンッキンの頭をなで回す。

その隣でキジは、真剣な顔つきをしていた。

「私も好き」

 キジもさーちゃんの頭を撫でまわす。

さーちゃんの頬は、わずかに赤くなった。

「さー学校回るか!」

「さー昼寝すっか!」

 あたしと桃の声が同時に重なった。

「あたしは寝るからね。つーかこないだの学祭で、学校回ったでしょ」

「学祭と普段は違うって、そん時も言ってただろ」

 あたしは桃を無視して、いっちーに視線を向ける。

「いっちーに頼みなよ」

「……う、うん」

 ほら大人しくなった。ど

うせ桃は、いっちーがいいクセに。

いや、嫌みとか嫉妬とかじゃ全然なくて。

「ももは来ないの?」

 金太郎が割って入る。

「あ、もしかして鬼退治の自主練?」

 あたしは立ち上がった。

「別に。じゃ、お先に」

 数ヶ月前まで、いつもいっちーと二人でだべっていた場所に行く。

その高い城壁にもたれて、どこまでものんびりできていたのに、その壁はもうない。

あみあみフェンスでは、向こうからもこっちが丸見えだった。

通りがかった知らないじいさんと目があう。

「おいコラ、サボってんじゃねーぞ。しっかり勉強せぇ」

 舌打ちまでされた。

今は昼休みだっつーの。

せっかく天気もよくなって、暖かくなってきたのに、もうそこにあたしの居場所はない。

仕方なく別の場所に移動しようと振り向いた時、視界にみんなの姿が目に入った。

いっちーが桃たちと一緒に歩いている。

そこにはキジとさーちゃんもいて、金太郎と浦島も楽しそうだ。

自分でも、どうしてそうしたのか分からない。

彼女たちに見つからないよう、陰にかくれてこっそり移動する。

こんなんじゃ、今日の昼寝は無理だな。

あたしは7時間目の授業をあきらめた。

 この新学年、新学期の憂鬱はどこから来ているのか。

それははっきりとしていた。

細木だ。

「じゃ、ホームルーム終わりねー」

 それまでの青すぎるクソダサジャージから一新され、また違ったタイプのダサ過ぎるジャージに変わっていた。

今まではずっとおどおどした変なしゃべり方をしていたくせに、人が変わったようにあたしにも平気で話しかけてくる。

「……花田。膝を立てるな、見えてるぞ」

「なにがだよ」

 目を合わせたまま、細木はグッと黙った。

「あたしはいつも、こうやって座ってんの」

「お前は俺のパンツが見たいか」

「んなワケねぇだろ。キモいわ」

「……。だったらお前も俺に見せんな」

 教室を出て行く。

そんな時、いつもなら女の子たちからの「やっぱ見てんじゃん!」とか「テメーが一番キモいわ」とかの罵詈雑言が、細木の背中にこれでもかと浴びせられていたのに、今じゃなんの反応もない。

それでも最初の頃は、あたしをイジられ役と勘違いしていた転入組が笑っていたけど、もうそんなこともなくなってしまった。

あたしは肩越しに小さくなっている転入組に視線を向ける。

「お前らもなんとか言えば」

「もも。ムカつくのは分かるけど、そんな威嚇してやるなよ」

 いっちーが隣でつぶやいた。

さーちゃんはため息をつく。

「私も髪伸ばそっかなー」

「なんで?」

 そんな言葉が彼女の口から出てくるなんて、思いもしなかった。

あたしは本気でびっくりしている。

「別に。みんなに触られるのがウザいし、飽きてきただけ」

「伸ばすの大変そうだね」

 キジがさーちゃんの頭を撫でた。

「ほら、触りおさめだよ」

 いっちーの手もさーちゃんの頭に乗る。

これで触りおさめだなんて、そんなの触りたくもない。

「トイレ行ってくる」

 廊下に出たら、偶然金太郎の背中が見えた。

腰にぶら下げた刀は相変わらずで、女子に取り囲まれている。

転入組の中で一番人気は、人当たりよく物腰も柔らかな金太郎らしい。

「あ、ももちゃんだ」

 そんな金太郎が、あたしに気づいた。

「こんなところで会えるなんて、今日はついてるかも」

 そんなウソ臭いセリフに、騙されるようなあたしじゃないし。

「そりゃどーも。あたしは招き猫かなんかなの?」

 そんなちょっとしたイヤミのつもりも、にこっと笑って受け流す。

「ももちゃんは、学校ではこん棒つけてないんだね」

「今まで学校で出たことはないからね」

 こん棒はいっちーのとまとめて、ロッカーの上に置いてある。

「ねぇ、今日の放課後、何か予定ある?」

「別にないけど」

 あたしはトイレに行くのだ。

「そっか。ちょっと話しがしたいなって……」

「ゴメン、もうトイレ行っとかないと」

 女子トイレがこんなに便利なものだなんて、知らなかったな。

同じクラスの転入女子と目があって、なぜだかペコリと頭を下げられたのに、またムッとする。

あたしはどういう扱いなわけ?

 今日は3、4時間目が体育で、着替えるために教室を移動する。

ここの教室が男子の更衣室になるからだ。

そんなことまでイチイチ気に障る。

体育の授業は当たり前のように、男女で分けられた。

男子の指導に回っている細木が生き生きとしているのに、またイライラしている。

そんなもの見ないでおこう、気にしないでおこうって、常にそう意識しなければならないことに、何よりも腹が立つ。

「あ、さっきまで体育だったの?」

 授業終わりの廊下で、桃が話しかけてきた。

いっちーが見当たらなかったからだ。

「まあね」

 さっさとやり過ごそうとしたのに、違う男が話しかけてきた。

「花田さんと知り合いなんだ。さすがだね」

 その彼らを見上げる。

こいつらには見覚えがある。

確か同じクラスの奴らだ。

丸いのと細いのと中くらいの。

「モモと仲がいいの?」

 男四人で話しているところに、なんであたしがいるんだろう。

立ち去るタイミングを逃してしまって、ただぼーっと突っ立っていたら、丸いのがもう一度言った。

「えっと、花田さんと桃は仲良しなの?」

 あたしは仕方なく桃を見上げる。

桃は「うん、そうだよ」とうなずいた。

「わぁ、やっぱそうなんだ。格好いいよね、それ」

 細いのが桃の腰の刀を見ている。

「俺ら、学祭で見たよ。花田さんと犬山さんがバトルしてるの。さすが歴史と伝統ある瑶林高校には鬼退治部があるんだなぁと思って。いいな~って」

 中くらいのは、あたしを見下ろした。

「桃は腰にいっつも差してるけど、花田さんはこん棒を、校内じゃロッカーの上に置きっぱなしだよね」

 そう言って丸いのと細いのと中くらいのの、三人は笑った。

あたしはどういう反応をしていいのか分からないから、まだぼーっとしている。

この会話のメンバーに、本当にあたしは入っているのか? 

入っちゃっていいのか? 

やっぱなんかしゃべった方がいいのかな。

そうやって何となく立っているだけのあたしを見て、桃たちは拍子抜けしたような感じになった。

「いや、ほら。こういうのって、個人差もあるから」

「そっか。それまで女子校だったしね」

「校内で鬼が出まくるなんて、ないもんな」

「それもそうか。だよな」

 また四人で勝手に笑った。

「あのさ、着替えに行ってもいい?」

「あぁ、そうだね、ゴメンごめん」

 桃は手を振った。

誰に向かって手を振った? 

それに丸いのと細いのと中くらいのが振り返して、彼らはそのまま着替えのため、男子用の教室に入っていく。

あたしはそんな桃たちに手を振っていいのかどうかも、やっぱり分からなくて、そのまま女子用の教室に入る。

何なの? 

そのことに対して何の反応もなかったから、きっとあたしは対象ではなかったんだろう。

そうやって自分を納得させる。

中に入ると、先に戻っていたいっちーが待っていた。

「もも。早く着替えないと、男子たちが入ってきちゃうよ」

 いずれは男女それぞれに更衣室が用意されるみたいだけど、まだそこまでの工事は追いついていない。

それが完成すれば、こんなうっとうしいこともなくなるんだけど……。

「面倒くさいね」

「仕方ないよ」

 慌ただしく着替えて、席に着く。

教室のドアが開けられ、閉め出されていた男子が入ってくる。

そんな彼らのすぐ後ろには、次の授業の先生がもう待ち構えていて、あたしは窓の外を見ている。

あぁ、きちんと汗を拭き取るのも忘れてるな。

自分の体が汗臭いような気がして気持ち悪い。

みんな、今はどんなフレグランス使ってんだろ。

「春だもんなぁ」

 窓から入る風は本当に爽やかですっきりしていて、ふんわりと頬を撫でる。

そういえば最近、駅バァを見てないな。

もしかしたら広場にはいるのかもしれないけど、共学化してからすっかり大人しくなってしまった。

かつての存在感は微塵もない。

それがいいことなのか悪いことなのかも、あたしには分からなくなってしまっている。

「もも」

 休み時間になって、いっちーが話しかけてきた。

「明日はお昼、一緒に食べようって。桃たちが」

 だからどうして、そんなことをあたしに聞くんだろう。

「え、別にどっちでもいいんだけど」

「金太郎と浦島が、みんなにお弁当作ってくるって。さーちゃんとキジも誘ってる」

 あたしはそれにもまた、どういう反応をしていいのか分からないから、「うん」とだけうなずいておいた。

学校工事の資材置き場にされてしまった演武場は、まだ使えない。

本当だったら、いっちーと練習したいんだけどな……。

「……。まぁ、昼休みだけなんだったらいいか」

「なにが?」

「ううん。なんでもない」

 面倒くさい。

そんな面倒な明日なんて来なければいいと思っていたのに、やっぱり次の日というのはやってきて、どうなるのかと思っていたけど、その日は天気もよくて、なぜか校内の芝生の上で、みんなでお弁当を食べた。

立派な重箱に詰められたそれは、料理の得意な金太郎と浦島が作ったんだって。桃も手伝いはしたらしい。

普通にどうでもいい話しをして、いっちーとかは笑っていたけど、みんなは楽しそうにしていたから、それはそれでよかったと思っている。

細木に呼び出されたのは、その放課後だった。

「ようやく演武場が使えるようになったぞ」

 担任を持つようになったから、今は体育科準備室の机の下ではなく、職員室にいる。

「うっそ、ホント!」

「新入部員の受け入れ準備しとけよ」

「え?」

 細木はニヤリと笑った。

「今年度から、サークルから部へと昇格だ」

「やったー!」

 生まれて初めて細木がエライと思った。

あたしは教室に駆け込む。

「いっちー!」

 飛び込んだ教室には、いっちーと腰に刀をぶら下げた桃がいて、ゆったりと何かを話していて、騎士道一直線のナイトみたいだったいっちーが、厳格な修道院の聖女か、凜々しいお姫さまみたいに見える。

隣にどんな人がいるかで、こんなにも違って見えるのか。

いっちー自身は何にも変わっていないのに。

「もも?」

 いっちーに気づかれた。

「あー……。何でもない。邪魔した」

 くるりと背を向ける。

あたしが遠慮する必要はないって、それは分かってるんだけど、やっぱり近寄りがたい。

いっちーにはきっともう、鬼退治なんかよりも大切なものが出来てしまったような、そんな気がする。

「待って!」

 いっちーが追いかけてくる。

それを察して、全力で走り出した。

「あたし、なんで逃げてんのー!」

「それはこっちのセリフー!」

 ゆったりとした放課後の、廊下を駆け抜け階段を飛び降りる。

校舎の角を曲がったのに、いっちーはまだ諦めてくれない。

渡り廊下を越え、校舎を移り、とにかく学校中を走りまくって走りまくって、本気の全力疾走に息切れしている。

ようやく足の動きが鈍ってきた。

それはいっちーも同じで、あたしはついに捕まる。

「ももはさ……」

 いっちーもあたしも、荒い呼吸をつき汗をかいていた。

「なに?」

 いっちーは、すぐ横にあった自販機前の椅子にドカッと腰を下ろした。

あたしはここでまた走り出したら、今度は確実に撒けるなーとか、でも教室の鞄の前で張られてたら終わるなーとか、そんなことばかりを考えている。

「最近、私のこと避けてる?」

 そんなこと言われて、座りたくない。

「避けてない」

 彼女があたしを見上げていることに、ずっと落ち着かない。

「なんで? なんでそんなこと聞くの?」

「なんかそんな気がした」

 あたしは背中をまっすぐに伸ばす。

少し離れた位置から彼女を見ている。

「細木にね、呼び出されてたんだ」

「なんか言われた?」

「部に昇格するって」

 本当だったら、いっちーと大喜びしてたんだろうな。

だけど素直に喜べない理由は、知っているような気もするけど、知らない。

「そっか。他には?」

「……。別に」

 いっちーの目が、あたしに座らないのかと訴えかけている。

あたしは仕方なくそこに座る。

「練習メニュー、どうしようか」

「うちらはもう三年になったし、他の部だと引退だよ」

「じゃあ誰が続けんの」

 細木になんて、渡したくない。

なのに、どうしようもない。

「一年とか二年が入ってくれればいいんだけど」

 学校の改装工事が終わらないから、全部活の開始が遅れている。

「そろそろちゃんとしないと」

「うん。ダンス部引退したから、さーちゃんとキジも手伝ってくれるって。色々聞けるし、いいんじゃない」

「だね。……。細木にも、そうやって言われた」

「そっか」

 事務的な会話に、あたしは顔を背ける。

ガラス張りの向こうから差す日差しは、もう赤く傾いていて、完全下校の時間も近い。

「もも、今日は一緒に帰ろう」

 そんなこと、いちいち誘ってこなくても、前までは当たり前にそうしていたのに……。

「うん。なんか久しぶりだね」

 いっちーのスマホに連絡が入って、あたしたちの荷物を持った桃たちが校門の前で待ってくれているらしい。

「そんな連絡まで来るんだ」

「もう正門一つじゃないから」

 いっちーが返信を打っている。

仕方なくいっちーの背中を見ながら、そこへ向かう。

桃たち3人と、さーちゃんとキジまでいた。

「ねぇ、アイス食べて帰ろうよ」

 桃に話しかけられる。

「それとも、まだ少し寒いから、たこ焼きの方がいいかな」

 どうしてそんなこと、わざわざ聞いてくるんだろう。

あたしは金太郎から鞄とこん棒を受け取った。

「桃たちの行きたいところでいいよ」

「じゃ、ももの行きたいところがいい」

 そう言って桃は、にこっと微笑む。

「ももの行きたいところへ、俺たちを連れてって」

 あたしが望むも望まないも、どうにもならないことはどうにもならない。

大きく息を吸ってから、ピタリとそれを止めた。

「ねぇ、鬼退治部、入る?」

 それはずっと避けていた言葉。

あたしは桃たち三人を見上げる。

「入ってもいいの?」

「いいよ。部員を勧誘しないといけないの。一緒に手伝ってくれる?」

 彼らは3人はパッと目を合わせた。

「もちろん!」

 そうやってうれしそうにしているのが、本当は何だか寂しい。

さーちゃんがあたしの首に巻き付いてきた。

「なによ、私とキジにもちゃんと頼みなさいよ!」

 少し伸びた髪をライオンみたいにトゲトゲにしてから、ガチガチに固めてある。

それがほっぺたに刺さってちょっと痛い。

「さーちゃんとキジは、ヤダって言ってもやってもらうつもりだったから、いいの」

「なんだそれ」

 さーちゃんが笑った。

「じゃあ、いつものフードコートへ行きますか?」

「うん」

 7人になったあたしたちが歩き出す。

駅前広場に、駅バァがいた。

レンガで囲まれた花壇に、誰かの手によって植えられたただ大人しく咲き誇る花たちの脇に座っている。

そういえば最近、駅バァの怒鳴り声も聞いてないな。

だけどそんなことを気にしているのは、この世であたし一人だけなのかも知れない。

フードコートであたしたちは、たこ焼きとアイスを食べた。




第14章


 本格的な活動再開の前に、教室を借りてポスター作りやら、ちゃんとした練習メニューの整理を始めた。

いっちーと二人だけの頃だったら、絶対にやらなかったようなことだ。

「ま、想像はしてたけどさ……」

「うん。酷いよね」

 さーちゃんとキジに呆れられる。

「だって……」

 浦島はテキパキと書類仕事をこなしてくれていた。

「とりあえず、細木んところ行って色々聞いてきたけど、年間活動予定とかこんな感じでいいのかな」

 昨日の放課後に皆で行ったフードコートで、具体的な内容は話し合っていた。

それに従って実際の作業を進めている。

「あ、いいんじゃない? 大会とかがないのが寂しいけど、他との交流試合とか考えていきたいよね。無理なら学内対抗戦とか」

「合宿とかの予算を考えると、遠征なんかよりももっと……」

 いつの間にか、さーちゃんと浦島はすっかり仲良しだ。

「キジって、本当にバレエ部の部長さんだったの?」

 金太郎はあたしを見て、にっこりと笑った。

「わぁ、一度でいいから、見てみたかったなぁ」

 そんなことを言いながら、パソコンで勧誘広告を作ってる。

デジタルで絵も描けるなんて、信じらんない。

「動画とか持ってない?」

「持ってても本人の許可がないと見せないよ」

 そう言ったら金太郎はクスクスと笑った。

「やだな、ももちゃんもキジと同じこと言うんだ。お願いしたのに、絶対見せないって断られるんだよ」

 教室のドアが勢いよく開いた。

「ただいまー!」

 桃が戻ってきた。

その後ろにはいっちーとキジもいる。

「倉庫のこん棒、数えてきたよ。ベルトもまだ残ってるけど、数は少ないね。腕章は作られた世代が違うのかな? デザインの違うのがいくつかあって……」

 いっちーは、さーちゃんと浦島に倉庫調査の結果を報告をしている。

金太郎はキジを見て、にこっと微笑んだ。

彼女はそれに、ふいと顔を背ける。

桃があたしの隣に腰を下ろした。

「どう? 作業進んでる?」

 進んでるも何も、あたしはただここに座って、浦島とさーちゃん、金太郎からのあれやこれやの質問に、「あー、どうしよう。分かんない」「じゃあ後でみんなで考えるか」「うん、そうだね」とか言ってるだけだし。

 桃の目があまりまっすぐにあたしを見てくるから、あたしもそれに視線を合わせる。

桃は「どうかした?」とでもいうように、首をかしげた。

桃の黒くまっすぐな髪と、あたしのくるくる天パのショートヘアが、同じ色をしているのをとても不思議に思う。

この空間に、あたしは部長だからという理由だけで、ここに座っている。

また教室の扉が開いた。

「よっ、やってるか?」

「細木先生!」

 桃はパッと立ち上がる。

「新入生の入部希望はあった?」

「まだ気が早いっすよ」

 そう言って笑う。

細木の手が桃の肩にのった。

浦島はまだ完成していない書類を細木に見せる。

「こんな感じで大丈夫ですかね」

「あぁ、いいんじゃない。こっちはもう出来てるの?」

 細木はポケットから印鑑を取り出すと、ろくに見もしないでそこに印を押した。

細木はそのまま続ける。

「あ、部活用の学校アカウント、許可下りたから。これがIDとパスワードね」

 金太郎に、一枚の紙ペラを渡した。

「あぁ。ありがとうございます!」

「勧誘案内の印刷は? 何部刷る予定?」

「今のところ、実動部員は7人ですからね、あまり部数刷っても……」

 金太郎の作業していたPCを、細木はのぞき込んだ。

「うおっ、お前絵も描けるのか。凄いな」

「こんな感じでどうですかね?」

「うん、いいんじゃない」

 画面を見ながら語り出した細木に、浦島が声をかけた。

「先生、学校の印刷機って、使えるんですか?」

「『部活』になったからね!」

 細木はうれしそうにグッと親指を突き出し、盛大にニヤリと笑った。

「今日はもう練習はしないの?」

 細木は今度は、桃の前に座る。

「だから今日は、教室で会議だって言ったじゃないですか」

 桃はうれしそうに答えた。

「こないだ先生からもらったアドバイス、めっちゃ分かりやすかったです。抜刀の時の手首の返し方とか……」

「鬼ってさ、ある程度は習性みたいなのがあって……」

 細木は桃と鬼退治の話しをしている。

なにそれ。

いつの間に細木とこんな仲良くなった? 

あたしは細木に、鬼退治の仕方とか教えてもらったことない。

「なにコレ」

 男子3人と楽しそうに話している細木と、その光景に思わず声が出る。

隣に座っていたキジと目が合った。

「なにアレ」

 もう一度声に出す。

キジは少しうつむいただけだった。

「私は……、ももの気持ち、分かるよ」

 その細木がこっちに顔を向けた。

「花田ぁ~。お前ってホントになんも考えてなかったんだなぁ」

 そんなことを言いながら、上からため息をつく。

「だからいっつも問題起こすなよって、言ってたのに」

「は?」

「今まで、なにやってたんだよ。お前はサークル起ち上げたたけで満足だった?」

 細木が笑ったら、そこにいた男どもも笑った。

「そんなんでよく部長とか自分で言ってられるよな。まわりのことも、ちょっとは考えろよ。こんだけ手伝ってもらって、やっとじゃねぇか。そんなんだから今までろくに部員も集められないんだよ。活動だってロクにしてこなかっただろ。だから俺は……」

 あたしはガタリと立ち上がった。

「イツ、ダレガ? アンタに迷惑かけた?」

 机をドカンと踏みつける。

細木は一瞬、あたしの知っている顔になった。

「あんたこそ、何しに来た? 今さら顧問ヅラされても、こっちも迷惑だっつーの」

 机に足をかけた今のあたしは、細木より視線が高い。

「キライでしょ? ホントは鬼退治。他の先生から無理矢理押しつけられて、迷惑してたんでしょ? だったら来んなよ。なんで部に昇格させた? あんた、あたしの顔見るたびに、いっつも言ってたじゃん。『こんなサークル、いつでも潰してやる』って」

「……。そんなつもりで言ってたんじゃない」

「だったらどういうツモリなんだよ!」

 机を蹴飛ばした。

「テメーがうちらを嫌ってることくらい、最初っから知ってんだよ! 言えばいいじゃん、さっさと辞めろって。お前ヤメロ席譲れって。ずっと嫌がってたでしょ? うちらの前で、あたしたちのこと!」

 細木の顔はすっかり青ざめ、硬直している。

「花田さん。先生は、机を蹴飛ばすのは、よくないと思います」

「っんだと、コノ野郎!」

 腰のこん棒を抜く。

「わぁ! ももちゃん、ちょっと待った!」

 桃が後ろからあたしを押さえつけた。

羽交い締めにされて、身動きが取れなくなる。

「あたしに触るな!」

 桃を振り払い、こん棒を振り回す。

彼はパッと離れ、すぐさま両手を挙げた。

ハンズアップ。万歳。

あたしはそのこん棒を細木に突きつける。

「ももちゃん、ここ教室!」

 止めようとする金太郎を、あたしはにらみつけた。

「あんたたちは黙ってて」

 あたしの用があるのは、コイツだけだ。

「そうやってイイ面見せといて、どこで裏切るつもり? やっとあんたの、自分で好きなようにできるって? 味方が出来た? あぁそう、そりゃよかったよね。だけどね……」

 こん棒を構えなおした。

「あたしがここにいる間は、絶対にあんたなんかに渡すつもりはないから。本気であたしに問題起こされたくないんだったら、今すぐこっから出て行け。お前にこのまま黙って奪われるくらいなら、こっちからぶっ潰してやる。それが嫌なら、二度とあたしに顔見せんじゃねぇぞ!」

 細木は動かない。

じっと黙ったまま、その場に立ち尽くしている。

くそっ、マジでどうしてやろうか。

そう思った瞬間、ヤツは背を向けた。

「悪かった。俺はもう出来るだけ関わらない。今まで通り、お前たちだけで好きなようにやれ」

 教室を出て行く。

あたしはその物言いと後ろ姿に、またイラッとしている。

浦島が走り出した。

「先生!」

 すぐに金太郎もその後を追いかけ、桃も出て行ってしまった。

急に辺りが静かになって、窓から吹き込んだ風が作りかけの書類を飛ばす。

いっちーはそれを拾った。

「もも」

 名前を呼ばれただけなのに、それだけのことなのに、無性に腹が立つ。

どうしてあいつらがここに入学してきたんだとか、アレが桃たちばかりをかわいがることとか、そんなことは彼女には一切関係ないのに、これ以上なにかをしゃべったら、その全てをいっちーのせいにしてしまいそう。

「なに?」

 あたしは、ひっくり返した机を元に戻す。

そうやってうつむいていないと、誰かと目があってしまいそう。

「あっちゃー。コレ、くーちゃんの机だったか。謝っとくわ」

 スマホを取り出す。

高速タップで謝罪文を打つ。

顔をあげたら、さーちゃんと目があった。

相変わらずの伸ばしかけツンツンライオン頭で、座った机の上に片膝を立て、そこに頬杖をついている。

キジは最初から位置も姿勢も全く変わっていない。

いっちーは集めた書類を片手に、じっとあたしを見ている。

 誰も何も言わないから、あたしはどうしていいのか分からない。

分からないものは分からないから、どうしようもない。

「もも」

 いっちーの足が一歩前に出る。

その分だけ、あたしとの距離が縮まる。

今はそんなことにすら耐えられない。

「あー分かった! 分かったよ、分かってるって!」

 あたしは生徒で、細木は先生で、部活には顧問が必要で、桃たちがここに入学してきたのも入部してくるのも、自分じゃどうしようも出来ないことで、そんなことに腹を立てていたってしかたがなくて、誰もがこんな些細なことを些細なこととして処理しているのを知っているし分かってる。

「謝ってくる」

 足取りは重い。

行きたくない。

なんであたしが謝らないといけない? 

教室をゆっくりと歩いて、入り口のドアにかじりつく。

だけどあたしがしないといけないのは、こういうこと。

「クソダサジャージに謝って来らぁ!」

 そっからの廊下全力ダッシュ。

そんなことしたって、全然意味なんかないのに。

階段を飛び降り廊下を駆け抜け、校舎を飛び出した。

アイツはどこにいる? 

職員室へ向かおうとした中庭の柱の陰に、うずくまる人影を見つけて立ち止まる。

 細木が泣いている。

そのボロボロに泣いてる細木を、桃と金太郎と浦島が必死で慰めている。

なんだアレ。

細木はやっぱ、頭おかしいんだな。

なんで教師が生徒の前で泣いてんだ。

じっとみていたあたしに、浦島は気がついた。

「もも」

 いっちーと同じようなトーンで、あたしの名前を呼ぶのがムカつく。

「いつから見てた?」

 ため息をついた浦島に、あたしはあえて返事をしない。

柱の陰に隠れたままじっとしている。

「先生はそれなりに、みんなのことをちゃんと考えてくれている」

 金太郎は、その金色の髪をかき上げながら浦島に続いた。

「ももちゃんにとっては、気に入らないことが多いかもしれないけど、先生の協力がないとどうにもならないことはあるって、分かるよね」

 桃はあたしをじっとみつめたまま、一歩近づく。

「ももは、どうしたいの?」

 あたしは桃を見上げた。

どうしたいかって? 

そんな本音を、正直に言えるとでも思ってるんだろうか。

びっくりする。

「いいんだ、ありがとう」

 答えずにいたら、細木は立ち上がり、桃の肩に手を置いた。

「先生」

「どうせ俺は、なにやったって嫌われるんだから。こいつにとっては、そんなこと、どうだっていいんだよ」

 細木はいつもの顔で、遠くからあたしを見下ろした。

「な、お前はどうしたって、俺が嫌いだもんな? いいよ別に、無理しなくたって」

 あたしはなんにも言っていないのに、やっぱり勝手に進行してゆく。

「別に、そんなこと思ってないよ」

「じゃあどう思ってんの?」

 あたしは桃を見つめる。

そんなこと、あんたたちに言ってどうすんの? 

どうしようもないことだって、あたしが一番知ってるのに。

「ほら、結局何にも考えてないし、無駄なんだよ」

 細木はいかにもめんどくさいというように、手をひらひらさせた。

「あー、もういいよ。帰れ帰れ」

 ほら、ね。

「結局我慢するのは、いつもこっち側だからさ。もう慣れたよ」

「……。じゃ、帰ります」

「はーい。お疲れー」

 どうしてコイツらは、いつもこうなんだろう。

あたしたちとは、見えているものと見えていないものの世界が、全く違うとしか考えようがない。

コイツらにとってあたしがどうでもいい存在なんだったら、結局あたしにとっても、どうだっていい存在だったってことだろ。

話しがかみ合わないのは、どうしようもないことで、そんなことまであたしのせいにしないでほしい。

あんたたちがあたしに何も期待せず意識しないように、あたしもまた期待してないしアテにはしない。

 柱の陰で振り返る。

細木はうれしそうにニコニコ笑っていて、ふざけた様子で桃を膝で蹴飛ばした。

桃たちはずっとたのしそうに笑いあっていて、浦島の腕は、笑い転げる金太郎の肩にのる。

細木がこん棒を振り回すと、桃は腰の刀を鞘ごと抜いた。

それを細木に渡す。

細木はその刀身を、うれしそうに引き出した。

何よりも眩しく輝くそれを、細木は振り回す。

ほら、ね。

やっぱりそういうこと。

 教室に戻ったら、いっちーとさーちゃん、キジが待っていてくれた。

あたしはへらへら笑って言う。

「細木に謝ろうとしたけど、謝れなかった」

「どうして?」

 さーちゃんが聞いてくる。

「……。なんか、別に聞きたくないって……」

 いっちーと目が合わせられなくて、それでもじっと見られているのは分かるから、余計にそっちを見ることが出来ない。

「なんか、結局どうでもいいみたいだった。こんなこと」

「……。そっか」

「でも、これからも、細木とは普通にする」

 部活のことは桃と金太郎と浦島と、いっちーとさーちゃんがちゃんとやってくれてるっぽいから、それでいいんだと思う。

あたしは大人しくみんなの言うことを聞いて、「うんうん」と返事をしておけば大丈夫。

その方がみんなで上手くいくなら、結局はそれが最適解だと思うんだ。

最近は何となく、部活に出てもキジと一緒にただ座っている。

 さーちゃんの髪がまた少し伸びて、前髪が出来た。

今は揃わない髪を頭のてっぺんで結び、他は伸びるがままに任せている。

彼女の金色の髪がやわらかなウェーブを描いているなんて、知らなかった。

 遅れていた工事もほぼ終わって、部活が再開された。

それに合わせて、勧誘も始まる。

金太郎の作ったポスターが壁に貼られ、在校生に限定して公開される部活アカウント運用解禁ももうすぐだ。

今日はそのタイムラインに流す画像の撮影に来ていた。

「だからなんで昼休み?」

「『お弁当も一緒に食べてます』みたいな?」

 桃はうれしそうに、いっちーと浦島の作った豪華弁当を広げた。

「『いつも』ってワケじゃないじゃん」

「だけど、特別な時にはいつもこうしてるよ」

 桃はレジャーシートを広げる。

あたしが『いつも』、という言葉に引っかかっていることにも、桃は気づかない。

「ほら、ももちゃんもキジも座って」

 金太郎がスマホのカメラを向けた。

「あたしはいいよ」

「ダメだよ。部長と幹部役員は写らないと」

 金太郎の爽やか王子スマイルには、きっと誰もあらがえないように出来ている。

あたしの隣に、いっちーが座った。

久しぶりに横に並んだ彼女からは、懐かしいシャンプーの匂いがする。

そんなことにも久しぶりすぎて、涙が出そう。

「ほら、キジとさるも並べ」

 浦島に促されて、2人もフレーム内に収まる。

大きなタッパーに入れられた、ピクニック仕様の豪華弁当を囲んで座った。

元は女子校だったから、そこには女の子しか入れない。

部活が再開されたとはいえ、入部手続きが始まっていない今は、桃たちはまだ正式な部員ではないのだ。

「なんか、弁当詐欺っぽくない? 全部浦島が作ったの?」

「これ作ったの、私だから」

 いっちーがつぶやく。

そっか。

いっちーはあたしと違ってお弁当作るのも得意だった。

浦島はあれこれと構図に文句をつけ、金太郎に要求されるがままポーズを取る。

いっちーは慣れっこなのか淡々と受け流し、さーちゃんは楽しそうだった。

キジはずっとムッと強ばっている。

「体調悪い?」

 一通りの撮影が終わって、ようやくご飯を食べられるようになったのに、あたしはガチガチに固まったままのキジに声をかけた。

「そんなんじゃないよ」

 キジはうつむいたまま小さくため息をつき、お茶を口にした。

生理前なのかなって思ったけど、そんなことをここでは聞けない。

金太郎は紙皿に乗せた卵焼きをキジに差し出した。

「はい。食べて」

 彼女はそれを受け取ると、すぐにあたしに向かって突き出す。

「私、いま卵焼きって気分じゃない」

 あたしだってそんな気分じゃないけど、出されたものは何だって食べるよ。

桃とさーちゃんは先を争うようにガッついていて、競争してんのかケンカしてんのか分かんない。

いっちーと浦島は、ちゃんとしっかり自分の分は確保している。

キジはすました顔でお茶だけすすって飲んでいて、あたしは仕方なくキジを素通りして金太郎から渡される、てんこ盛りのシイタケの肉詰めとかフキの煮物を口に詰め込んでいる。

むせたあたしに、キジはお茶を差し出した。

「ありがと」

 あたしはそれを素直に受け取り、飲み干した。

「いいなー。俺も誰かにお茶いれてほしい……」

 金太郎がボソリとつぶやいたその瞬間、サッとあたしとキジは2リットルのペットボトルを指さし、それを見た浦島は紙コップを手に取る。

「ほら」

「はい」

 金太郎は、浦島から受け取ったそれに口をつけた。

弁当の中身が空っぽになったタイミングで、キジは立ち上がる。

「消しゴムないから、購買に行って買ってくる」

「あ、あたしも行く」

 立ち上がったあたしとキジに、金太郎と浦島は手を振った。

「2人とも、放課後も来てくれるとうれしいな」

「部活の紹介動画撮るから」

 ふと見下ろしたあたしは、いっちーと目が合う。

横を向いたら、今度はキジと目が合った。

桃が「じゃ!」と手を振ったから、あたしとキジは校庭の芝生を抜け、校舎の陰に入る。

「どうしてついてきたの」

 キジは怒っているみたいだ。あたしの目の前で、長く真っ直ぐな黒髪が揺れている。

「ねぇ、お腹空かない?」

 あたしはこっそり持ってきていた、ママのクッキーを取り出す。

「一緒に食べよう」

 ずっと早足で歩いていた彼女の足が止まった。

「……それは、本当は、今日みんなで食べるために持ってきてたんじゃないの?」

 キジがこんなにも苦しそうにしているのを、あたしは初めて見たような気がする。

「ううん。そんなことないよ」

 あたしたちは誰にも見つからないように、非常階段踊り場という透け透け見え見えの秘密基地に潜り込む。

キジと同じ甘い紅茶を買って、並んで食べた。

「美味しぃ~!」

 いつもさーちゃんと負けないくらい、いっぱい食べるキジを知っている。

あたしの方はもう、本当にお腹いっぱいだった。

「全部食べちゃっていいの?」

「うん」

 非常階段から見える遙か足の下に、まだレジャーシートを広げているいっちーとさーちゃん、桃たちの姿が見えた。

どうしてあたしたちは、こんなところに追いやられているんだろう。

「それは……鬼のせい?」

 あたしは隣のキジに、そっと声をかける。

キジの横顔は、ふっと笑った。

「別に何かされたとか、嫌な事があったとかってわけじゃないんだけど、どうしても見たり聞いたりしちゃうことってあるじゃない? それに対して、何にも出来ない自分が嫌だし、かといってどうしていいのかも分からないし、自分が嫌な思いをするかもって分かってるところに、わざわざ行く気にならないだけなんだよね。分かる?」

「分かるよ」

 あたしはキジの長い黒髪の、風に吹かれているのを見ている。

「キライなのよ。何となくでしかないんだけど。自分とは全く違う生き物のような気がして。怖いっていうか、わかり合えない、混じり合えないっていうか、なんかそういうの……。とにかく嫌なの」

 サクッと乾いた音がして、キジの口の端から見えないくらい細かなクッキーの欠片がこぼれる。

「知らない人に対して、どう思うかってのがあるじゃない? 少しでも同じところとか、似たような部分があると安心できるけど、生物としての共通点が何にも思いつかないのよ。分かる? この感じ」

 あたしはそっとうなずいた。

足元ではいっちーとさーちゃんが、桃たちと普通にランチしてる。

「単純にね、もう動きとか動作とか、しゃべってる内容とか全く理解不能なのよ。全部意味不明。同じ空間にすらいたくないし、自分の世界に入ってこられるのも嫌なの。全てが悪人ってわけじゃないって、もちろん頭では分かってるんだけど、そんなのは簡単に感情が否定してくる。『本当に大丈夫?』『信用していいの?』『関わったら、後で面倒なことにならない?』って、そんなことを考えてたら、もう近寄りたくもない」

 崩れた学校の城壁は、もう何にもなくなっていて、見通しはすっかりよくなったけど、もうあたしたちを守ってくれるものは、何にもない。

「あの人たちは違うって、ちゃんと頭では分かってるんだけどね」

 あたしはキジの肩に頭を寄せた。

彼女の温かな体温が、じんわりと伝わってくる。

「分かるよ。あたしも基本的に嫌いだもん」

「私はまだ……。あの人たちには、さーちゃんがいていっちーがいて、もももいるから大丈夫なだけで……」

 いつの間にかママのクッキーは、残り少なくなっていた。

「……ねぇ。あたし、鬼退治続けてていいと思う?」

 吹き上げる上昇気流は、スカートを巻き上げた。

「いいと思う」

 キジの髪からは、いっちーとはまた違ういい匂いがする。

「私も……頑張る。負けないように……」

 キジと目が合って、あたしが笑ったら、彼女も笑った。

「あたしもクッキー食べていい?」

「もともと、もものじゃない」

 キジは笑った。

お腹はいっぱいだったけど、一緒に食べたクッキーはとても美味しかった。




第15章


 新入部員の勧誘は、思いのほか手こずっていた。

そもそも「鬼退治」という行為自体が、すでに流行っていないのだから仕方がない。

腰にぶら下がる刀もこん棒も、興味のない人たちから見れば、ただ邪魔で迷惑なものでしかないようだ。

「まぁ確かに、そう言われればそうなんだけどねー」

 家庭科の調理実習中でも、その状況は変わらない。

「だったら外せよ」

 同じクラスの男子、中くらいのは、わざとなのか特にそういうつもりでもないのか、小さく舌打ちする。

「は? なに? 文句でもあんの?」

「……。いや、別に……」

 あたしがにらみつけたら、中くらいのはムッとして静かになった。

まぁそう言いたくなる気持ちも、分からなくはない。

だってあたしといっちーとさーちゃんとキジが、4人揃って同じ調理実習グループだ。

最近はさーちゃんもキジも普通にこん棒を差してるから、そりゃ邪魔だわな。

中くらいのといつも一緒にいる、細いのと丸いのも同じグループだ。

「えっと、煮干しの量って、これでいいのかな」

 細いのがいっちーに尋ねる。

どうして高校の家庭科で、ご飯に味噌汁、ポテトサラダとオムライスを作らなくてはならないのか。

しかも出汁は市販の粉じゃないなんて。

「うん、いいと思う」

「そっか。ありがと」

 さーちゃんは鼻歌交じりでジャカジャカ米を研ぐと、炊飯器にセットした。

「だけどさぁ、土鍋で米炊けとか言われなくてよかったよねー」

「それはやりすぎでしょ」

 あたしはため息をつく。

丸いのがジャガイモの皮をむくのに苦戦している横で、キジはキュウリを切っている。

丸いのが小さな声で「うわっ」とか「あれっ?」とか言う度に、彼女はいちいち、体をビクビクと震わせていた。

「あ、雉沼さん。ジャガイモの芽って、こんくらい取ったんでいいかな」

 そうやって見せられただけなのに、キジは丸いのをにらみつける。

「は? 何か用?」

「よ、用っていうか何ていうか……」

「私に話しかけないでくれる?」

「え? えっ? えっと、その、ジャガイモの芽が……」

 キジの振り上げた包丁が、まな板の上のキュウリを一刀両断して弾き飛ばす。

「……。話しかけないでって言ったよね……」

 丸いのは明らかに動揺し困惑している。

まぁ気持ちは分かるが、どうしようもない。

彼には自分がなぜこんなにも嫌われているのか、それが分からないのだろう。

いや、むしろキミは何も悪くなくって、キジは個人としてのキミが嫌いなのではなく、とにかくそこに属している全てのものが気に入らないってだけで、それはキジ自身の個人的な感情で、だから丸いのがキジの態度を気にする必要はないのだけど……。

そんなコト、言われてもねぇ?

キジは丸いのを無視して、無心にキュウリを刻み始めた。

あっという間にその作業を終えると、今度はタマネギに取りかかる。

丸いのはどうしていいのか分からず、困っていた。

見かねたさーちゃんが丸いのとキジの間に入り込む。

「ゴメンね、キジは人見知りが激しいから」

「う、うん。なんかいつもそんな感じだよね」

 丸いのが放った何気ない言葉に、キジはさらにイラついてしまった。

「は? どういうこと? いっつもこっち見てんの?」

 ケンカ腰のキジがにらみつける。

「ジロジロ見てんじゃねーよ、キモ……」

「あぁ! ジャガイモの皮って、むくの慣れないと難しいよね! ピーラーってどこ?」

 キジの言ってはならない言葉を、さーちゃんがギリギリで封じ込めた。

いっちーに助けを求めるように見上げる。

「実習中は、ピーラー禁止なんだってさ」

「は? マジで」

「どうしよっか……」

 雰囲気を察したいっちーは、ジャガイモを手にとった。

「じゃ、みんなでまとめてやろう」

 いっちーとさーちゃんとキジと、丸いのと細いのが作業しているのを、あたしと中くらいのは並んで眺めている。

中くらいのがつぶやいた。

「お前も手伝えよ」

「あんたもね」

「俺は食べるの専門だから」

「あたしもだっつーの」

 いっちーはそんなあたしたちを、上からにらみつける。

「お前らも、やれ」

「あ、あたしは火起こしと片付け専門です!」

「今回は火起こしないけど」

「じゃ、洗いものはする」

 いっちーは黙って、一つうなずいた。

あたしは中くらいのを、肘で一発ドカリとぶつ。

「お前もそうだからな」

 その衝撃が強すぎたのか、中くらいのはやたらめったら大げさに痛がっていた。

「そんな乱暴にする必要ないだろ」

「してねーって」

「痛いから」

「お前も片付けな」

「ちっ。分かってるよ」

 そんな中くらいのを、キジは異界の生物でも見ているような、嫌悪感満載の目でにらむ。

中くらいのは、そんなキジにすっかりどん引いてしまった。

「俺ら、なんか悪いことした?」

「してないよ。気にすんな」

 キジはまだ遠くからにらんでいる。

「なんで?」

「だから何でもないんだって」

 キジはフライパンに油を引くと、火をつけた。

「あ、オムライスの卵で包むのになったら、自分でやるから」

 中くらいのはそんな空気を和ませるつもりで言ったんだろうけど、キジの眼光は逆に鋭さを増した。

「は? まさかやってもらえるとでも思ってたわけ?」

「そ、そういう意味ではなかったんだけど……」

 とにかくキジの顔が怖い。

中くらいのはすっかりふてくされて、小さくなってしまった。

何だかずっと隣でブツブツ言っている。

あたしはそんな中くらいのを見ながら親切心で教えてあげる。

「自分の分は自分でやれって」

「分かってるよ!」

 その後も作業は順調に進み、あたしと中くらいのは、とんでもなく退屈していた。

そもそもいっちーが料理慣れしているうえに、さーちゃんも何だかんだで、そつなくこなしている。

キジは周りの空気を悪くさせまくってるけど、作業の手は止まらない。

細いのと丸いのは、キジの悪態にめげずに一生懸命参加している。

手の上で豆腐を切るのは初めてとかいう細いのの挑戦に、キジ以外は笑っていた。

ある意味平和な世界だ。

「お前も手伝えよ」

 あたしはさっき言われたのと同じように、やっぱり退屈している中くらいのに言ってみた。

「お前に言われたくないんだけど」

 同じような返事が返ってきたのに、ちょっとウケる。

「だからこういうの、苦手ってゆうか、興味わかないんだって」

「俺もだし」

「そっか。なら仕方ねぇな」

「うん」

 ご飯の炊けるいい匂いが漂ってきた。

味噌汁は出来たみたいだし、ポテトサラダに投入された具材とマヨネーズは、丸いのが一生懸命混ぜている。

いっちーが炊き上がったご飯をフライパンに移した。

「おい。そこの2人。ケチャップご飯くらい作る?」

 そう言われたあたしと中くらいのは、同時に首を左右に振る。

その動作までシンクロしていた。

やる気の出ないものは出ないのだから、仕方がない。

「……。ま、だよな」

「だな」

 いよいよ最後の仕上げに入った。

ケチャップご飯のたまご包み。

いっちーとさーちゃんはフライパンの上で綺麗にご飯を包むと、それを皿に移した。

そんな高度なテクニックを持ち合わせていないキジと丸いのと細いのは、出来上がった薄焼きたまごを皿に盛ったチャーハンの上にかぶせる。

「ほら、お前らの番だぞ」

「俺が先にやる」

 中くらいのは立ち上がって、ボウルに卵を割った。

菜箸でそれをかき混ぜると、フライパンに流す。

ジワュッと音を立てて、卵の表面が泡だった。

「わっ、コレどうすんだ?」

 中くらいのは慌ててひっくり返そうとして、フライ返しでたまごを破ってしまった。

「クソッ」

 そのままぐちゃぐちゃにかき混ぜようとする腕を、いっちーが掴む。

「待って。そういう時は一旦火を止めてから、卵を追加して挽回すればいいから」

 崩れたたまご焼きの上に、新たな卵液が流し込まれる。

「これで回復は出来た。後はうまくやって」

 いっちーが言うと単なる調理実習の料理じゃなくって、どっかの騎士団の極秘任務みたいだ。

「ちゃんとたまごが固まってから、丁寧にフライ返しを入れたら上手くいくから」

 さーちゃんからもアドバイスが入る。

作業を終えた細いのと丸いのも集まってきた。

中くらいのはぎごちない手つきながらも、何とかたまごを皿に移し、自分のオムライスを完成させた。

「おぉっ」

 細いのと丸いのは、ささやかながら盛大に拍手を送っている。

中くらいのは汗なんかかいていないのに、額の汗を拭った。

「なんとかなった」

 顔が真っ赤だ。照れてんのか。

「次はももね」

 いっちーから卵液の入ったボウルを渡される。

流した玉子が焼き上がっても、うまくフライパンから卵がはがれなかった。

「あれ? なんで?」

「かして。やってあげる」

 キジはあたしからフライパンを奪いとると、くるっと手首を返した。

薄焼きたまごは宙を舞う。

それはいい感じでふわりと皿に舞い降り、菜箸とフライ返しの二刀流で、オムライスはオムライスしたオムライスな楕円形に丸められる。

「わーい。やったぁ! キジ、ありがとう」

 キジは満足したように、得意げな笑みを浮かべた。

中くらいのはそれに舌打ちする。

「んだよ、ソレ。ずりー」

「ま、仕方ないよね」

 あたしは中くらいのに向かって、ニッと笑ってやる。

食べ終わった後の片付けは、何だかんだであたしと中くらいのだけじゃなくて全員で協力して、さっさと終わらせる。

これで調理実習も終わり。

解散。

「お前らって、まだ鬼退治続けんの?」

 家庭科室を出たあたしたちの、腰に差したこん棒を見ながら中くらいのは言った。

「続けるよ」

「ふーん……。そうなんだ」

 中くらいのは中くらいだから、あたしとあまり身長は変わらない。

「え? あんたも入部する?」

「しねーよ。三年だし」

 次の授業は化学だ。

早く教室に戻らないと。

「もう卒業だろ。部活なんてなぁ」

 中くらいのは中くらいらしく、細いのと丸いのの後について、そのまま行ってしまった。

「……。引き留めた方がよかったのかな」

「さぁ、どうだろう」

 いつの間にかいっちーが隣にいて、あたしたちは目を合わせた。

確かにうちの学校では、もうとっくに三年生は引退していて、ただ下級生のいないうちらだけが、部の存続のために活動しているだけだった。

勧誘するなら、三年生ではない。

「部員、増やさないといけないんだけどね」

 あたしは部長だし。

「大丈夫だよ。なんとかなる」

 いっちーはそういうと、そのまま階段を上り始めた。

その横顔に、あたしの傷がチクリと痛む。

なんとかなるって、誰が何をなんとかするの? 

それが出来ないから困ってるんじゃない。

 化学の先生が黒板に書く反応式は、矢印一つで簡単に変化してしまうけど、あたしにそんなことは出来ない。

反応式って、何に反応して変化するんだろ。

放課後がきてもまだぼんやりと机に身を投げ出したまま、じっと動けずにいる。

「ねぇ、金太郎が勧誘のポスター出来たって言ってたけど」

 さーちゃんは机に突っ伏したままのあたしをのぞき込む。

「うん。適当に張っといて」

「はぁ~。ダメだこりゃ。いっちー、コイツなんとかしてよ」

 いっちーのくすんだような茶色の目は、あたしを見下ろした。

「ももは平気でしょ」

 いっちーの手には、その完成したポスターがある。

「いいよ、さーちゃん。私たちは私たちで、出来ることをしよう」

 キジが心配そうにあたしをのぞき込んだ。

それにニッと笑って見せる。

「もうすぐ工事も終わって、部活が解禁されるよ」

「うん」

「今日はもう何にもしないの?」

「うん」

 伏せた腕の中に、再び顔を埋める。

これ以上なんか言われたら、あたしはまた爆発してしまいそうだ。

そうやってあたしの周囲からみんながいなくなるのを待っているのに、誰も動く気配はない。

え、ポスター早く貼りにいかなくていいの?

「今日は先に帰るね。後は任せた」

 パッと立ち上がり、後ろを振り返りもせず教室を飛び出す。

任せたって、何を任せるつもりなんだろう。

自分で言っといて意味がわかんない。

 周囲と取り囲む高い壁がなくなって、スッカスカになった校内に未だ慣れない。

風の通りがよすぎるせいだ。

あたしにとっての校門はただ一つだったのに、今は3ヶ所に穴が空いている。

男子の聞き慣れない低い声には、違和感しかない。

この世界と外は区別されているはずだったのに、もうそんな違いなんてない。

「お姉ちゃん」

 すっかり大人しくなってしまった駅バァの、その目の前で小さな女の子に声をかけられた。

この子には見覚えがある。

「もう鬼退治は、しなくてもいいの?」

 学校周りを巡回していた時に、助けを求めてきた子だ。

「元気だった?」

「ねぇ、本当にもう鬼退治やめちゃったの?」

「や、やめてないよ。……。そ、そんなの、やめるワケないじゃん!」

 あたしは腰のこん棒に手を置く。

「これからも、バンバン鬼退治していくから!」

 それなのに、彼女の顔はゆっくりと重く暗く沈んでゆく。

「あの時はありがとう。今度からは、遅い時間に独りで歩いたり、知らない人に近寄ったりしないし、分かってることも、知ってることも、全部興味ないとか知らないフリして、イイコにしています」

 つぶやく声はとても小さくて、まるで誰かから指導され、そう言わされるために覚えてきたセリフみたい。

「余計な手間をかけさせちゃって、ゴメンなさい。もう自分勝手なことはしません」

 ペコリと頭を下げると、彼女はそっと歩き出す。

「ありゃ可愛らしい、ええ子じゃねぇ~」

 ふいに隣にいた駅バァが口を開いた。

もごもごと口を動かし、彼女を褒め続ける。

「きっといい親御さんに育てられたんだよ。ちゃんと躾が行き届いとる。人間ちゅーのはやっぱり、あぁじゃないといかん」

 駅バァの目は、遠く離れてしまった自分の姿を見ているようだった。

「じゃないとヒトは、幸せにはなれんからなぁ」

 歩いていった女の子は、あたしの知らない誰かと手をつなぎ、人混みの中に消えていった。腕の傷が痛みだす。

「あんたも誰か他のヒトの言うことは、ちゃんと聞いていきんさいよ。自分の考えなんて、ちぃ~っともアテにはならん。人間素直が一番なんやから」

 駅前の濁った空は、春の訪れを告げる。

生暖かい空気が駅前広場を吹き抜けてゆく。

そのニュースが飛び込んできたのは、それから数日が経ったあとだった。




第16章


 それはとてもとても小さな扱いで、あたしは学校に来るまで、本当に全く知らなかった。

「もも、今日のニュース見た?」

「へ?」

 そんなもん、見てるわけない。

ケーキ屋さんである我が家は朝早くから仕込みに追われていて、大きくなってからのあたしは、ずっと独りで好きなネット動画を見ながら朝ご飯食べてる。

「なにが?」

「そんなことだろうと思ってた」

 いっちーはスマホでニュースサイトを開く。

さーちゃんとキジも来ていた。桃たちもだ。

見せられたそのニュースサイトヘッドラインには『鬼退治優遇政策 条例廃止が決定』の文字が浮かぶ。

「は? なにコレ!」

 あたしはそれを奪いとった。

【政府は時代にそぐわなくなったとして、鬼退治関連法の廃止に関する法律の制定を決定した。これによって、各自治体における当該条例の廃止及び、改定を検討するよう求めており、400年続いた我が国の鬼退治の歴史に終止符が打たれることになる。今後も国として鬼に対する監視と警戒を続け、平和で安全な社会の形成に邁進していくと伝えている。軽減される予算の使い道として、地域安全対策費として使われる予定だと説明した】

「ちょ、待って。どういうこと?」

 血の気が引くというのを、あたしは生まれて初めて体験した。

浦島はため息をつく。

「もう十年以上も前に協会は解散している。この事態は予見出来た」

 金太郎は腰の刀に手を置くと、その柄に手を滑らせる。

「ついにこいつともお別れか。短い間だったけど、俺が最後の持ち主になるとは思わなかったな」

 そうやってすました顔で別れを惜しんでいる。

は? コイツらは何を言ってるんだ? 

「鬼退治用の刀所持登録者に、警察から返納の知らせが届いてるんだ。期限内なら返納手続きが簡素化されるっぽいし……」

 桃までもが、そんなことを言っている。

「返しに行くの?」

 3人は申し合わせたように顔を合わせた。

「うん」

「返さなかったら、どうなるの?」

「別にどうにもならないけどね。普通の日本刀と同じ扱いになって、警察の管轄からは外れる。鬼退治のは色々と制限があって面倒くさかったから、ちょうどいいのかも」

「普段から持ち歩く分、制限が多かったからな」

 浦島は刀を腰から外した。

「今日の放課後には、そろって提出しにいくつもりだ」

「今日? そんなに早く?」

 チャイムが鳴った。

あたしはまだ上手く息も出来ないのに、自分以外の他の人たちは全然平気みたいで普通に動いている。

「もも、もう行かないと。授業が始まっちゃうよ」

 いっちーは校舎を振り返る。

あたしはまだ立ち上がれない。

「え? いっちーは、それでいいの?」

 彼女はその凜々しい顔立ちで、うずくまるあたしを見下ろした。

「……。私が決められることじゃないから」

 いっちーの髪からは、いつもと同じいい匂いがする。

「もも、とりあえず教室に行こう」

 さーちゃんが手をとり、引き上げてくれた。

キジも寄り添ってくれる。

あたしは先を歩くいっちーの、揺れる長い髪に歯をくいしばる。

「いっちー! あの……!」

「もも。それは言っちゃダメ」

 二人はあたしを止めた。

「いっちーも誰も、悪くないよ」

 さーちゃんの肩まで伸ばした髪が、あたしの鼻先をくすぐる。

キジは横顔まで落ち着き払っていた。

いっちーのミルクティー色の髪は、一瞬あたしを振り返っただけで、そのまま行ってしまう。

昼休みには当然のように、細木はあたしを呼び出した。

「鬼退治部の廃部が決まった」

 淡々と話すその頭を、あたしはじっと見下ろしている。

細木は机の上でまとめた廃部のための書類を、あたしに突き出した。

からかい半分で冗談みたいに、バカにして笑いながらうれしそうに上から言ってくるのかと思っていたのに、これじゃこっちの調子が狂う。

「これからどうするのかは、お前が決めろ」

 あたしはただ細木を見下ろす。

ずっと黙っていたら、ようやくこっちを見上げた。

「ん? どうした。ほら、さっさと受け取れ」

 乱暴に差し出されたそれを、ひったくるようにバサリとつかみ取った。

細木はため息をつく。

「俺が口出しするのは、お前は気に入らないんだろう?」

「廃部になってよかったですね」

「お前がそんなことを言うんだ」

「うれしいのはあんたでしょ」

「……。あぁ、そうだったな」

 細木はあたしには知らんぷりで、集められた何かの予定表の細長い紙切れを目の前で整理している。

「なんか言うことないの」

「あるわけねぇだろ。用がないなら、さっさと出て行け」

 そうだ。

間違えちゃいけない。

あたしのいるべきところは、ここじゃない。

細木に背を向け、職員室を出る。

そこまでが限界だった。

「うっ……」

 渡された書類で、誰にも見られないよう顔を隠す。

それでもどうしても声を抑えることが出来なくて、その場にしゃがみ込んだ。

 だって、どうしようもないじゃない。

腰のこん棒を見て、クスクス笑う連中がいる。

この校内でだ。

どうして? 泣いてる場合なんかじゃないのに。

 あたしは立ち上がると、張り出してあった新入部員勧誘のポスターを引き剥がした。

金太郎の作ったポスターはとてもよく出来ていて、一緒に並ぶ他のどのポスターよりもカッコよくて、とてもよく人の目を引いていた。

部活アカウントの更新は、閲覧は出来るけど、もう止められている。

更新が出来ない。

まだまだ撮りだめした画像があったはずなのに、それがこのタイムラインに載せられることも、もうない。

あれだけ苦労して勝ち取った演武場の使用許可は、知らないあいだに取り消され、利用希望部に対する抽選会の開催予定が、ネット掲示板に表示されていた。

「なんでこんなこと……」

 昼休みの廊下は人通りも多くて、あたしに声をかけてくる人は誰もいなくって、ここでどれだけ叫んだり暴れたりしたって、もう何にも変えることは出来ないし、変わらない。

「こんなところでうずくまってちゃ、邪魔よ。どきなさい」

 ため息と共に、そんな声が聞こえてくる。

見上げると堀川が立っていた。

いつも弾け飛びそうなパツパツのシャツを着て、ムチムチのミニスカートで闊歩していた堀川が、パンツスタイルのまともで普通な格好をしている。

「なんで無駄にエロい服やめたの?」

「やっぱあんたたちも、そんな目で見てたんだ」

 堀川はボリボリと頭を掻く。

あたしと同じ目線にしゃがみ込んだ。

「いやー。女子校ってさ、女の子ばっかで、いいところも多いけど、逆におかしいとかヘンだってとか、そういうのも、誰もなんにも言わないじゃない? 私は家にある、着られる服を着てただけだったんだよね。買いに行くのも面倒くさかったから」

 堀川の顔は、ちょっぴり赤くなっていた。

「でもさぁ、さすがに服がキツくなってきて、動きにくいもんだから、思い切って全部買い換えたんだよね。そしたらまぁ、びっくりするほど動きが楽で楽で」

 堀川は泣いているあたしをじっと見た。

「自分の着てた服、ぶっちゃけ高校、大学時代から変わってなかったんだよね。太ってないしまだ着られるし。もったいないとか思ってたけど、やっぱ体型変わってたわ」

 あたしは鼻水をすすり、頬に流れる涙をぬぐった。

その堀川の胸には、この学校で唯一変わらなかった校章の、その教員バッチがついている。

「先生が最後の部長だったって、本当?」

「そうですよ。かわいい後輩ちゃん」

 堀川は立ち上がった。

体型が変わったとか言ってるけど、そのスラリとしたパンツスーツと、ぴったりしたシャツはとてもよく似合う。

「『堀川先生って、ああいう格好が好きでやってるのかと思ってました』って、言われたわ」

「……。誰に?」

「内緒」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

「あんたも早く、教室戻りなさい。これからどうするのか、自分でちゃんと考えるのよ」

 そんなこと言われたら、せっかく泣き止んでたのに、また泣きそうになる。

そうやってあたしが一日中グズグズしている間に、すぐ放課後になってしまった。

今日は鬼退治部の今後についてどうするのかっていう、大事な話をしなくちゃいけないってのに、桃たちは刀の返納に行くと言う。

「早いうちに終わらせたいから。さっさと気持ち切り替えたいし」

 桃は笑顔で手を振った。

「すぐにすむと思う。戻ってきたら、ちゃんと手伝うから」

 彼の視線はいっちーを見ていた。

「遅くなるようなら、連絡する」

 すぐに教室を出て行こうとする桃に、あたしは言った。

「別に、他に用事とかあるんだったら、わざわざ帰ってこなくても大丈夫だよ。後は自分でなんとかするし。分かんないことがあったら、はーちゃんとかしーちゃんにも聞けるから」

 桃たちはあたしを見下ろした。

「そう?」

「うん。ゆっくりしておいでよ。どうせ今すぐどうこうってもんでもないし……」

 桃はもう一度いっちーを見る。

彼女はうなずいた。

「じゃ、そうさせてもらおうかな」

「お疲れさま」

 あたしはそんな桃たちに、笑ってみせる。

「また明日ね」

 彼らが教室を出て、開け放されたままの扉の向こうに見えなくなった。

放課後の教室はいつもの賑やかさを保っていて、世界はとてつもなく平和だ。

「さてと」

 そう言って振り返る。

そんなことでも声に出して言わないと、あたしには振り返ることすら出来ない。

さっき桃たちに言ったのと同じセリフを、また言わなくちゃならない。

「あのさぁ、みんなも、何か他に用事とかあるんだったら……」

「なに言ってんの」

 くしゃくしゃに伸びた髪の一部を、頭のてっぺんでちょこんと結んでいる。

さーちゃんだ。

「全く。スタート前から巻き込まれて、後始末までやらされてるこっちの身にもなってよね」

「やっぱ面倒くさいと思ってんじゃん!」

「そりゃそうでしょ」

 涙目のあたしに、さーちゃんは結んだ頭をポリポリと掻く。

「だからこそ、ちゃんと落とし前はつけないとね。一緒にさ。ももは自分だけで勝手に終わらせるつもりだったの? 巻き込んどいて」

 いっちーはあたしの前に座った。

「ねぇ、もも」

 彼女はじっとあたしの顔をのぞき込む。

右手を差し出した。

「握手しよう。私はももに誤解されたままで、このまま嫌われたくない」

「嫌ってない、嫌ってなんかないよ!」

 すぐにそう叫ぶ。

すぐにそう叫ぶことは出来ても、だけど、素直にその手は握れない。

「違うの……。本当は、ちょっとさみしくなっただけ……」

「うん。私もだよ、もも」

 その、まっすぐにあたしに伸ばされる手は、いっちー自身の手であって、あたしの手ではない。

そんな当たり前のことにまで、ヘンな違和感があって困る。

 仲間なんかいらない! 

……なんて、1ミリも思ったことはないと言えば、嘘になる。

だけど結局は、戦うのは自分自身だから、何かに期待なんてしちゃいけないんだ。

自分のことは自分でする。

当たり前にそうしなきゃいけない。

そんな当然の事実に、あたしはただきっと、ちょっぴり寂しくなっただけ。

 なかなかつなごうとはしないあたしに、いっちーの手はだらりと垂れ下がる。

元の位置に戻った。

「で、どうするの」

 机に座るさーちゃんは、そこで片膝を立てた。

盛大なため息を漏らす。

「この書類見せてもらったけど、廃部はさけられないよね」

 キジもため息をつく。

「『鬼退治』という行為自体が、この世から消滅するんだもん」

「やっぱり、廃部しかないってこと?」

 いっちーは何も言わないまま、細木から渡された書類に視線を落とした。

握れなかった彼女の手が、涙でにじむ。

「ねぇ、あたしはやっぱり、ダメな人間なのかな。何をやっても上手く出来ない、何にもならない、くだらなくて、面倒くさいだけの奴なのかな」

 どれだけ頑張ったところで出来ることは何にもなくて、色んな人に迷惑かけて、何にもならないのだったら、そんなの最初から何もしない方がよかった。

「……。そんなこと、肝心のももが言わないでよ」

 さーちゃんがうつむいている。

「だって、本当のことだし」

「じゃあなんで、鬼退治なんて始めようと思ったの」

「それは……。それは、あたしはただ、自分が……」

 自分が、負けていると思いたくなかったから。

もう終わった人間なんだって、自分はお終いなんだって、自分で自分をそう思いたくなかった。

「ももまでそんなこと言い出したら、これから誰が鬼退治するの?」

 さーちゃんは自分の両膝を抱えると、そこに顔を埋めた。

「どうにもならなくて、何にもならなくて。どうにかしたくても、それでも何にも出来なくて、だけどなにかしなくちゃって、自分はこのままじゃいられないって、そうだからじゃないの?」

 さーちゃんの顔が、スカートの膝に埋もれて半分しか見えない。

「そんなふうに思うのは、みんな同じだから……」

「大丈夫よ、もも」

 いっちーの額が、ふいにあたしの額に合わさった。

「最初に約束したじゃない。何もかも全部、鬼退治のためのことだって、お互いに信じるんだって」

 いっちーの髪からは、相変わらずいい匂いがする。

「私はずっと、そうだと思ってたよ」

「そうだよ。そう思ってるのは、ももだけじゃないんだから」

 キジがあたしの隣に座った。

「私はももが、好きだから。大丈夫、まだなんにも終わってないよ」

 あたしは……。

あたしの傷が、鬼につけられたこの腕の傷がうずくから。

その痛みに負けそうで、だけどもうとっくに負けてることに気づいて、だけどずっとそれを認めたくなくて……。

「ご……、ゴメなさい……」

「なんでももが謝るの?」

 泣きだしたあたしに、さーちゃんは笑った。

「まだ負けてないし」

 彼女の笑顔が肩にのる。

「ももは自分で負けたとか思ってるかもしれないけど、私はまだ、ももは負けてるなんて思ってないよ」

「そうなのかな?」

「そうだよ」

 見上げたさーちゃんの顔は笑っていたけど、その笑顔の裏に不安があることを、あたしはなんとなく知っている。

あたしだっていつだって笑ってるけど、本当はずっと不安で自信なんてなくて、ずっとずっと怖かった。

「ねぇ、あのさぁ……」

 突然の悲鳴。

校庭の方からだ。

その鼓膜を切り裂くような叫びに、あたしたちは顔を見合わせた。

飛びついた窓から身を乗り出す。

 視界に入ったその光景に、息を飲んだ。

舞い上がる砂埃と駆け出す悲鳴。

毛むくじゃらの足と太い腕、鱗で覆われたような体に、短い二本の角が生えている。

守られていたはずの校内に、その姿はあった。

3メートルはあるだろうその高さから腕を振るうと、天に向かって雄叫びを上げた。

「……鬼だ」

「行こう」

 教室を飛び出す。

非常ベルは鳴り響き、避難指示のアナウンスが流れる。

あたしは腰のこん棒を抜いた。

 飛び込んだ校庭の空気が震えている。

まとう瘴気で息が苦しい。

こん棒を握る手に、汗が滲んだ。

「どっから来たのよ。今すぐ出て行きなさい!」

 言葉なんて通じるはずもないのに、鬼はあたしを見てニヤリと笑った。

振り下ろされた腕に飛び退く。

鋭く尖った爪は空気を切り裂き、その風圧で倒されまいと、足を踏ん張っているだけでやっとだ。

「どこを狙う? 弱点とかあったっけ」

 そう言ったさーちゃんの方に、鬼の顔は向いた。

「そんなのはない!」

 背を向けた鬼に、いっちーはこん棒を振り下ろした。

それが背に打ち付けられる前に、鬼の手はこん棒をつかむ。

「危ない!」

 キジが踏み込んだ。

鬼の腕にこん棒を叩きつける。

振り返った鬼は、キジに拳を打ち落とした。

あたしはその腹に向かって思いっきりこん棒を打ち込む。

鬼の動きが止まった。

「もも、ナイス!」

 さーちゃんが高く飛び上がった。

鬼の肩に会心の一撃。

鬼の叫びが校庭にとどろく。

「気をつけて!」

 動きが変わった。

雄叫びと共に、瘴気が強く沸き立つ。

振り下ろす腕の動きが格段に速くなった。

うなり声は地面に響く。

その風圧だけで吹き飛ばされる。

握りしめた拳が、あたしの頭上に振り下ろされた。

「もも!」

 真横に構えたこん棒で、それを受け止めたのは堀川だった。

「あんたたち、本当にまともな訓練してた?」

 ギリギリと押しつけられるそれに、今にもこん棒は折れそうにしなる。

「小田先生考案の瑶林高校鬼退治部、必勝フォーメーションがあったでしょ」

 堀川の目は、あたしを見下ろした。

「まさか知らないの?」

 堀川が鬼を蹴飛ばす。

あたしは立ち上がった。

「ラッキーイチゴフォーメーション!」

 その声に、いっちーとさーちゃん、キジが動いた。

「つーか、なんでこんなクソダサい名前なんだよ」

 堀川はその菱形になった体系に、満足したように口の端を持ち上げる。

「あら、分かってるじゃない」

 そのこん棒を一振りする。

「小田っち、かわいいのが好きなんだよ」

 取り囲んだあたしたちを、鬼は見回している。

背を向けた瞬間、堀川は叩きつけた。

「それはあたしの役!」

「あはは、じゃあ私より先に動きなさい!」

 ラッキーイチゴフォーメーションとは、イチゴのヘタ部分に当たる人間をリーダーとして動く。

菱形でヘタでイチゴとか、そんな細かいことは気にしない。

「あたしと先生はチェリーで。3人はあたしに合わせてイチゴ続行!」

 堀川と鬼の動きに合わせて、交互に打ち込む。

チェリーとは二人組のコンビネーションのこと。

イチゴの菱形は鬼を中央にして、近距離からの攻撃と、それをサポートする後衛とに分かれた攻撃パターン。

鬼退治の基本は、仕留めることより自分たちが傷つかず撃退させること。

二人組で巡回するから、ペアでの攻撃が基本だ。

 鬼はキジを振り返った。

振り下ろされた拳は地面にめり込む。

その衝撃に、キジの態勢が崩れた。

「キジ!」

 鬼の足が踏みつける。

飛び込んだのは金太郎だった。

滑り込んだ金太郎は、彼女の持っていたこん棒を掲げる。

それはミシッと嫌な音を立てた。

「離れろ!」

 さーちゃんが鬼の足を下から蹴り上げる。

彼女はこん棒を投げ捨てた。

「ゴメンね。こん棒使い慣れてないから。直接行く」

「それは無謀だ」

 転がったこん棒を拾い上げたのは、浦島だ。

「鬼に直接触れるのは危険だ。お前は平気でも俺が耐えられない」

「刀はやっぱ返してきちゃったの?」

 桃はいっちーの隣で、自分のこん棒を構える。

「うん。まだこっちは持っていてよかった」

「タイミング悪すぎ」

 堀川はそう言ったけど、そんなことをいま嘆いていても仕方ない。

鬼は好き勝手に暴れている。

さーちゃんが跳び上がった。

蹴りを決める直前に、その足を掴まれる。

打ち込んだ浦島のこん棒が折れた。

転げ落ちたさーちゃんの前に、いっちーが立ち塞がる。

キジは両手にバレエ部の扇子を広げた。

「これ以上、あんたの好きにはさせない!」

 キジの扇子が宙を舞う。

目元を狙ったそれは、簡単にたたき落とされた。

桃がこん棒で死角から叩きつける。

鬼はそれを奪いとると、真っ二つにたたき割った。

「お待たせしましたー!」

 その声に振り返る。

細木が何か抱えて走ってきた。

「学長室から学校保管の刀を見つけてきました!」

「もも、後ろ!」

 鬼の振り下ろす拳からの爆風で、吹き飛ばされる。

「伏せろ!」

 細木が刀を抜いた。

「お前らは下がってろ」

 細木は慎重に刀を構える。

それを見た鬼は、初めて後ずさった。

ジリジリと間合いを詰める細木に、空気が張り詰める。

細木の足が動いた。

次の瞬間、刀は鬼の腹にブスリと突き刺さる。

「うおぉぉぉっ!」

 その刀をつかんだまま、細木はその腹を真横に切り裂こうとしてるけど、何一つ動けずにいる。

鱗が硬すぎるんだ。

「危ない!」

 鬼の拳が落ちるよりも早く、桃は細木に飛びついた。

その拳の下からかろうじて救い出す。

鬼は自分の腹に突き刺さった刀を見下ろすと、ニヤリとその口元を歪めた。

毛むくじゃらの手が、それには小さすぎる柄に伸びる。

ゆっくりと抜き取った。

刀を手にした鬼は、ブンブンと振り回す。

「悪いけど、それは返してもらうわよ」

 動いた鬼の腹から体液が噴き出した。

堀川は鬼の手元を狙う。

弾き飛ばされた刀は、空高く舞い上がった。

「もも!」

 あたしは空を見上げた。

キラリと輝くそれに向かって、走り出す。

「あんたの相手はこっちよ!」

 動き出した鬼とあたしの間に、いっちーが間に割り込んだ。

怒涛のように繰り出される鬼からの拳に、いっちーのこん棒は呼応する。

あたしは高く飛び上がった。

空中で回転するその柄を、しっかりとつかみ取る。

「きゃあ!」

 いっちーの悲鳴だ。

あたしは刀を手に、鬼の前に立つ。

「あんたの相手はあたしよ」

 刀を構える。腕の傷がうずいた。

これはあの時と同じ鬼?

「まぁそんなこと、どっちだっていいけどね!」

 動きはずっと見ていたから、だいたい分かる。

あたしは腰をかがめると、低い姿勢から懐に滑り込んだ。

鬼の左手首を切り落とす。

瞬間、咆吼が耳につんざいた。

すかさずその肩に斬りつけようとして、硬い鱗に弾かれる。

鬼の醜い手が、あたしを掴もうと迫った。

「くそっ」

 刀で弾き返す。

剥がれ落ちた鱗が頬を切りつけた。

斬られた手首があたしを殴る。

足元は鬼から漏れ出す体液であふれていた。

吹き飛ばされたあたしの上に、細木が覆い被さる。

「先生!」

 蹴り上げられた細木は、地面に叩きつけられた。

鬼は体液の流れ続ける腹を押さえると、禍々しい目でにらみつける。

あたしは刀を握りしめた。

「さっさと消えろ!」

 鬼の拳が宙を舞う。

細木の突き刺した傷痕の、ボロボロと鱗の剥がれ落ちたその場所を狙い、真横に切りつけた。

激しい怒号とともに、どす黒いしぶきが噴き出す。

鬼の吐き出す瘴気に、衰えがみえ始めた。

そこに立ちすくみ、あたしを見下ろす。

「コ レ デ オ ワ リ ダ ト オ モ ウ ナ ヨ」

 低いうなり声は、直接脳に響いた。

とたんに瘴気の渦が襲いかかる。

「うわぁっ!」

 目を開いた時、もうその姿は見えなくなっていた。

「……。消えたの?」

「どうやらそうみたいね」

 堀川は構えていたこん棒を下ろす。

「細木先生!」

 あたしはその側に駆け寄った。

地面にうずくまる肩に手を触れる。

細木は自分で仰向けにひっくり返った。

「……鬼は?」

「いっちゃった」

「お前がやったのか?」

 細木の手が伸びる。

あたしはそれをしっかりとつかみ取ると、うなずいた。

「そっか。頑張ったな」

「先生が、刀を持ってきてくれたからだよ」

 あたしの手とその刀には、まだ鬼の体液が滴り落ちる。

「これ、先生に返す」

 それを見た細木は、安心したように微笑んだ。

「鬼はいなくなったと世間では言われていても、実際にはいるんだ。たとえ姿が見えなくても、確実にそこに残っている。それは間違いないんだ」

 細木はあたしを見上げた。

「お前には『傷』があるんだろ? 実は俺にもあるんだ」

 あたしの目から、涙が勝手に流れ落ちた。

「お前の傷も、俺の傷も、たとえ鬼はいなくなったとしても、決して消えることはないし、忘れることもない。たとえ薄れてゆくことはあっても、そのうえでどうするのかは、お前次第だ。それでいいんじゃないのか」

 細木の手が、刀を掴むあたしの手を握りしめた。

「この刀はお前が持っておけ。それでいいですよね、堀川先生」

 堀川はうなずいた。

サイレンの音が遠くに響く。

小田先生が警察官と救急隊員を連れて走って来ていた。

堀川はパンパンと手を叩く。

「さ、怪我人を運ぶわよ。細木先生と犬山さんだけで大丈夫かしら?」

 あたしはいっちーを振り返った。

「いっちー!」

 駆け寄って抱きつく。

いっちーはあたしが抱きしめるのと同じくらい強く、あたしを抱きしめた。

「大丈夫?」

 彼女はにっこりと微笑む。

「うん。ももは平気?」

「あたしのことは気にしないで……」

 いっちーは苦しそうに表情を歪め、目を閉じた。息も荒い。

「いっちー、ゴメンなさい。本当にゴメンなさい!」

「なにがよ、もも」

 彼女はゆっくりと微笑む。

その温かい肩と体の重みに、また涙があふれ出す。

「変なもも。ももが無事でよかった」

 伸ばされた手を、今度はしっかりと握りしめる。

夜がゆっくりと辺りを包み始めていた。

泣きじゃくるあたしから引き離されたいっちーは、堀川先生に付き添われ、運ばれていく。

「もも。もう泣かないで」

「そうよ。こっちまで泣きそうになるじゃない」

 さーちゃんとキジはそう言って、だけどやっぱり泣いてたので、あたしたちは一緒に泣いた。

桃たち三人は後片付けをしてくれている。

学校はその後、一週間の休校を決めた。



第17章


 共学化と同時に植えられた桜の若木は、すっかり花を落としてしまった。

今は青くみずみずしい若葉を精一杯に広げている。

「おはよー」

 朝の風があたしの前髪を揺らした。

たった一つの唯一の門だったものが、今は正門と名前を変えている。

その重厚な扉と柱だけは、元の姿のまま残されていた。

変わらないその姿は、この学校の新しいシンボルだ。

柔らかなミルクティー色の背中が見えた。

「いっちー!」

 振り返った彼女に、そのまま飛びつく。

「もうよくなったの?」

「うん。そんなたいしたことなかったから」

「よかった」

「ももは?」

「あたしも平気だよ」

 変なの。

入院中も退院してからも、休校中だってずっとSNSで連絡取り合ってたのに、実際に会ってもまた同じ話をしている。

いっちーと目が合った。

一緒に笑い出す。

「おー! ももたちも早いね」

 その声に振り返る。

「え? さーちゃん?」

 肩まで伸ばしていた髪が、また元の丸坊主に戻っていた。

「伸ばすのやめたの?」

「いや、そうでもないんだけど、やっぱ一回この頭に慣れちゃうと、他の髪型出来ないんだよねー」

 そう言って、自分の頭を撫でる。

その隣でキジはため息をついた。

「知らない人が見たら、罰ゲームさせられてるみたいだから、私は嫌だって言ったんだけど」

「今だけだよ、きっと。こんなこと出来んのも」

 さーちゃんが笑う。

あたしはそんな彼女にも抱きついた。

「なになに? もも、急にどうした?」

「ううん。なんか急に、こうやってしたくなっただけ」

 こんどはキジ。

キジにも抱きついたら、呆れたように笑いながらも、やっぱり抱きしめてくれた。

久しぶりの学校は、それだけでなんだかドキドキする。

「で、本当にそうするの?」

 いっちーはあたしに尋ねた。

「うん。みんなで話し合ったでしょ」

 鬼退治部の部活用アカウントは、公開停止処分を受けたものの、中身は生きていた。

そこで作っていたグループで、この休校中もずっとやりとりをしていた。

あとはそれを実行に移すだけ。

いっちーはあたしを見てそっと微笑む。

そんな表情になぜか、あたしの方が照れちゃったりなんかしちゃったりして。

「なに?」

「ううん。何でもない」

 朝のホームルームが始まって、細木が教室に入ってきた。

いつものクソダサジャージも変わっていない。

何があったのか、噂でしか話しを聞いていなかった他の生徒たちが、心配して細木に群がっている。

一瞬そんな先生と目が合ったような気がしたけど、気にしない。

次の休み時間には、廊下で桃たちとも合流した。

「もも、刀はやっぱり学校に残すの?」

「うん。今はあたしが持つけどね。残しておくべきなのは、あたしじゃなくてこの場所だと思うから」

 自分のものにしてしまうのは簡単だけど、それを誰かに受け継いでいくことの方が、本当は難しいんだ。

あたしは受け取ったこの刀を、次に渡せるような人を見つけなければならない。

ちゃんと守り、育ててくれるような人を……。

「俺たちはもう返しちゃったけど」

 浦島がつぶやく。

「だけど、後悔はしてないよ」

「うん」

 あたしは浦島を見上げる。

「それでいいと思ってるよ」

 金太郎は浦島の肩に腕を置いた。

あたしをのぞき込む。

「で、細木先生はどうだった?」

「別に」

 チャイムが鳴った。

人の波が動き出す。

あたしは笑っている。

「昼休みに職員室来いって言われてる」

「そっか」

 桃もにっこりと微笑んだ。

「いってらっしゃい」

 退屈な授業も、しばらく離れてみたらそのありがたみが身にしみる。

窓から見下ろす壁のない風景にも、すっかり慣れてしまった。

目を閉じると、校庭で体育をしている声が聞こえる。

そんなのも心地良い。

昼休みがやって来て、あたしは職員室へと向かう。

「もも! 来たか、こっちだ」

 職員室でそんな大げさに手を振らなくっても、先生の席くらい知ってるってば。

「廃部の書類は揃った。これで大丈夫だ。問題ない。校長の許可もばっちり取れたぞ」

「凄いじゃん。頑張ったね」

 細木はあたしを見上げる。

フンと鼻息を鳴らした。

「まぁこれは、事前に決まってたからな。で、こっちが新しい書類」

 それを受け取って、目を通す。

びっしりと書き込まれた書類には、一カ所だけ空欄が残っていた。

細木は一つ、咳払いをする。

「そこを決めるのは、お前だと思って」

 細木は顔を真っ赤にした。

自分でその顔をクラス日誌で隠す。

「俺はお前たちが仲良くしてくれているのもうれしいし、こうやって色々やらしてくれるのもうれしいし、ちゃんと頼ってくれるのもうれしい」

 隠しきれていない耳とこめかみから顎にかけての部分が、本当に赤くて笑う。

「俺はずっと嫌われてると思ってたし、実際そうだったし、色々あったけど本当はずっと一緒に色々したかったし、これからもしたい」

 日誌の横からちらりとのぞき込む。

「……お前が、それでもいいって言ってくれるなら……」

 あたしは細木を見下ろす。

きっとこれまでのあたしだったら、何かもっと別の言葉を投げかけていたんだろうな。

「そうしてくれると、あたしもうれしい」

 細木の座っている椅子が、ガタリと大きな音を立てた。

一瞬立ち上がった細木は、またすぐ腰を下ろす。

「あ、もも。お昼ご飯はもうちゃんと食べたか? 時間大丈夫? ちょっとこれを見てほしいんだけどさ、あとで他のみんなとも相談しておいてほしいんだけど、体育科の倉庫に残ってる残りの備品と使えるかなんだけど、調べてみたら……」

 止まらないおしゃべりに、今度はあたしの方がどうしていいのか分からなくなってしまった。

「でね、俺はこっちもいいと思うんだけど、ももはどう思う? いや、もものしたいようにやってもらって全然いいんだけど。例えばね、こんなのもあって……」

「細木先生。もうその辺にしといたら」

 職員室で美顔器をコロコロ顔に当てている堀川が、割り込んできた。

「ふふ。全く。小田っち2号の完成だ」

「小田っち2号?」

 堀川はコロコロで細木を指さす。

「ずっと我慢してたのは知ってるけど、あんまり構い過ぎるとまた嫌がられるよ」

「えっ」

 そう言われた細木の顔は、みるみる青ざめてゆく。

「そ、そ……。んなことは……。あ、イヤ、何でもない」

 途端に大人しくなって横を向いた細木に、あたしはため息をつく。

「別にもう嫌いになんかならないよ。この書類は持っていくね。学校の掲示板、あれでよかった?」

 スマホを操作する。

事前に細木にチェックしてもらっていた、電子掲示板の画面を開いた。

「あぁ、いいよ。とってもよく出来てた。ももはこういうのも上手だったんだね。びっくりした。凄いよ」

「ならアップしとくね」

 あたしは細木と堀川を振り返る。

「じゃ、放課後ね。時間があったら来て」

 教室に戻って、一応は書類に目を通す。

グループメッセージで細木ともやりとりしてたから、まぁそのまんまだ。

何度も修正を加えたそれを、「公開」に設定した。

放課後になって、待ち構えていた桃たちと合流する。

「さっそくアップしてたね。見たよ」

 桃が笑った。

「細木からもらったか? ももがやると後で直すのが面倒くさいから、俺がやる」

 浦島はあたしから書類を奪いとる。

「お疲れさま。ようやくこれからが、本当の本番だね」

 金太郎の優雅に微笑む仕草に、あたしはニッと笑顔で返す。

「そうだよ。忙しくなると思うけど、みんなよろしくね」

 新しく借りた教室に、あたしたちは集まっていた。

「で、どうするの?」

 いっちーは頭を悩ませている。

「『鬼退治』ってのを、他の表現に変えるってことでしょ。鬼退治って、そもそもなに?」

 『鬼退治部』は廃部になったけど、あたしたちは廃部にはしなかった。

『鬼退治』という名称を変更して、新しい部を作ることにしたのだ。

それを皆で考えてる。

「じゃ、これでいいね」

 あたしは細木の残した最後の空欄に、その名前を書いた。

まだ正式認定されたわけじゃないから、(仮)だけど。

教室の扉が開いた。

「三年でも入部出来るって、本当?」

 中くらいのだ。

その後ろには丸いのと細いのもいる。

「俺たちさ、前の学校で部活入ってたんだけど、転校したからね。このまま卒業するのもさみしいなーと思ってて」

 その後ろからも、数人の女の子たちの姿が見えた。

「私たちもいいのかな」

「もちろん! 大歓迎だよ!」

 よかった。本当によかった。

気がつけば、入部希望者は一年だけじゃない。

あふれかえったにぎやかな教室の中で、あたしはうれしくなる。

中くらいのが近づいてきた。

「花田……な、ところでさ。お前、俺たちの名前ちゃんと覚えてる?」

「え? えぇっと……」

 ちらりと横を見る。

助けを求めたいっちーは、ただただ呆れた顔をした。

さーちゃんはニヤニヤとこっちを見ていて、キジは桃たちのところへ逃げ去る。

「わ、分かってるよ。同じクラスなんだもん」

 その中くらいのと目を合わせるけど、次の言葉なんて出てこない。

数少ない男子生徒だ。

もちろん覚えて……。

「俺は門馬」

 中くらいのが言った。

「で、こっちが五島で、こいつは石川」

「あはは、もちろん知ってたさ! 覚えてるっつーの」

 丸っこい五島くんはにこにこ笑って、細っこい石川くんはぺこりと頭を下げた。

「これからよろしく」

 プイと横を向いた中くらいの横顔は、少し赤らんでいるようにも見えた。

「学祭のときに、お前らを見たんだ。模擬戦してるとこ」

 中くらいの門馬が言った。

「俺たちも一緒に来てたんだよ」

「かっこよかった」

 丸い五島と細い石川も、そんなことを言う。

「おーい、もも! 入部届追加でもらってきて」

「了解!」

 あたしは教室を飛び出した。

階段を駆け下りる。

放課後の学校ほど、楽しい場所なんてない。

生徒会室では、はーちゃんとしーちゃんも引き継ぎの真っ最中だった。

入部届を受け取る。

「そんないっぱい入部希望者が来たんだ。よかったね」

「うん。あ、そうだ……」

 あたしは抱えていた小袋を差し出した。

「コレ、差し入れ。うちのママが焼いたクッキー」

「え? ももんちのケーキ屋さんの? いいの?」

「これから教室で、歓迎会するの。たくさん持って来てるから、大丈夫」

「ありがとう。みんなで食べるね」

 生徒会室を出て、急いで教室に戻る。

渡り廊下の向こう、フェンス越しにあの女の子の姿が見えた。

彼女はグッと親指を突き立てる。

『グッドラック。幸運を。君の歩む先に幸あれ』

あたしはそれに、同じように親指を突き出す。

もう少ししたら、細木と堀川、小田っちも教室に来るんだ。

あたしはもう、自分の気持ちに嘘をつかなくていい。

「みんなー! クッキー食べよう!」

 一緒に食べたそのクッキーは、甘い香りを辺りいっぱいに漂わせていた。

【完】


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