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”助ける側”と”助けられる側”ではなくて

ずいぶん久しぶりの投稿となってしまいました。
大学院の課題に物理的にも精神的にも追われていて、何かをアウトプットする精神的余裕がありませんでした。余裕って大事です。

さて、久しぶりに書けそうなテーマが浮かんだので、逃がさないうちに言葉にしてみようと思います。


”誰かを助けたい”という思いを持っている人に出会うと、少しモヤモヤします。
その気持ちは高尚で尊いものだと思っていますし、誰かの力になろうとする人が増えていってほしいと心から思っています。
でも、たぶん、”誰かを助けたい”という気持ちの裏に、自分は”助ける側”だという意識があるような気がして、どこかひっかかるのではないかと思います。


私ももともと心理士を目指していた頃は、自分のようにつらい気持ちを抱えている人の支えになりたい、という気持ちがありました。
支援職を目指す人は、多かれ少なかれそんな動機なのではないかと思います。

仕事をはじめて干支がひとまわり以上した今では、そこまで大仰なことは自然と思わなくなりました。
もしかしたら誰かの役に立てるかもしれない、その人が力を発揮するのを支えられたらいいな、くらいの感覚。
むしろ、自分は何もしていなくて、相手の力があったからこんなに変わられて、すごいなぁ、くらいに思うことの方が多いのですが、それはそれで極端なので、今はフィフティフィフティだと思うようにしています。


人が出会うとき、そこには必ずお互いの存在が影響します。
相手に受け取る力があって、相手が受け取れるものを渡せたときにはじめていいコミュニケーションが生まれるのだと思います。
本来、どっちが上とか下とかないはず、対等であっていいはずです。


言い換えるならば、”自分の道を切り開く側”と”それを見守りサポートする側”というイメージでしょうか。
自分の思い通りに相手を動かそうとするのではなくて、相手が主体性を取り戻すためのサポートをできる人が一人でも多く支援の場にきてくださったら、やさしい世界にまた一歩近づけるような気がします。

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