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白い湖と白いクジラ

山の奥の誰も知らないところに白い湖があった。
その湖に流れ込む川の上流に牧場があり、
余ったミルクを川に流すから湖が白くなったのだと
昔たった一人、湖の岸辺に住んでいた老人は思っていた。
だが実際には近くに牧場などなかった。
偶然迷い込んでその湖をみた旅人は
星の降るような明るい夜だったので
天の川が流れ込んでいるのだと思った。
だがそれは美しさの例えであった。
そしてすぐ立ち去ったその旅人は
その白い湖に住む大きな白いクジラには気づかなかった。
誰にも知られず、白いクジラは一人ぼっちで湖の中で暮らしていた。
満月の夜は白い湖の中まで月明かりが届くので
水面に浮かび上がって顔を突き出して月を見る。
ああ、美しい。
あそこまで行けないだろうか。
クジラはいつまでも顔を上げてそう思っていた。
もし誰かがクジラに願い事は有るか?と尋ねたらきっと
「月夜の空を泳ぎたい」
と答えるだろう。
今まで誰もクジラに話しかけるものなどなかったのだけれど。
もしもの話だ。
もしも、は世の中のどこにでも溢れている。
誰もの心の中にも溢れている
もしも、もしも、もしも…
もしも誰かが心で願うことが全部叶ってしまうとしたら?
あっ、と声をあげて困る人もいるだろう。
今、世の中なんて滅びてしまえ、と思ったばかりだった
どうしよう…と。
でも多分大丈夫。
逆にいつも世の中の平和と幸せを願っている人もいるから相殺されるから大丈夫。
叶って困るようなことは決して願ってはいけない。

でもとうとうクジラの願いの叶う時がきた。
穢れのない心の持ち主の願いは順番に叶えられている。
一人でミルク色の湖に住む寂しいクジラの
たった一つの願いが叶えられる順番がきたのだ。
それは冬の満月の夜だった。
湖だけでなくクジラだけでなく、雪に覆われた山も白かった。
雪雲が消えた満月の夜空は月の白い光が満ちていてやはり白かった。
いつものように水面から顔を出していたクジラは
水中にいるときと同じように
空中へ浮かんで行くのを感じたが疑問に思わなかった。
ただ気持ちいいと思った。
全身に触れる月光を含んだ冷たい空気が気持ちよかった。
白い湖から全身が出てしまうと体はますます軽くなり
雲のように軽くなり、
明るい夜空に雲のようにぷかりと浮かび、
満月を中心にして、ぐるぐる、ぐるぐる、空を泳いだ。
そしてやがて月へ向かって上がってゆき、
とうとう地上から見えなくなってしまった。
そして白いクジラのいなくなった湖は白くなくなり、
普通の暗い山あいの湖となり、
翌日には通りかかった旅人が見つけて近くにテントを張った。
旅人は食料を得ようと湖に釣り糸を垂れる。
魚は釣れない。
引き上げた釣り糸がきらきらと白く輝いていた。
なんだ、魚はいないのか。
つぶやいて旅人はテントを畳んでその湖を後にした。
今はその湖はどんな色をしているだろう。
クジラはどこまでのぼっていっただろう。
全てをみていた大きな木だけが知っている。
クジラが空からやってきて湖に落ちて
湖を白くした晩のことも、
うつらうつら思い出しながら眠っている。
今、クジラがどのへんを泳いでいるかも
うつらうつら夢に見て知っている。

(了)


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