「ケアの倫理」考えるフォーラム(新聞記事)に意を唱える

新聞記事より

ケアの倫理を提唱したギリガンは、著書『もうひとつの声で』において、個人の自立や権利を重視する「正義の倫理」に対し、人間関係のなかで他者のニーズに応えようとする声を「ケアの倫理」と名付け、その重要性を唱えた。女性たちの声を拾いあげたこの著書は大きな反響を呼ぶ一方、男女を決めつけるものとして批判もされた。その後、ギリガンは、「ケアの倫理」は「人間の倫理」と主張。

主張①
「ケアの倫理」は「フェミニズム」の倫理である。単に「人間の倫理」として理解されてしまうのを危惧。
抑圧の中で人々が挙げてきた抵抗の声に再び蓋をしかねない。

主張②
「ケアの倫理」は「近代の正統的な論理思考」である「正義の倫理」に対する異議申し立てとし、両者の対立や緊張のなかに「この思想の生命があるのではないか」。
「唯一選択すべき人間の倫理」とすることはケアの倫理にとってはたしてよいことなのか?

現状の考察
①注目を集める背景に人々の分断や序列化があると考察

②政治家の答弁などで、消費され拡散されていることへの違和感。「寄り添う」など聞き心地の良い言葉で「規格化」されることで、この思想の核にある抵抗が失われる。

自分の希望
「ケアの倫理」は自己責任や経済至上主義に抵抗する、もうひとつの主張である。「ケアの倫理」は経済至上主義のなかで、無料もしくは安価につかえるものとされやすいが、相反するものである。
この倫理は、たくさんの倫理のうちの1つである。

寄り添うことや他者のニーズに応えようとすることは、性別を考慮する必要はなく、人間の個性。また、奉仕や自己犠牲ではない。人間関係で受けたり、与えたりするもの。

「誰もが声を持ち、話を聞いてもらい、敬意を持って接してもらうことは安心して生きることにつながる」かもしれないが、そうではないかもしれない。誰もが声を持とうとしてるわけではない現実もある。 

どんな社会になろうとも、自分に都合の良い社会にはならない。違和感は必ずある。「私の違和感」を上げていくのが「抵抗」であり、「ケアの倫理」もまた「抵抗」の一つである。
確かにいいように使われやすいので注意はいるなあ。


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