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ぼっち留年理系大学生が1年間頑張るNote

はじめまして、皆帆と申します。
3月から、二度目の大学三年生になろうとしています。
これから一年、暇つぶしついでに文章を書く力でも養おうかとこのたびNoteを開設しました。
はじめてのNoteということで、自己紹介がてら、大学入学から現在に至るまでの話を愚痴と反省を交えて書こうかと思います。


3月9日、親への留年報告と内定辞退の電話を終え、部屋中を舞う埃が西日に照らされているのをぼんやりと眺める。気を利かせた風なSiriにレミオロメンを勧められ、今年どころか来年も卒業できやしないのにと少しばかり不快さを覚えた。

オンライン一年生

一年の春、最後のセンター試験だのなんだのと散々脅された挙句、安全策を取った田舎の国立大学に入った。田舎と言っても山奥の未開の地で育った私からすれば十分都会ではあったが、入学式でパッとしない茶髪の女子大生に揉まれ、都会の女子大生と言ってもこんなものか、と内心ほくそ笑んでいたのを覚えている。
そんな歪んだ性根を知ってか知らずか、夏が過ぎ、雪が降りはじめても、私以上に周囲に文句を撒き散らす友人が数人できただけだった。数ヶ月に一度食事をしては、弊学Twitter界隈なる集団がオフ会を行なっていることについての批判だとか、彼女の友人が大学デビューでブサイクな彼氏との寝物語を繰り広げてきて薄気味悪いだとか、飯が不味くなるような話題で時間を空費するばかりだった。自分よりも幸せそうな人間を擦ることで、大学に入ってハシャいでいる奴らとは違う、と陰キャなりの不気味な選民思想を煮詰めるばかりの一年だった。

ぼっち確定演出から躁鬱まで

そのまま一年をオンラインで過ごし、二年の春。
さて対面になったところで、同じ学部の友人でも作ろうと気合を入れたものの、そう長くは続かなかった。
記念すべき一回目の対面授業。まずは自然に認知されるところから、と15分も前に教室に行った。一目で女子だとわかるように、髪もいつもより念入りに巻いて、春らしい色合いの上着を羽織った。多くの人の視界に入るように意識しつつもガリ勉感が出過ぎないように、と前から5列目の席を陣取る。そこから自分の前方にもちらほらと男子生徒が座っていく。
初めての専門科目とやらなせいだろうか。一年の時の教養科目なんかは女子の方が真面目で意欲的だった印象があるが、やはり専門的な学問となると、男の方が意欲的に勉強するものなのかもしれない。
とはいえ、こんなに分かりやすく隣に座りやすいところに女子がいるというのに、なぜ近くに女子生徒が来ないのだろうか。やはり女子は後方で様子を伺うところから始め、固まるというのがセオリーだったろうか。あるいは敢えて遅刻ギリギリに登校して、女子生徒の横の席を確保するスタイルの方が良かっただろうか。「大学生 友達 最初」などといかにも陰キャらしい検索履歴を思い返しながら、一回目の対面授業を聞き流した。
1時間半の思考の末、授業終了後最も近い女子生徒に声を掛けようと意気込んだ。
授業が終わり、わざとらしく伸びをした後、自然な微笑みを浮かべて振り返る。
その瞬間、初めて教室の異質さに気付いた。

女子が、一人もいない。
端から端まで顔を一通りしっかりと確認した。パーカーでボーイッシュな女子が紛れている可能性も十分に考慮した。なんなら帰宅してから授業のTeamsの生徒名を三回通りは確認した。
そこには女子らしい名前は一つもなかった。

翌日指導教員の授業を履修していたので、また10分前に登校して、どういうことかと尋ねた。
曰く、この学科には女子が3人しかいないし、二年から更に二つのコースに分かれた結果、女子は50人中私一人だということらしい。
その瞬間、私の大学生活が終わりを告げた。
もちろん、女友達と授業を一緒に受けるだけが大学生活ではないということは十二分にわかっている。しかしながら、講義の情報を女友達と、あるいは男女半々のグループで共有しながら、たまに飲みに行ったり、誰かの家で漫然と過ごすのが大学生だと思っていた私の心が折れるには十分だった。
このままではいいところでオタサーの姫、頑張ったところで彼くんと寄り添いながら授業を受けて、別れる度にクラス全員に破局を見せびらかすのが関の山だ。いずれにせよ、女子としての振る舞いを意識せざるを得まい。高校まで、女を捨ててひな壇芸人よろしく笑いを取っていた私には到底耐えられそうもない。というか実際耐えられなかった。
対して仲良くもないうちから、うちくる?笑だとかドライブ行こ笑だとか、多かれ少なかれ"そういう"意図を含んだ会話を投げかけられたが最後、女子と飲んだら送っていくとか、飲みすぎてないかを気遣うとか、颯爽と会計を済ませるだとか、そういう自分が男なら当然するであろう、なんなら女子相手に普通に行っているそれらでさえ気持ち悪く感じた。ほぼ一方的に縁を切り、次の友人作りへ取り組む中で、その殆どアレルギー的な症状は悪化していく一方だった。
更に悪いことに、私の趣味や出身地など、ごくどうでもいい個人情報が、それらについて会話した男子と接点のなさそうな男子にまで共有されていたことに気付いたのはその後だった。数人を突如原因不明に(気持ち悪くなって切ったわけだが 当然の行為すぎて当人に自覚があるはずもない)縁切りした後、悪評が立ったのか私に話しかける人は居なくなっていた。


学部でダメならサークルで、と考えなかった訳ではない。
一年の時に籍だけ入れたアカペラ系のサークルが活動を始め、友人作りもここでなら、と喜び勇んで出席した。テニサーなどの所謂飲みサーを検討しなかったわけではないが、新歓で色違いのチー牛が周りの迷惑を顧みずにコールを始めた辺りで恥ずかしくなって帰ってしまった。本物の陽キャ達は20にもなると落ち着き出して、割と綺麗な飲みをしていることを知らないのだろうか。受験勉強ばかりで高校時代の失われた青春を取り戻そうと必死なんだなと思うと涙を禁じ得ない。

しかしウェイ系でなければ良い、という発想もまた浅はかだった。
サークル棟の指定された部屋に入って数分、話しかけてきたのはアニメの缶バッジをジャラ付けしたおかめ納豆。
オタクを馬鹿にしているわけでは決してない。近年アニメ文化が大衆化してきているし、アニメ好きであることはなんら恥ずべきことではない。なんなら私はランドセルよりも先にパソコンを手にいれ、掛け算を覚えるよりも先に個人サイトを駆け巡ってアニメキャラを掛け算していた生粋のオタクである。だがそれ故に、いい歳こいて身なりに気を遣えない旧式の"オタク"への嫌悪感は人一倍強かった。
ジャンルも推しもバラバラに、こだわりもなく付けられたそれらを尻目に挨拶を交わしていると、チェックシャツ、肥満、黒髪一本結び、銀縁瓶底眼鏡が続々と部室に入ってきた。
私はあまりオシャレに敏感な方ではないし、ミシン目のようなストーリーを投稿する、キラキラ女子大生イメージのレベルに達していると自惚れたことなどない。インスタで得た聞き齧りの知識で見た目を最低限整える程度で、オシャレな女子に話しかけられると嫌な汗をかく。しかしながらこの瞬間ばかりは、明らかにこちらのレベルが高すぎて浮いていたと言えるだろう。
帰るなり退部の旨を伝え、またも友人づくりのためのコミュニティから離脱してしまった自分の根性の無さに絶望した。

大学は当然ながら学問を修めるためにあるのだが、理想のキャンパスライフとの乖離で頭が一杯になっていた私にそんなことが考えられるはずもなかった。気づけば友達どころかろくに単位もないまま大学生活も折り返しが近づいていた。
理系科目というのは積み重ねで、数学Ⅱが分からないのに数学Ⅲは解けない、と言えばなんとなく理解していただけるだろうか。恐ろしいことに私は高校レベルの数学さえ忘れてしまっていた。受験期に数学だけなら旧帝も狙える無双ぶりだったはずが、今やコサインを微分すると何になるのかさえぼんやりとしていた。

講義もろくに分からない上に、相談できる友人もいない。大学ではろくに誰とも話さないけれど、たまに話した世間話を、話したことのない別の男が知っている。高校以前は学力に問題もなく、友人関係に恵まれていた私にとって、これ以上のストレスはなかった。
必修の実験以外はろくにシラフで対面に出ることもできず、覚えたばかりのストゼロの空き缶で床の見えなくなった部屋で、週に二回の風呂に入る以外はほとんど寝たきりだった。オンライン授業続きで同じく大学の友達がいない高校時代の友人と、LINE通話をほぼ24時間していた。夜が更けるにつれて気分も落ち、堂々巡りの自己否定を繰り返しては友人に宥めてもらっていた。それがまた情けなくて、ロング缶を2缶流し込んで殆ど気絶するように寝ていた。
コロナで知能が低下するというが、今の私とどっちが酷いだろうと自嘲気味に笑っては、友人を困らせていたのを覚えている。あの時縁を切らずにいてくれた彼女には本当に感謝してもしきれない。

実家の経済危機と配属要件

そうこうしながら無為な人間関係作りに奮闘していた頃、実家から一本の電話がかかってきた。
祖父母の介護に葬儀、コロナの煽りを受けての収入減少、兄弟の受験と進学。ありとあらゆる不幸が重なって、実家の家計は火の車だった。
幸いにも割のいい夜勤のバイトを始めていた私は、実家に仕送りをするという名目で、アルバイトに打ち込むようになった。仕送りを捻出するために酒は一滴も飲まなくなったし、バイトの収入で実家を助ける苦学生という設定があれば、彼氏も友達も居ない免罪符になるような気がした。生活リズムは崩れに崩れたが、引きこもりで酒浸りだった頃に比べればずっとマシな生活ができていた。図らずもバイト先で他大の友人がいくらかできたのも良かったのかもしれない。
前期にメンタルを病んでいたのもあって二年修了時に65単位しか取れていなかったが、三年で45単位程度取っておけばなんとかなるだろうと高を括っていた。
実家の家計の方も三年の頭には持ち直してきていて、希望に満ち溢れていたのを覚えている。

そんな三年の春、私は久しぶりに指導教員の呼び出しを受けることになる。
他大の友人しかいない上にろくに学生便覧も読んでいなかった私は、四年も卒論の傍ら単位取得に励めばいいと思っていたし、実際問題これ以上三年の取得単位数を増やすのは殆ど無理だった。
ところが、卒論のための研究室配属のためには、三年の終わりに卒業要件のうちの115単位を取り切っておく必要があるとのことだった。
一年で50単位。酒で縮んだ脳みそでも、無理だということは瞬時にわかった。更に悪いことに、必修と必修が重なり合っていて、今年取り切れる全ての単位を取っても114単位分にしかならないことが分かった。
1単位なら掛け合ってみるから可能な限り頑張るように、と面談を締め括られた帰り道、私は泣きながら親に留年の可能性が極めて高いという旨を電話した。

改心した三年

三年になってからの私は殆ど異様であった。
夜勤の日以外ほぼ毎日22時に就寝して、4時半に起床した。相変わらず勉強は何も分からなかったが、毎日3時間勉強してからフルコマを受けに行った。分からないけど意欲だけはあるから追加課題か何かで単位を認めてくれと殆ど全ての教授に嘆願し、休み時間のたびに頭の悪い質問をしては教授を悩ませた。当然期末頃になると課題が追いつかなくなっており、ヤケクソ提出で点数を更に下げまくっていた。

それだけでは飽き足らず、その頃になると自分が底辺で必死に足掻いているということも忘れ、自分を意識高い系だと思い込むようになっていた。勉強の息抜きに怪しげな自己啓発本を読むことが生き甲斐になっており、訳知り顔で高校時代の友人にこの本がいいだの良書を身に染みるまで繰り返し読むべきだだの、それはもう盛大な自己啓発本オナニーを撒き散らしていた。本当に縁を切らないでいてくれてありがとう。

就活や院試の関係で四年が苦しくなることも分かっていたので、それを見越してガクチカや情報収集は早めに済ませていた。実際この年末の時点で第一志望群の内定は軒並みもぎ取っていたし、なんならこの半年の猛追で鍛え上げた意識高い系な雰囲気のおかげか、落ちたことなど一度もなかった。土日に企業のおじさんに褒めそやされることで、なんとかメンタルを保っていた。春休みに入って酒を解禁し、飲みの場で業界大手の早期をいくつも抑えて得意げに面接対策を語ったこともある。死にたい。

そして先週、成績が発表された。
可、可、良、可、可…殆どお情けで60点にしてもらった成績が並ぶ中​──不可
無慈悲にもそれは訪れた。
見れば取りつく島もなかった教授の必修科目だった。奴のために後期の3割くらいは費やしたのだが、無理なものは無理だったらしい。
指導教員の方を恐る恐る見やると、流石に必修で3単位足りないとね……と気まずそうに頭を掻いていた。
コロナもあったし留年も珍しくないだとか、むしろちゃんと学び直すいい機会になるだとか、一年前に聞いていれば綺麗事はやめろと発狂していたであろう慰めの羅列が、不思議とすんなりと受け入れられた。というか、留年する心づもりは1年間ずっとしてきていた。負け確の中であれだけ無理だと思った50単位を、分からないなりに取った自分を素直に認めようと思った。

これから

そんなわけで、私はこの春から、3単位を取るためだけに一年を過ごす。
母に電話で報告すると、仕送られてきた額で大体プラマイゼロになるからあまり気にするなとのことらしい。
思い返せば、一、二年生の頃は随分他責思考が強かったように思う。勿論ストレートで卒業するに越したことはなかったが、この一年がなければ碌な大人になれないまま、あれこれと他人のせいにし続けていたに違いない。もっとも、今でも十二分に強い方ではあるのでまだまだ改善の余地があるけれど。

この一年を、去年と同じくらい全力で走り抜けたらと思う。

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