本を読んでいた時代があった〜「おふくろの味」幻想①

内容を書くのが難しい本である。

おふくろの味とか言って、たいした根拠もないのに、性別だけで料理しろとか掃除しろとか言ってくる輩に意趣返ししたいと本書を手に取った自分の考えが邪なものにも思えてくる。

おふくろの味は時間も空間も超えて、曖昧さをもちながら、意味を変え、変幻自在に人々の生活に絡んでくるのである。

まず、おふくろの味とはどうやってできてきたものなのか?

①地方から都市に働きにでたことによる故郷の味

②農村での地域固有性の再発見、商品化。

①と②の結びつき。

ここで注意しなければならないのは、料理は、誰が作っていたのか?である。お母さんがご飯を作るという姿やイメージが広く日本に定着するのは高度経済成長以降と考えられる。それまでは、状況に応じて臨機応変に家族の誰かが食事の準備をしたり、女中さんがやっていた。故郷の味=おふくろの味ではない。

野菜の歴史を見ていると、江戸時代以降に入っていたものが多く、それまでいったい何を食べてきたのだろう?と思うことがある。江戸時代以前の野菜だけでは、今の料理のほとんどは作れないのではないか?多くの人々にとって食料事情がよくないことは容易に想像でき、食事のバラエティと量は少なかったはずである。農業者の人口がほとんどを占めていたとすると、家事だけをする人間はあまりおらず、家族総出で働き、総出で料理するのも頷ける。(ここは私見)

地域の味は地域全体で作ったもので、母や女性が継承したものではない。

では、どのようにして味の担い手は女性であると、みなされるようになったのか?




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