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アルバムたちの行方

 ここ数年は月に1、2度くらいでどこかで誰かの片付けの手伝いをしている。内容を大まかに言えば要らない物を捨てる手伝いなわけだが、これがなかなか一筋縄では行かない。衣類から食器から本に、未整理のままため込まれた書類に文房具など書き出せば切りがない。中でも今回はずっと気になって仕方なかったアルバムの去就について思うところを書いてみた。

 さて、どこの家庭にもあるアルバム、今はデジカメや携帯の時代になって少しは減ったのかも知れない。アルバムにも色々あって、その人の赤ん坊の頃から小中学生、高校時代と徐々に少なくなって、結婚前にはまた増えて行く。結婚すると夫婦二人のものから子供中心のものへと様変わりしながら、段々と老いるに従って減って行く。仕舞には遺影に使う写真がないなんてことにもなる。何が悩ましいかと言うと、この子供らが巣立つあたりから諸問題が発生するのだ。

 まず、自身の幼少期のアルバムの処分時はいつなのか。卒業アルバムの保存期間はいつまでなのか。子供らの保育園の連絡ノートや小学校の絵画や作文たちは、もう捨ててもいいだろうに。かみさんの子供時分のアルバムもある。額に入ったままの記念写真やよく分からん賞状たち。保存期間や如何にと悩み続けて今に至る。

 一方では、震災や豪雨で一瞬にして思い出の品々を失くした大勢の人たちが居ることも知っている。にも拘らず、存在するが故に執着してしまうのは何故だろう。倉庫に段ボールに詰め込まれたアルバムたち、いつ見られるのだろうか。沢山の家の片付けを手伝う中で、残された人が片付けの指示を出すわけだけど、これが容赦ない。なんの躊躇いもなく、どんどんと処分の指示をして来る。いや、これはお母さんの若い頃の、これはお父さんの元気な頃のと、手伝う方が思う余地も無いほどに、過去の私的歴史遺産は処分されてしまう。著名人なら、これが若い頃の姿ですとか、この机で勉強していたとか、夫婦喧嘩をする度にこの書斎や倉庫に籠っていたとか言うこともあるだろうけど、私なんぞの市井のジジイの過には、何の価値もないことは十分に承知しているつもりだ。明日は我が身か、誰かの手を煩わす前に捨ててしまおう。でもなぁ。20230212

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