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夜の気球に乗りませんか

僕は最終バスが行ってしまったあとのバス停のベンチに座っていた。バスを逃したのではない。最終バスから降りたけれど家に向かう気力がでなかったのだ。じっとりとした暑さに耐えかねてバス停にある自販機で飲み物を一本買って飲み干し、空になったペットボトルを握りしめて座っていた。

すると目の前の、もう車もほとんど通らない道路にふわっと気球が降りてきた。ほんとうは気球は火をもやすゴーッという音がするものだと思うけど、その気球は音もなくふわっと降りてきた。
だからこれはベンチで眠ってしまった僕が見ている夢なのだろうと分かった。気球の籠から人が身を乗り出して
「夜の気球に一緒に乗りませんか?」
と言ったとき、もう確実に夢なのだと分かった。その人はもう絶対に会うことのない、結婚してどこか遠い知らない町にいる、大好きな人だったから。
彼女は僕を知っているのか知らないのか、そんなことさえ判断が付かないような密やかなそぶりで無表情に近い微笑みで僕をいざなう。もちろん僕は立ち上がり、でも会いたくてたまらなかった人に誘われた幸福を気取られないように、そっとした動きでうなずいて素早くその気球に乗り込んだ。気球はすぐに浮かび上がった。

夢の気球だからなぜ浮かぶのか理由はいらない。どこにも気球に熱気を送る火は燃えていない。それなのに気球は高く高く浮かび上がり、町がよく見下ろせる高さで安定すると横に移動し始めた。
籠の中にはまるで観覧車のような向かい合わせの椅子が付いていた。彼女に座るように言われたので僕は彼女と向きあって座った。
空はひんやりして気持ちいい。夜の匂いがする空気に満たされている。さっきまではベンチに座っていても、蒸し暑くてどんよりした空気に地べたに押し付けられているような気がしていた。それが今は心地よい風に乗って大好きな人と二人で、暗くて明るい夜空に浮かんでいる。なんて良い夢なんだろう。こんな素敵な、彼女の出てくる夢をみたことがあっただろうか。そもそも彼女の夢を見たことがあっただろうか。
僕は思い切って彼女に話しかけてみる。
「ここの空気は気持ちいいね」
彼女はにっこりする。
「涼しくて幸せ」
僕は彼女の笑顔を見れて幸せだ、と心で思う。思ったつもりが口から出ていた。
「きみの笑顔が見れて僕は幸せです」
彼女ははずかしそうにまた笑う。
「あなたがそんなこというなんておかしい。きっと夢なのね」
あれ、彼女は僕のことを僕だと分かっているのか、と驚いた。
それは声には出なかったが顔に出たのだろう。
彼女がまた笑う。今度は楽しそうに。
「もちろん、あなただと分かって誘ったの」
胸がいっぱいになった。
好きだと言われた訳ではないが、そのくらい幸せな気持ちだった。
「この気球はどこまでいくのかしらね?いつまで飛んでいるのか…」
彼女は立ち上がり、籠のふちに手を添える。僕も立ち上がって彼女の横に立つ。本当の気球ならそんなことをしては危ないだろう。でも夢だから平気なのだ。
「月が近い」
彼女がのぼってきた月を見る。
「ほんとだね」
僕も月を見る。
一緒に月まで飛んでいけたら…息が苦しくなるだけか。
これもつい口に出していて彼女に笑われた。
笑われると嬉しい。
「夏の星座、知ってるのがある?」
彼女が聞くので真上を見上げて白鳥座と言おうとするが気球で見えない。
「私はほら、さそり座が分かる」
彼女は赤い星を指す。
いつか聞いた宮沢賢治の星めぐりの歌が口をついて出る。
あかいめだまのさそり…
「よく知ってるわね」
彼女はうれしそうに、
あおいめだまのこいぬ…とつぶやいた。

夢から覚めてバス停のベンチに座っていたことを思い出した。
蒸し暑さは少し和らいでいた。
僕は良い夢から覚めたとき特有の悲しさでうつむいていた。気を紛らわせるために手に握っていたペットボトルをじっと見た。ほのかに桜のような香りのする炭酸水だった。
「よい夢が見られる炭酸水」
とラベルに書かれていた。そういえば飲む前にチラッと見たのに全く無視していた。ただの宣伝文句だと思ったのだ。この自販機にこんなものいつも売っていただろうか?
僕は立ち上がり自販機をみた。たしかに売っている。もう一本買って帰ろう。同じもののボタンを押す。ごとっ。出てきたペットボトルを見る。同じものだ。
どうしよう、もう一本買ってしまおうか…
一瞬迷ったがさっきの夢の幸せな余韻が胸の片隅に揺れている。もう一本買うことにした。しかしもう買うことは出来なかった。売り切れが表示されていた。でも一本は買えた。
僕はだいぶ軽くなった足取りで家に向かった。
中身の入ったペットボトルを大切に手に持って。
僕は気がついていなかった。その飲み物の名前の横に小さく「叶う可能性のある」という文字が書かれていることを。
「叶う可能性のあるよい夢が見られる炭酸水」
それがその飲み物の名前だった。
それに気が付かないまま僕は
(そうだ、今度本当に気球に乗ってみよう。どこか気球の乗れるところに旅行に行こう。昔、気球に乗ってみたいと思っていたのにどうして忘れていたんだろう)
そんな風に考えながら夜中の道を歩いていた。

次の朝、バス停にはもう自販機などなかった。

(了)


*今日も絵を選んでから絵に合わせて考えて書きました。
みんなが、叶う可能性のある良い夢を見られますように。
もちろん私も✨ 
それか素敵な自販機が現れますように。

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