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「障害」となっている事を、正確·丁寧に認識することが、成長の鍵 ~耳すまのこれから~

おはようございます。3連休のど真ん中です(・・・と書きだした日は7月17日)。
昨夜は、自分のアパートの部屋の掃除をひととおりやりました。
最近、暑い日が続いていて、全くやる気が起きず、週に1,2度のアパートの部屋全体の掃除すらままならない日が続いていました。
やっとできて、本当によかった・・・。
掃除は、「できている」「できていない」の基準が、非常に明確な行為です。
普段、仕事も清掃員なのですが、
しっかりと「プロの仕上がり」になっている場合と、
なんとなく「素人の仕上がり」になってしまっている場合があり、
その基準の感覚をしっかりともっているかどうか、ということは、
非常に大切だったりします。

一方で、このnoteサイト「女子サッカーに耳をすまして」の
ライター、兼、編集者として活動している私、
1周年経ってみたわけですが、
何をもってこのサイトが成功で、何をもってこのサイトは失敗なのか、
ということの判断が、実はとても曖昧です。
ということはつまり、ライターとして、ウェブサイト編集者として、
ド素人ということができるのかもしれないし、
そもそも清掃員の仕事のように、良い・悪いの基準を明確にすることが
難しかったり、その価値観自体がそもそもおかしかったりするのかもしれません。

このテーマを考えていく上で、
このウェブサイトの活動理念・信念はどこにあるのか、
ということを認識することは非常に重要な気がします。

活動理念はこちら↓

女子サッカーに関わってきた・関わっている・これから関わる、すべての人に敬意を表し、「ひとを尊重すること」が循環し広がっていくことを願い、様々な角度から語り合い、語り継ぐことを通して、女子サッカー環境を少しでも豊かにしていくことに寄与するための季刊ウェブマガジン。

 このnoteサイトを通じて、尊重・リスペクトが少しでも広がっていっているのであれば、それはサイトとして「成功」なのだろうし、どれだけビュー数が多かったりスキがついたりしていても、尊重・リスペクトが広まっていなかったり、むしろ低下させてしまっているのだとしたら、サイトとして「失敗」なんだと思います。

 掃除の話ばかりしてしまいますが、掃除にしたって、その根底にあるものは、尊重・リスペクトです。その空間・場を使っている人が気持ちよい時間を過ごすために、掃除という行為は存在しているわけです。人間の意識と言うものは、放っておけば、無意識に任せておけば、雑になっていくし、丁寧さに欠け、尊重が疎かになっていきます。「どうでもいい」「めんどくさい」「たいしたことではない」といった感覚に意識が支配され、場が、時間が、雑になっていきます。殺伐としていきます。「どうでもいい」「めんどくさい」「たいしたことではない」と思ってしまうことは、人間として、そんなにおかしいことではないのだと思います。非常に自然な感覚だと思います。しかし、そんな感覚に意識が支配され、その意識の中で作られた時間・場に身を置いて過ごしていると、気づけば「なんとなく嫌だな」「なんとなく居心地が悪いな」といった感情が湧いてきたりします。自然に任せていると、物事や人間の感性というものは、埃かぶってくるし、錆びついてくるし、老朽化してくるというのが自然の摂理なのだと思います。しかし、そうなってくると、自分自身の疎外にもつながるし、他者や物事にはもちろん丁寧な意識が行き届かず、結果として、何に対しても尊重・リスペクトできなくなってきます。

 自然に任せていたら、ありのままにただ任せていたら、流れにただ任せていたら、「尊重すること」「リスペクトすること」は「できない」。これはきっと真理だと思っています。かといって、何か特別なことをしなきゃいけない、とか、何かガムシャラに頑張らなきゃいけない、とかっていうのもなにか違う気がします。重要なことは、自分や、他者や、環境・場・時間・物事、そういった様々な「存在」を丁寧に感じ取り、変化があればその変化に気づき、その存在がどうしたら生きてくるか、ということを意識して過ごすことなのではないか?と思っています。それが、尊重・リスペクト、につながってくるのだろうと。

 ところで、少し話が変わりますが、「障害」という言葉があります。「障害者」という言葉もあり、昨今では、「障がい者」とか「障碍者」といった表記を見聞きすることも非常に多くなってきました。
 私の住むまち、さいたま市では、「障害のある方」という表現をしています。

 「障害者」という言葉は、「障害物」を連想させ、まるで、その人の存在自体が障害であるかのような誤解を招きやすいと私は感じていたので、このさいたま市の「障害のある方」という言い方は、これまでの関連の表現の中で一番ストレスが無いなと思いました。個人としての存在があり、「障害」
を抱えているという事実がある。このことを端的に伝えていて、しかも、人自体の存在と、障害とをきちんと区別した表現をしているので、ストレスが無いと感じました。

 さて、なぜ、尊重・リスペクトの話から、唐突に、「障害」の話に切り替えたのでしょうか。
 現代社会は・・・、というか、人類の長い歴史の中で、脈々と受け継がれてきた伝統、そこには、「尊重・リスペクト」の要素もあれば、「障害・課題・問題」の要素もあるのではないかと思っているからです。「伝統」という言葉を出すと、まるですべてが肯定され素晴らしい芸術や技術のことを連想しがちですが、現代社会を見渡せば、決して良いこと・素晴らしいことだけでなく、実に大きな問題・危機・危険性が沢山孕んでいるということも事実だと思いますし、そのような現代を導いてしまったこともまた、「伝統」だと私は認識しているのです。「伝統」を美化しすぎるのは非常に危険な感覚だと私は思っています。過去に蒔いた種、そしてその種の育て方、それが本当に問題がなかったのであれば、現代社会はもっともっと素晴らしい状況になっているはずです。蒔いた種や、育て方に、何かしらの障害・問題・課題があったからこそ、複雑で入り組んだ問題を抱えた現代社会を迎えてしまっているのであって、「昔はよかった」「今はけしからん」という短絡的な発想になってしまうのは思考停止としかいいようがないと思っています。過去から現在に至るまでの過程は地続きで、何か問題があったとしたら、それは唐突に生まれるということは非常に考えにくく、何かしらの過去の現象との因果関係があったはずなのです。

 「尊重」「リスペクト」を真に具現化するために、実は鍵を握っているのは、何が尊重・リスペクトの「障害」になっているのか、ということを、「丁寧に認識」することではないか?と私は考えています。

 このことを言いたいがために、前置きが非常に長くなってしまったわけです。

 成功とか失敗という言葉がこの世には存在しますが、あえて私が成功について語るならば、最も成功から遠ざかる唯一のことは、「事実として失敗しているのに成功していると思いこみ続けること」だと思っています。「失敗は成功のもと」ということわざがありますが、失敗をすることは、非常に大切なことだと思っていて、失敗を失敗と潔く認めることは、成功への一歩につながると思っています。しかし、失敗しているにも関わらず、うまくいっているように見せかける・成功しているような顔をすることに必死になる、といったことを続けていくと、どんどん事態は嘘くさくなり、失敗を隠蔽することにつながり、絶対に成長できない状況を生みだすと考えます。だからして、私は、積極的に失敗・障害・課題・問題といったネガティブなことを認知していくことに努めていくことが、唯一の成功(私にとっては、サイトを通じて尊重・リスペクトを広げ深めていくこと)への足掛かりだと思っているのです。もちろん、良い側面を認識することも重要です。物事には必ず両面あると思っています。良い側面を生かすためにも、その障害となっている要素がなんなのか、ということを、正確に、丁寧に、認識していくことは、これから、ますます大切になってくるでしょう。
 
 そこで、ここからは、サッカーを通じて「尊重」「リスペクト」が広がり深まっていくにあたり、日本サッカーや日本女子サッカーが抱えている障害って何なのか、ということを、私なりに気になっている観点を問題提起していきます。

日本サッカーが抱えている障害1 「包摂性」


 子どもたちのサッカー環境は今、本当に豊かになっているでしょうか?サッカーの話だけではないのかもしれませんが、子どもたちの学校と家庭以外の時間の多くが、「習い事」としてスケジュール化していることが非常に多いのではないか、と私は感じています。実際、どうなのでしょうか。サッカーの場も、必ずと言っていいほど、指導者と呼ばれる大人が存在していて、その大人たちが作る秩序の中で、子どもたちはサッカーをするということが、半ば当たり前になってきています。私はそのような「習い事」の場を否定したいわけではありません。しかし、学校と家庭以外の時間の過ごし方として、「習い事」以外の選択肢が無いのだとしたら、これはのちのち非常に大きな問題になってくるかもしれない、という危機感があります。私が小学生の頃も、習い事はありましたが、それ以上に、圧倒的に、「友達と自由に遊ぶ」時間が長かったです。自分の家や友達の家や、家の前や、児童館や、学校の校庭開放や・・・いろいろな場が自由な遊び場になっていて、基本的に大人は不介入の、子どもだけの世界でした。その当時はそれが当たり前だと思っていたけど、今振り返ってみると、何気なく自由に思いついたまま遊んだり、子ども同士で自由にコミュニケーションしたりする中から、きっと色々なことを学んだりしていたんじゃないかな、と思います。自由な遊び場で何が育つって、やっぱり「主体性」じゃないかと思います。何もかも大人が用意した秩序の中で行動する経験ばかり積んでしまったら、大人になっても、「誰かが常に何かを用意してくれることを期待する」という意識の習慣、感性が育ってしまうのではないでしょうか。子ども同士の自由な遊びの経験は何の成果もわかりやすい成功も生み出さないですが、将来的に、自分から何かを始める・創造する・気づく・コミュニケーションする、といったことが自然にできる力が身に着く気がするのです。このテーマに関連してTwitterでつぶやいたこともありました。

 自由なストリートサッカーのような場のことを、「ジョガボーラ」と呼ぶそうですが、日本社会の中で、習い事が普及する一方で、こうしたサッカーの遊び場がもう一度広まっていたら、面白い展開が待っているのではないか!?と思っています。現在WEリーグ理事でもある佐伯夕利子さんも、「誰もがサッカーを楽しめる場所」の重要性を訴えています。


日本サッカーが抱えている障害2 「ネガティブなメッセージと人格否定が結びついてしまっていること」

 近年、SNSの普及により、プロサッカー選手と一般人との距離感が非常に縮まってきました。ただ、残念なことに、匿名であることから気軽に誹謗中傷してしまう、リスペクトの精神が欠けたケースも見受けられるようです。厳しい指摘・問題点を指摘することは時に必要なことではあるかもしれませんが、必ずそこには相手に対するリスペクトの気持ちがこめられているべきです。ネガティブなことに言及すること自体は問題ないですが、そのことが、そのネガティブな現象に関係する人々の人格否定と結びついてしまっているとしたら、非常に問題です。ここをきちんと切り離していく感覚は、もうそろそろ当たり前になってほしいです。


日本サッカーが抱えている障害3 「パワハラ・セクハラ・無視(シカト)」

 さきほどもご紹介した佐伯さんは、Jリーグ理事時代に、ハラスメントとの決別宣言をnoteで執筆され、反響を呼びました。

 ここで述べられているような、パワハラ・セクハラ等は、わかりやすい言動として形跡が残りますが、「無視(シカト)」も、非常に卑怯なハラスメントだと私は考えています。相手がコミュニケーションしようとしているにもかかわらず、相手の存在をまるでないもののように扱う、という態度もまた、お手軽に相手を傷つけることができる、しかし、重大なハラスメント行為です。海外の事情はわかりませんが、日本社会の中で、実は非常に当たり前の風景として行われてしまっているハラスメントなのではないでしょうか。こういったハラスメントのことを、「サイレント・トリートメント」と呼ぶそうです。詳しいことは以下のリンクを読んでください。

日本サッカーが抱えている障害4 「コミュニケーションの質」

 東京五輪でサッカー男子日本代表の田中碧選手が言った言葉が非常に印象に残っています。

 さらに、田中は体感した世界との差について、「彼らはサッカーをしているけど、僕らは1対1をし続けている」と表現。いまだ手の届きそうで届かない格上の存在を、そう評した。

サッカーダイジェスト(下記リンク)より抜粋

 サッカーを知ること・理解することは、「全員が関わり合うこと」(コミュニケーション)を理解することと深く関わっていると思います。やはり、ここでも、尊重・リスペクトがキーワードです。誰か巧い人、特定のスター選手がなんとかしてくれる、リーダーがなんとかしてくれる、そういう発想の中では、サッカーを理解することの発展は見込めないのだと思います。「全員にこだわる」。この意識・感覚に、日本サッカーはまだ課題を抱えているのではないでしょうか。

日本女子サッカーが抱えている障害1 「サッカー活動の持続性の危うさ」

 ここからは女子サッカーの課題について考えていきます。男子と比べて、女子サッカーは、中学生年代のサッカー環境が乏しかったり、高校や大学を卒業して部活動でのサッカー活動が終わってしまうと、社会人としてサッカーを続けていく人が激減していく等、「サッカー活動の持続性の危うさ」の問題を抱えているのではないかと思います。

 耳すまでは、中学生年代の女子サッカー環境に関するテーマでインタビューを行いました。

 また、社会人女子サッカーチームの参加大会の様子をお伝えした記事も書きました。

 女子サッカーが豊かに発展していくにあたって、短期間に燃え尽きてしまうのではなく、生涯スポーツとして、サッカーを好きで続けられる環境づくりというのは非常に大切なテーマだと思っています。このテーマはこのサイトの根幹だと思っているので、今後も丁寧に追っていきたいと思っています。

日本女子サッカーが抱えている障害2 「興行・ビジネスとして成立させていくこと」

 2021年9月、WEリーグが開幕し、ファーストシーズンが終わりました。秋春制やウィンターブレイク等、これまでのサッカー界ではなかったシステムに戸惑いの声や批判の声もネット上では沢山見受けられました。中でも最も厳しい現実として突き付けられたのは、「観客数」でしょうか。コロナ禍ということもあり、なかなか集客が難しかった側面も間違いなくあったと思います。私はスポーツビジネスに詳しいわけではないので、このテーマについて多くを語ることはできませんが、ひとつ、ヒントになるような記事を発信できたのではないかと思います。

 Jリーグ開幕に熱狂し青春時代を過ごした世代(私自身もそうです)は、今、子育て真っ最中世代であることが非常に多いです。上の記事は、旧来の女子サッカー仲間が、たまたま寄稿してくれた記事なのですが、シンプルにサッカー観戦をする、というだけの行為が、子育てと連動することによって、いかに色々なことを考え工夫しながらやっていかないといけないのか、ということに気づかされる記事内容となっています。

 Jリーグのセレッソ大阪では、スタジアム内で託児サービスも併設する試みが始まっているようです。こうした取り組みが増え、スタジアムに色々な人が来やすく敷居の低い安全・安心・楽しく面白い場として認知されていけば、これまでのサッカー観戦の景色を変え、より発展していく可能性を秘めているのではないでしょうか。

 耳すまでは、観戦することの楽しさ・面白さ・工夫をこれからも様々な角度から発見し続け、気づいたことはどんどん発信していきたいと考えています。

まとめ

 掃除の話を皮切りに、「成功とは?」という問いかけ、「障害になっているものは何なのかを丁寧に認識することの大切さ」という観点の提示、そこから、「サッカーを通じて尊重・リスペクトを広げ深める」という理念を根底に据える耳すまから観た、「日本サッカーが抱えている障害」を4点、「日本女子サッカーが抱えている障害」を2点、挙げてきました。これらテーマに関する記事について、少しだけ初年度の耳すまで取り上げてきましたが、より一層内容を深めていけるよう、これから、抱えている障害を丁寧に認識しながら、理想のサッカー環境構築に向かって、努力していきたいと思っています。

 今回の記事を読み、何か思うところがあったり、テーマに関連してこんな面白い事例がある、といった情報提供、このテーマに関して寄稿したい!といった意欲的な想いがありましたら、是非、お気軽に下記までお問合せ・メッセージください!

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