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ふれあい

 幼少期は散髪屋のお姉さん、少年期は歯医者の受付のお姉さん、青年期はスナックのお姉さん、その後、壮年から老年になって来ると、もうお姉さんなら誰でもいい。いや、おばちゃんでもいいかもしれん。なんの話をするのか忘れそうになってしまった。

 この歳になると女性とのふれあいの機会が極めて限定されてしまう。もちろんかみさんは論外、触れあいすぎるくらいにトイレで抱き合い、風呂では裸で抱き合いと日夜介護で触れ合っているもの。それでふれあいの話、中村雅俊のふれあいじゃなくて、私のふれあいに戻るけど、どこに限定されるかと言うと、スーパーやコンビニのレジのお姉さんやおばちゃんたちに収斂されて行く。レジを打つ間の1分に満たない時間、時には数10秒の間に交わす他愛もない会話がいい。まあ、殆どのスーパーでもコンビニでも会話なんてない。時代はしないでいい方向に動いている。平日、ほぼ毎日行くコンビニだけが、数年かけてやっと世間話から笑い話が出来るまでになった程度だ。だから尚更、お姉さんとのふれあいは極限にピンポイントに釣銭を渡される瞬間に極まって来る。

 コロナ禍の前はまだ良かった。釣銭を手渡しで渡してくれるだけでなく、中には下に手を添えてくれる笑顔のお姉さんが居た。包み渡しという技らしい。いや間違いなく存在していたのよ。あの時の添えられた手の温もりで、それまでの疲れが解けるような、心の中でニヤニヤと打ち震えたことも数知れず。今となってはいい思い出だ。

 ところが、コロナが日本中を席捲すると、この釣銭の受渡がトレイになり、マシンになり、そりゃもう味気ない色気ない面白くないのないない尽くしになってしまった。時代の奴はジジイの喜びまで奪おうと言うのかとまで悪態を浮きたくなる。

 そして、コロナが今年5月に5類に移行してから、再びレジのお姉さんたちの優しさが戻り始めた。分類するとトレイと無表情、トレイと笑顔、手のひらにそっと、手のひらにそっとと笑顔くらいになるだろうか。

 以上、何とも知れない浅い浅はかな考察で、我ながら情けない。誰もこんなことは思わないのだろうか。思っても出さないだけだよね。年を取ってもお姉さんがいい。これもかみさん読むんだ。馬鹿な亭主で申し訳ない。先に謝っておこう。ほら、中村雅俊mの「ぬくもりがほしいだけ」と歌っているよ。何か問題でも、「品位」ですか、そんなもの知らん。20230922

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