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生きるために創り続けるということ

スマホで誰でもクオリティの高い写真を撮れるようになった今、
良い写真に対する感動は薄れてきているように感じます。

私も、InstagramとかTwitterで「この写真綺麗!」っていいねすることはあっても、
写真家の作品を追ったり、写真集を買ったりはしてきませんでした。

ですが、「これはすごい....!」っていう写真家に出会ってしまいました。

(こちらで作品が見れます→http://www.vivianmaier.com/

写真にはどうしても撮影者と被写体という関係性があって、
「この空気感をそのまま撮りたい!」と思っても、自分の見たままを撮ることは難しい。

でも、ヴィヴィアン・マイヤーの写真は、構図や視点の巧妙さももちろんですが、
「見たままの感動をそのまま写真に保存」してる感じが強烈にあって、
写真に関心が薄かった私でも「なんじゃこりゃ!」っていう衝撃をうけました。

でも、彼女に関する情報はほとんどなく、『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』っていう映画があることは知ってたので観てみることに。
(Netflixで見れます!)

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なんと、ヴィヴィアン・マイヤーは生前ずっと乳母の仕事(乳母は社会的に低い階級)をしていて、写真については死後にたまたま遺品整理のオークションで発見されたものだったんだそうです。

彼女のことを色んな人にインタビューしていくのですが、みんな
「変わり者」と口をそろえて言う。 

しかも、彼女の私生活についてとか、出自とか、どんな写真を撮ってたかとかについて知る人は誰もいなくて、
あくまでも「乳母と雇用主」の関係を超えず、出てくるのは断片的な情報ばかり。

映画では、「彼女は何者か?」「なぜ誰にも見せない写真をあれだけ撮り続けたのか?」っていうことを究明しようとしていくのですが、
「これだ!」っていう解はでてなくて、分かったことはヴィヴィアンがとても閉じた性格で、生涯孤独で、社会とうまくなじめなかったということ。
(乳母としての勤め先も結構な頻度でクビになっていたみたい。)


なぜ誰にも見せない写真を、ずっと撮り続けていたのか。

それは単純に「生きていくため」だったのではないかと思います。

社会の中でうまく生きていけなかった彼女は、日常の中での「!」を共有できる相手がいなかったし、しようとしなかったのでしょう。
言葉でそれを表現するのも難しかったでしょうし。

写真に撮るという手段は、そんな誰にも言えない「!」を収集して世界を捉えるために、やらずにいられなかったことなのでしょう。

実は、現像して他者に見せようとしてた痕跡も合ったようなのですが、ヴィヴィアンは写真家として生きていくことはできなかった。
周囲は「変わり者の乳母」という記号でしか彼女を捉えなかった。

インターネットがあったらまた違ったかもしれませんが、友人もいない内向的な彼女は、乳母として生きる狭い世界から抜け出すことができなかったのです。

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芸術家(と認められていない人でも)が創作活動をする理由は、言葉で説明できるものではありません。

ヴィヴィアンのように、「これをやらずにいられない」という本能みたいなものが彼らを駆りたてる。

それが無ければ、「道端で見知らぬ人の写真を突然撮る」みたいな行為をやろうとは誰も思わないだろうし、続かない。

そういうある種の狂気的なものが芸術を生むのだろうけど、それが評価されなければ、狂気として社会から疎外されてしまう。

この世界にはヴィヴィアンのような埋もれた「芸術家」がどれだけいるのだろう。

ネットで発信しやすい時代になったとはいえ、狂気を抱えた「創るもの」の宿命はずっとあるよなぁ、ということを感じたのでした。
それが良い悪いということではなく、事実として。


彼女は自分の写真も残しています。
本当は何を考えて生きていたんだろう。

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