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私たちには選ぶ権利がある

突然ですが、質問です。

2つのグループに、不規則でうるさい雑音が流れている環境で、パズルと校正作業をやってもらいました。
片方のグループにはその雑音を消すことのできるスイッチを一人一人に渡し、もう1つのグループには渡しませんでした。
すると、スイッチを渡されたグループの方が、もう1つのグループの5倍のパズルを解き、校正の間違いもほんのわずかでした。

では、スイッチを渡されたグループの人たちは、実際にスイッチを押して雑音を消したでしょうか




答えはNo。
実際にスイッチを使って雑音を消した人はいなかったそうです。
つまり、環境はまったく同じ中でこれだけの結果の差が出たということ。「いつでも止めることができる」という意識の差が結果の差につながったといえます。
(トム・ピーターズ他「エクセレント・カンパニー」英治出版,P.25-26より)

私はこの結果がとても腑に落ちました。
私自身、仕事がつらくて限界を感じていた時に、「辞める」という選択肢が自分にはあるのだと気づいた瞬間から、少しだけ気持ちが楽になったという経験があります。実際に退職に向けて動き出したのはその半年後でしたが、選択肢があるのだと気づいただけで仕事に臨む気持ちに大きな変化があったことを覚えています。
その時すでにいろんな意味で限界で、体調にも影響が出ていたので、その時「辞める」という選択肢が浮かんでこなかったら、つぶれていたかもしれないとも思います。


「辞める」ことを推奨するわけではありません。継続できた方がいい面もたくさんありますし、「辞めた後の選択肢は無限にある」というほど楽観的でもない、「つらかったら辞めたらいいじゃん」と安易に言うつもりもありません。
ただ、選択肢を持ってあげてもいいのではないか、その選択肢を育てておいてあげることがいつか自分を助けてくれるかもしれない、とは思います。

私は基本的に「逃げる」ことに賛成です。自分が壊れてしまうくらいなら逃げた方がいい。根性が足りないとかなんとか言う人もいるかもしれませんが、じゃあそれで万が一壊れてしまったら責任とってくれるんですか!?と言ってやりたくなります。自分を大切にしてくれない人の言葉は無視していいと私は思っています(それが結構難しいのですが…)。


私たちには選ぶ権利がある。
会社を辞めることも、学校に行かないことも、離婚することも、いろんな選択肢があっていい。社会の無言の圧力で、そうしない方がいいと思わされているだけのこと。そこももっともっと変わっていってほしいと思いますし、その人の選んだ道が尊重される社会になってほしいと思います。


一方で、選ぶことは責任と隣り合わせです。だから、選んだ後に苦しくなることもある。私は結局その職場を辞めましたが、本当にあの選択がよかったのかと思うことはあります。つらい状況になればなるほど、その時の選択が間違っていたんじゃないかと思うこともありました。でも今は、その時の私にできる最善の選択だったと思っています。
自分の選択を背負っていかなければならないことがつらくなるときもあるかもしれません。でも、自分で選んだと思えるからこそ頑張れることもある。そして、つらくなったときに、誰かが寄り添ってくれる社会であってほしいと願っています。

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