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私が自己探求を続ける理由③─違和感の正体

私の中にあったもの(違和感)

このシリーズを書き始めてから、どんどん「うつ」が表面化してしまい実生活に支障をきたすほどになった。いやはや。今メンタルが安定期にあるから、と高を括って書き始めたのにまるで誤算だった。だけど続けたからこその成果はあったと思う。

↓前の記事

①は外面的な違いの要素を子供時代から振り返って書いた。②は、アダルトチルドレンとして苦しみながら生きた二十代の出来事を中心に内面的な要素としての違和感を書いた。今回の③はその違和感の「核」となる部分をいよいよ炙り出そうと思う。

先回の②で、問題に対してどんなことを考えてどんなふうに対処してきたか、具体例を書いてみた。そこから特質や特性のようなものを抜き出してみる。どんな力がそこに働いていたのか? できるだけ人間の本質的な力の部分としてまとめる。

違和感の中身(=困難を乗り越えさせてくれた力)

❶俯瞰する力 
メタ認知、メタ思考のことといっていいと思う。抽象化思考ともいえる。自分の意識を神のように高く広い世界に置き、そこから小さな自分を見てみる。これをすると色んな要素に気づけるようになる。別の言い方をすれば主観を遠ざけ、客観からものを見る。これは何かを正しく推論する際の基本中の基本姿勢だ。誰でも持っているが、どの辺まで抽象度を上げられるかその程度は人によって様々。この俯瞰力の強さのこと。

❷想像する力 
ここではないどこかに意識を飛ばす力のこと。少なくとも私の中での定義はそう。主に二つある。

─ ① 空想や妄想
空想といっても、実生活にのっとった「こうしたい、ああなればいい」のような願望や夢のことではない。私の場合は、パラレルワールドのように(意識内の異空間に)存在している別世界のこと。これは日頃から世界観を作り込んでおくのがコツ。というか、この別世界を感じる感覚がリアルでないと、本当に困難な場面では使い物にもならない。とにかくリアル感がものをいう。ビジュアル脳が働くゆえの産物か?

─ ② 未来へのビジョン
時間が未来へ向けて流れていくというより、未来から時間が流れてくるような感覚に近い。ベルトコンベアーで遠い所にある物が自分の位置まで段々近づいてくるのを待っている時のような感覚。まだずっと先にあるけど、将来幸せと喜びに笑い転げている自分の姿がありありと見える。この〝ありあり感〟がポイント。そこが人生のゴールだと強く信じている自分を、意識で強く確認してみる。一生懸命考えるような類のものではなく「直感」なので、それを持つ自分を素直に認めるだけでいい。心理学的に言えばレジリエンスの強さ(気分をポジティブ方向へ回復する力、精神のしなやかさ)にも通じているように思える。

❸善を愛する心
実はこれこそ何より重要な力だと信じている。生まれつき持つ良心という「心の物差し」みたいなもの。生得的に有る常に心が『善』へと向いている感覚のこと。教えられなくても元々備わっている根源的な力。方位磁石の針が常に北を指すように、善がどこかわかっている。これは❶から❻まで他の力を縁の下で支えている。マグマの熱のように力強く燃えている。平和を想う強い気持ち、人の尊厳を守りたいと願う気持ち、弱者が「自分は尊重されている」と感じとれるような世界でありたい、という気持ち。それの深さを感じとり、活かそうという姿勢。

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『善』ってなんだろう?
良い、正しい、とは違う。正義ともかなり違う。
正義感の強さや信念の強さは、歴史上人を助ける一方で人の命を奪い傷つけてもきた。でも良心や道徳心に基づく善なる願いは、無闇に他人の権利を侵害しない。良し悪しは一定の条件下での判断基準にすぎないが、善か悪かは人間としてどうかの問題だ。鋭い倫理観により導かれる人間の本質的な特性ではないだろうか。この世には人それぞれの正義、社会ごとの正義がある。正義とは夜空に数多輝く星たちのよう、善はただ一つ在る太陽のよう、そう思うときがある。
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❹美への感受性
哲学や数学などに潜む、言語で表された抽象概念の美しさ。自然界の複雑、繊細、豊かな彩り。人が創り出す芸術的表現の情緒的奥深さ。宇宙の法則や秩序、脳の物理的構造的美しさ。人が感受し得る美の量の多さに圧倒される想い、それを求める欲求のこと。

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「美」には少なくとも二つの意味があると思う。構造的な美(抽象概念の中に存在する美)、具象としての美(実世界に表現された具体的で詳細な美)。人間の精神構造の深層部分に『美』という観念があること、人が生得的に美の黄金率を知っていることの不思議をいつも思う。……(以前も書いたが)『美こそが真実であり、真実は美である。これこそ世の人が地上で知るすべてであり、また知るべきすべてである』と表現した英国の古い詩人も、それを想っていたのだろうか。
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❺知的好奇心
量だけでいうとこれが最大。この世に残酷さと美しさが共存し得る理由。人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ人間の大脳はここまで肥大化して強い自意識を生み出したのか。なぜ前頭前野は神という幻影を創り出すのか。脳と身体の厳密な境目はあるか。科学とは何か、愛とは何か。幸福の追求と真実の追求が撞着する問題をどう扱うか。苦悩する自意識の最適な処し方。……諸々。解き明かしたい謎、出したい答えが無限にあることを知り、この世の真理と原理を解き明かしたい欲求の強さを知る。

❻創造力
ゼロから何かを生み出したいという欲求、ほとんど生きる意味に近いもの。創り出さないと「ちゃんと生きた」ことにならないから。皆と同じは嫌、独自の道を行きたい、作られたものを楽しむのでなく自ら作りたい、問題に正面から当たって正しい答えを出すのでなく、自分なりの新たな道を切り拓いてみたい。この欲求の強さと能力のこと。

もっとあるのかもしれないし、もっと突き詰めた表現を使って数を絞れるのかもしれない。今はここまでしかできなかった。これらを『A』とする。


これらは心にある武器であり、これらがどん詰まりの問題を乗り越えていく方法やモチベーションを私の内面に創り上げてくれたと思う。歩むべき新しい道を創ってくれた。その道を往くのは簡単ではないけれど、これのおかげで今こうして振り返ってまとめられている。これらがなければ、私も素直な心や前向きな心構えや希望や目的などを見失っていたと思う。……親戚や知人には実際に命を断った人が複数人いる。だから、これは大げさなことなんかじゃ全然ない。

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一方世の中には、困難を根性論で乗り越えてしまう人達もいる。その人達にあるのは『繊細さ』ではなく『鈍感さ』というまた別の強さだと思う。気合いと根性で跳ね返す、一晩寝たら忘れる、深く考えない、今に集中して生きる、など。彼らには彼らなりの生き方があり美学があると思う。学ぶべき部分も多いけど、自己分析においては、また別の人種だとしか言えない。
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壁は扉だったのだ!(一段上の道へ)

道の先で苦難や逆境という「壁」にぶち当たる。いくつかの選択肢が見える。悩む。激しい情動が起き、もがき苦しむ。壁を自力でぶち壊そうとする。そのとき閃きが起きる。(ユリイカ!みたいなものかな。)なんと「壁」だと思っていたものは「扉」だったことに気づく。扉を開けて登っていくと見える世界の景色はもう以前のものとはまったく違う。世界の事象を受け止める知覚フィルターが上位互換された感覚。(認知のパラダイムシフト)

『A』をたくさん持っていれば、赤い道(人格的に一段上の道)へ往けるはず。行く人と行かない人の間には精神上の大きな壁ができる。私はそれをとても敏感に感じ取ってしまうという話。


これが人生の節々でたくさん起き、それはあたかも平面の道がどんどん立体構造になっていくような感じである。……こんな面倒くさい記事をわざわざ読んでくれるような方なら、多かれ少なかれ経験があると思うのでわかって頂けると思う。❶から❻(※)は、これを成し遂げてくれる根底にある力のことだと思っている。

※HSP的にいえば、❷❹は、HSPならではの特性SPS因子(感覚処理感受性)に関わっているはず。また、❸は共感力の本質部分だ。❺❻はHSS因子(刺激追求性)と強く関連があるはず。❶は論理思考(ロジカルシンキング)と発散思考(アブダクション、アナロジー)を掛け合わせた、『推論思考』の基本構造であり脳の癖(圧?)みたいなものだと思う。


つまり違和感の正体は、この力の、強さと激しさだということができる。有るか無いかでいえば、誰でも持っているから「有る」になる。ただ、持っているではなくて、どのくらい激しく持っているか、程度のことだ。欲求や情動や思考や感覚の強さのこと。また、それを問題克服のためにどれほど使っているか、使ってきたか、という経験量の違いでもある。
親や先生や専門家やカウンセラーの頭の中ではなく、自分の頭の中にこそ解決する真の力があるという確信があるか。この「直感があるか」ということ。また「この直感とどれほど長く共に生きてきたか」ということ。

これが、私が接してきた、境遇や気質が同じと感じる人たちにおいてもなかなか感じとりづらい、私の中にある違和感の実体だった。

他の人は隠しているからわからないだけだよ、という人がいるかもしれない。もちろんそういう部分はあると思う。実際、個人の人間性なんてその人と深く長く関わらないと本当のところはわからないと思う。だけど、あまりに強く心に在るものは、なんとなく言葉や態度や表情の端々からこぼれてくるものだ。誰かにこれが激しく存在しているなら私はそれにピンとくる。ニュアンスを感じ取れる。なぜなら人間には情緒というものがあるからだ。情緒があふれ出している人は知らずに非言語的にそれを表してしまっている
私は学歴もないキャリアもない社会の底辺で息をしているだけのしがない中年女だけど、その情緒を感じとる力にだけは自信がある。これは直感だ。この直感のおかげで、今まで様々な場面を上手く乗り切ってこられたから、それゆえの自信である。実際、ああこの人はもしやと思う人は直接関われない人の中にたくさん存在している。その人たちはきちんとこれを無意識的に表している。本やネット上、あるいは歴史的書物の中でそれを語っていたり、言葉の端や行動の記録などからそれが窺える。


『?』について(HSPとの違い)

ここで、冒頭に書いた『?』にようやく触れることができる。まず私はHSP(Highly Sensitive Person)という言葉を知って、自分にラベルを貼った。この言葉を知ったとき瞬間的に該当することが解り、疑いの余地はなかった。そしてこれは気持ちの整理や社会との向き合い方に何かと役立ってきた。子供の頃に有ったらどんなに助かったことか。もう既に生きづらさより利点の方を味わうほどになってはいたが、それでも本当にこの自覚は役立った。

ただ、そのうちなんか違う部分があることにも気づき始め、正確にはHSS型HSPだということがわかった。実のところHSS型HSPとHSPには随分な違いがある。同じだけど全然といっていいほどに違う。性質の違いについての専門的な比較はここではしないが、例えばHSPのほうが、周りの人や仲間から多くの共感を欲してまいがちなのかもしれない。HSS型HSPは共感を得られたからとて、矛盾した性格ゆえに真の共感までは得られないことを前もって察知しているところがある。ある意味早い段階からずっと先を見通しているから諦めや覚悟ができている。自己世界を確立している人も多いので他者への依存度や環境からの影響はHSPよりは低いのではと思う。自ら何かを発信している人も多い。

いずれにしても、同じ気質の人たちとも違う自分の特徴は『繊細さ』ではなく『強さ』の方だ、とくっきり感じ取れるようになった。激しさや逞しさや底力のような表現に近い。それらが繊細さ(感覚処理感受性の高さ)と共存している状態だ。

そして、様々な生きづらさを乗り越えて、自己肯定感の低さともほぼさよならでき、自分を責めたり、他の人への態度を考え過ぎてネガティヴな気分になったりする癖もほぼなくなった。それなりに支障なく日々を送れているにもかかわらず、ずっと日常で困っていることがある。

過度激動(OE)のつらさ

ネガティヴ問題が解決に向かうのと比例して、閃きや新たな発想が止まらなくなってきた。関係ない別々の事柄が次々に意味のある繋がりを持ち、新しいアイデアや向き合うべき問題を作ってしまう。とにかく頭が常時思考にまみれ、回転しすぎて眠れない。夜も寝つけないし、夜中一瞬でも目を覚そうものなら、すぐに脳が活動を始めてしまう。キタキタキター……ってな感じで(汗)人生の意味や精神世界の仕組みについて考え始めてしまう。新たな物語の種が出来たり、夢の中でもメロディーが出来上がったりする。元々こういう傾向があったから今更驚いてはいないけど、とにかく病的なネガティヴさが剥がれ落ちるのと比例してどんどんこっちの方が増してきた。

防御策として日頃マインドフルネスや瞑想の訓練をしているし、適度な散歩と筋トレ、週末はお出かけを積極的にして、毎日夕刻からはアウトプットに繋がる行動とデジタル遮断はきちんとしている。もちろんこのように工夫と努力をした上でのこと。それでも私の脳は眠らない。

……つらい。

頭の中に、考えることと創ることが大好物な別の生き物が存在しているようなこの感覚。確かに創作などには活かせるから良い面もある。……だけど、人生の三分の一を支配する『睡眠』に支障をきたすことが何よりつらい。これまで何十年もの間、あらゆる睡眠に関する情報を集め実行してきた。その手の本はほとんど読み込んでいるし、睡眠研究の権威である人の意見や提案、最新情報にも積極的に耳を傾け実行している。試せるものは何でも試す。中でもマインドフルネスや軍隊式睡眠法などは効果が高い方だと思っている。それでも解決までには届かないから、結局は睡眠薬に頼り毎日飲むしかない。しかも同時に抗不安薬を飲まないと効かない。飲んでも実存的うつが目を覚ますときはもうまるまる効かない。押さえ込もうとする力を、考えようとする力が凌駕している。

あまりにつらい……。
誰かに話してもこのつらさを感じとってくれない。
考え過ぎて死ぬのでは? と思う瞬間がある。頭痛と耳鳴り(耳の奥でなく脳の奥で鳴っているような感じ)がする。考えないで済む薬がほしい。
最新医学界ではサイロシビンなどの幻覚剤をPTSD(心的外傷)の治療法として正式に研究が進められているようだが、これがもっと速く進み、自我の歪みや強さによる苦痛を抱える人間に合法的に適用される日が来ないだろうか、と真剣に考える。少なくとも私が死ぬ頃までにはそうなっていてほしい。数十年後、今の比ではない自我の強さに苦しむのは目に見えているのでこれは切実な願いであり、笑えない問題だ。……そもそも同じ悩みを持つ人たちは現在いったいどうやって対処しているのか、どうやったらその人たちの対処法を聞けるのか? わからない。

この悩みがきっかけで、更に色々調べ始めたら過度激動(OE)というものに行き当たってしまったのだ。過興奮性ともいうらしい。頭の回転が止まらず眠れない、はその中の一つ。他にも色々な特徴がある。他のものの中にも自分の特徴にピタリとはまっているものがある。白昼夢を見る癖や感情の強さ激しさなんかはまさにそう。

ただ、これはどうやら『ギフテッド』と呼ばれる人たちが持つ特徴らしいということがわかった。──はて。HSS型HSPとギフテッドの間にいったい何の関係があるというのか? 

この謎を探るにあたり、これまで私の中にあった違和感を全部洗い出す作業にとりかかった次第だ。違和感の奥の奥、本質的な部分にまで分析を進めておかないと微細な不一致を見落とすことになりかねない、と直感した。容易に抽象バイヤスがかかる問題だとも感じた。だからとことん突き詰めたかった。自己分析を始めてから、意図的に心の奥に封じ込めてきものをどんどん掘り起こしてきた。そのせいで鬱症状が出てしまい、すっかり生活が苦しくなってしまった。

結論:ギフテッドとの関係

結論、とは書いたけど詳しいことまでは書けない。それはまた別のタイトルをつけて今後まとめてみる。あまりに思うことが多くあったから、まだ頭と気持ちの中で混沌とした部分がある。でも今の時点で個人的に思うことをまとめてみたいと思う。当事者たちに対し失礼のないよう気をつけながら。また世間からの大きな誤解による苦悩や孤独を助長しないよう配慮しながら。

誤解されたくないので、これだけは書いておこうと思う。私自身がギフテッドか? について。

これは『否』である。

『?』に行き当たったことをきっかけに、ギフテッドに関する複数の書籍を読み込んだ。感想としては、言われていることの理屈はよくわかる、理解できたと思う。経験談などが出ている箇所では、自分の過去に重ねて様々な感情が込み上げてしまい、咽ぶように泣いてしまった。実存的うつの存在も再確認できたし(辛すぎた……。生きることって結局すべて意味がないのよね、まで行き着いてしまうから。)、細かな疑問についても理屈として明快になった。モヤモヤしていたものが詳らかになっていく爽快さも、痛みと共に味わった。

本当に、色々な感情が私の中を行き巡った。過去の悩みや周りに感じてきた違和感や生きづらさが、言葉という明確な形になって目の前に現れたかのようだった。……ただ、書籍は所詮「二次情報」に過ぎないなと思える面もあり、曖昧さが残ったのも事実だ。当事者でない人間が読んでも、自分に当てはまる、と感じてしまうような曖昧で抽象的な表現を多用していた。もし書いた人が真の当事者であるならば、どの辺の抽象度の話なのかを示すため、代替の利かない固有名詞などを使うはず。なのにそれがないままにツラツラ表現している部分がとても多かった。また日本の本は知能面に重きを置き、海外の本は独特さに重きを置いているような感じがした。

ようやく答えに肉薄する

そうこうしているうち、私にとって衝撃の出来事が起きた。ネットを介しての当事者との出会いだ。といってもこちらからの一方的な出会いである。発信している内容、そこにギフテッドとは何か? の真実が書かれている、と感じた。先入観や偏見に塗れているこの語の真相について、その解き明かし方はとても明確で明瞭で心奥を突いていた。それは私にとって100冊の解説書を読むより大きな価値のあるものだった。誤解の多い彼らだが、当事者の存在と当事者が発信している記事の、原理の解明や世の中の仕組みについての解説は、まさに痛快至極である。明快さが感慨と混じり合い、笑いと涙が同時にとめどなくあふれてきた。

私にとってギフテッド当事者の発信は、私史上最高の知的刺激を受けられる情報源でもある。そして何より彼らに畏怖と畏敬の念を感じる。湖で白鳥の群れを目の当たりにした、みにくいアヒルの子の気分である。自分は白鳥になれないアヒルだけど、あの時のアヒルの子の気持ちそのものなのだ。

……この時点で、自分が該当者かどうかなんて最早意味のないことにも思えてきた。すごく解るからこそ、私自身は違うという可能性が潜んでいることもよく解る。複雑な特性について知り、その特徴にとても共通している部分があると思う。だがひとつだけ、今の時点でどうしても検証と論証ができていないものがある。それこそが「最も大きな相違」に関わっている。

むろんそれは知能の高さである。私自身は特段知能が高くない。診断こそしていないがはっきり解っている部分だけみても、まず空間把握能力が低いこと、さらに計算スピードも遅い、記憶力も高くないこと。知能を語る際、もしくは右脳優位な人間の特性を語る際に、これは致命的ではないだろうか。
この他にも知能面ではほぼ平均値ではないかと思っている。〝学校の授業簡単過ぎてつまらないエピソード〟なんかは凡人であるゆえ勿論持っていない。二十代の頃私は自分の頭の悪さにほとほと嫌気がさしていた。解るのに言葉にできないもどかしさもあった。子供の頃にたくさん頭を殴られたせいでこんなになったのだろうか? と長い間真剣に悩んでいた。知能指数なんかだけで能力のすべてを測れるものではない、ことは重々承知である。それでも、知能指数が平均であることを許容するわけではないと当然ながら考える。とはいえ本当に、自分が該当者かについては差し当たり問題じゃない。……この存在を知れたこと、彼らとその特性について正確に理解したいという願いと慎重さが私の心にあること、そして可能ならば、世間からの不理解や不適切な支援や無自覚な攻撃から彼らを保護するために私なんぞに出来ることが何か一つでもあるのならさせてほしい、との切実な思いが生まれた……この事実に意味が生まれた。

HSS型HSPである自分の特徴とギフテッドの関連性については今の時点でわかったことを今後書けるかもしれない。なぜこれほど共通点があるのか、その不思議の中身を。『?』を探るうち、ようやくここまで答えに迫ることができた。私のように悩んでいる人が他にもいるかもしれない。……きちんと専門用語を使って演繹的に解き明かしてみたいと思う。そもそも帰納的に考え出してぶち当たった疑問だったので、今度はちゃんと論証を試みてみる。そして最後に仮説的推論をしてみるかもしれない(……この過程は〝抽象と具体の往復〟だ)。それが書ける頃にはこの鬱を抜けられるといいな、と思う。

最後に、貴重な時間を割いてこんな長い長い自分語りに付き合ってくれた方に、改めて心からの感謝とお詫びをお伝えしたい。本当に長くてごめんなさい。終わり。

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