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川上弘美『どこから行っても遠い町』新潮文庫

川上弘美は一時はずいぶん読んだのに、最近のわたしの読書傾向では川上未映子に押され気味だ。がんばれ(わたしの中の)川上弘美。

この人の描く輪郭のぼやけたような人間像はやっぱりいいなと思う。平凡であり、ちょっと変わったところもある人間たちが、ゆるくつながりながら、ある町で生きている。中心になるのが「魚春」という魚屋で、ほかにも「ロマン」という喫茶店など。あの人がこの人と出会い、この人が別の人を思い出す。自分という人間も、きっと他人の人生に部分的に登場したり、瞬間的な記憶に残っているのだろうな、と思う。それを繰り返しながらいつか死んでいくのだろう。

「魚春」の店主の妻、真紀は別の男の元に走る(と書くと簡単な話のようだが、その背後には彼女なりの苦しみがある)が、あるとき心臓病であっけなく死んでしまう。その後はその別の男と夫がなんとなく魚屋のビルの中で一緒に暮らしている。最後の話は妻が語り手だが、実はもう彼女は死んでいるのだ。

「あたしが死んでから、もう二十年以上がたちます。

あたし、春田真紀という女が、今でもこうして生きているのは、平蔵さんと源二さんの記憶の中に、まだあたしがいるからです。」

残った二人の男が真紀のことを思い出す頻度はだんだん減るけれど、それでもときどき思い出す。

「あたしは、年々はかなくなります。」「可笑しい、のんびりしたような記憶ばかりが、残ってゆくようです。」「それでは、今のあたしは、ほんとうは、あたしじゃないのかしら。」

「いいえ。」

「やっぱりあたしは、あたしです。春田真紀という女。幸せだけの人生ではなかったけれど、そう不幸せでもなかった。死んでからも、ずっとあたしは生きつづけていて、そうだ、あの時あたしはああいうふうに考えていたのだったと、今までわからなかったことが、いまになって突然わかったりする。」

死者とは、切ない存在だ。こういう文章を読むと「(わたしの中の)川上弘美がんばれ」と思う。そして一番好きな『真鶴』をもう一度読んでみようかと思うのだ。

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