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アメリカ留学四年目:今の私が幸せを感じる生き方

みなさん、こんにちは。
私は現在、アメリカにあるカーネギーメロン大学において博士課程の学生をしています。そんな私ですが、約5年前に社会人を辞め、アメリカに留学をすることを決意して以降、自分にとって幸せな生き方の定義が日々変化しているように感じています。

一年半前に以下の記事で当時の自分の考えをまとめているのですが、2022年の終わりを迎えるにあたり振り返りをしていると、当時の考えと今の自分の考えにもまた違いが出てきていることに気づきました。

今日は、その気づきをもとに、また将来に自分の気持ちの変化を振り返ることができるように、今の自分が幸せを感じる生き方について書いてきたいと思います。
* この内容は他の人に向けたものではなく、将来の自分に向けたものなので、このような考え方を広めたい、主張したいという思いは特にありません

私は自分で意思決定をしたい

まず、今の私の幸せにとって一番大切なことは、自分が何をするのかをできる限り自分で意思決定をすることだと感じています。これは、一年半前のブログの最初の項目として挙げた "自分の好きなことをして生きたい" と関連しているのですが、私は自分が選んで自分の意思を持って進めていることに対しては努力を惜しまず、前向きに取り組むことができる一方で、誰かがしたいことや、自分の意思とはあまり関係のないことに取り組んでいる際は、モチベーションをうまく保つことができません。

これは、私が社会人として働いていた際に強く感じていたことでした。当時私は企業で働いていく中で、会社の方針や上司の指示に背くことなく、彼らが求めることに応えることがことができる社員になることを意識して、働いていました。そのように働くことで、彼らからの評価は得ることはできていたと思います。しかし、そのような環境では、自分で何をしたいかを決め、自分の好きなことに取り組むということはもちろん難しく、自分の考えや、想いは殺して、会社の一つの歯車として働く日々でした。

自分の意思を殺して働くことで、当時の私は社会的な地位であったり、安定した収入を得ていました。一方で、そのような働き方を継続していくうちに、何のために自分は働いているのだろう、何のために生きているのだろう、こんな生き方でこの先の人生は楽しいのだろうかというモヤモヤとした気持ちがどんどん大きくなっていました。

そんな中で私は留学するということを自分の意思で決め、会社や社会に決められたレールの上をひたすら歩く道から大きく外れる決断を約5年前にしました。今まで築き上げてきた安定したレールの上から外れるというこの決断はもちろん大きなリスクを伴うものでしたが、結果的に、私は自分で決めて自分で好きなことを選択できる自由を手に入れたことにリスク以上の幸福を感じました。

そして、現在もいわゆる日本社会において周りから高く評価されるような生き方 (例えば大企業で出世する等) からは外れているように思いますが、自分で自由に意思決定をして何をするかを決めることができるこの環境が私にとってはとても幸せな環境です。誰かに決められた人生ではなく、自分で決めて自分の人生を歩んでいくことが、私の幸せにおいては本当に重要なのだと思います。

また自分で意思決定をする際は、その意思決定が "〜をしないといけない" ではなく"〜をしたい" という気持ちに基づいているかを常に意識するようにしています。

私は気持ちに余裕を持ちたい

私は、自分が幸せであるためには、気持ちに余裕があることがとても大切だと思っています。日本で生活をしている頃は、この気持ちの余裕が全くなく、毎日心に余裕のない生活をしていました。

例えば、仕事では、何か一つのタスクを終えても、次から次へとやらなければいけないことが入ってきてしまい、常に何かに追われていました。残業や休日出勤も含め、たくさんあるタスクをなんとかこなしていく日々の中、当時の私にとって、それらをしっかりと完璧にこなして、社会や会社からの評価を得ていくことが最も重要なことでした。

そのような環境では、私は心に余裕が持てず、少しの無駄も許せず、パンパンに膨らんだ風船のような状態で常に走り続けているような状態でした。そして、この精神状態では、例えば電車を一本逃してしまったり、レジでの待ち時間が長かったりというほんの些細なことですら、ストレスを感じてしまい、張り詰めてしまっていたように思います。

そんな生活から外れて、アメリカでの学生生活を始め強く感じたのは、気持ちに余裕が持てるだけで、日々感じるストレスが減り、周りや自分に優しくなれ、日々に幸せを感じることができるようになるということです。ここで言う、気持ちに余裕を持つというのは、言い換えると完璧主義な考え方から抜け出すことに近いかもしれません。

日本で働いている時の私は、入ってくるもの全てに対してどれも完璧に効率よくこなすことが必須だと考え走っていました。しかし、アメリカに来てから、そのような考え方が当たり前ではないことを感じました。もちろん全員ではないですが、アメリカ人や他の国の人たちは、日本人と比べ、自分を大切にして、多少何かができないことは仕方がないと考え受け入れる能力が高いと感じています。

例えば、アメリカのスーパーのレジは私がこの文化の違いを大きく感じる場所です。日本のレジでは、商品を効率よく処理し、できるだけ早く手際よく会計を終えることが求められていると思います。並んでいる私たちも会計がスムーズに進むことを当たり前に感じますし、逆に何か機械の読み取りのエラー等で流れが止まってしまうと、ストレスを簡単に感じてしまうかも知れません。一方で、アメリカのレジは、本当にゆったりしています。レジで働かれている方も自分のペースで作業をしていますし、時にはお客さんとの雑談も始まります。以前は、日本のようにスムーズにできるだけ早く会計が進むことが当たり前だと思っていたので、私は比較的長い待ち時間に少しイライラしてしまうこともありました。

しかし、しばらくこちらで生活してから、社会には色々な考え・価値観を持った人がいるため、自分の当たり前に基づいて完璧に物事が進むことを期待するべきではないのだということに気づきました。むしろ、そのような完璧を求める姿勢を捨て、他の人の行動や考え方を受け入れていくことが今の多様性が求められる社会では大切だと感じるようになりました。そして、その完璧を求める姿勢を捨てるために必要だったのが気持ちに余裕を持つことでした。

この点を意識するようになってから、私は周りの人との違いもうまく受け入れることができるようになりました。また自分にも完璧を常に求めることが少なくなったため、パンパンに膨らんだ風船の状態を脱して、生きることが非常に楽になり、日々の中で感じるストレスが大きく減ったように思います。また、気持ちに余裕を持っていると、他の人を気遣う余裕や、周りを見る余裕も生まれてきました。その結果、周りの人との関係性もより良好に保つことができるようになりました。

日々何かに追われている生活の中では、このような気持ちの余裕を持つことは簡単ではないのかも知れません。しかし、そのような生活を続けると私は自分自身の心がどんどんすり減っていってしまうように思います。完璧な自分・社会を求める気持ちを捨てて、"まあ、いっか" や、"しょうがないな" と物事や自分を受け入れる気持ちの余裕を持つことを意識して生活することが、日々のストレスを減らし、日々の幸せをより多く感じるために大切なのではないかと思います。

私は一人の時間を大切にしたい

一人の時間を大切にするということに関しては、以前のブログでも触れているのですが、改めて私の幸せには欠かせないものだと感じています。

人とコミュニケーションをとることは、私にとって大きな学びを得る場であると同時に、大きなエネルギーを消費する場でもあります。一人で過ごす時間は、私にとってそのようなコミュニケーションを行うために必要なエネルギーを蓄えるためのとても大切な時間です。

以前は、一人の時間が増えると、孤独を感じ、精神的にしんどくなってしまうのではないかと感じている頃もありました。しかし、直接的なコミュニケーションを取らなくても、様々な形で他の人と繋がることができる現代のインターネット社会において、私は、一人での時間を多く持つことにあまり孤独を感じていません。むしろ、今まで知らなかった世界や、考え方をインターネットの世界からも学ぶことができ、一人の時間が、新しい世界を知っていくための重要な時間にもなっています。

もちろん、実際に人と会って、直接コミュニケーションをとることでしか得られない経験や学びもあると思います。そのような機会はもちろん大切にしながらも、自分の時間をしっかりと作っていくことが私が幸せに生きるためには大切だと思います。

私はプレイヤーであり続けたい

私は、誰かの後ろをついて行ったり、誰かのサポートをするのではなく、自分が最前線を走り、道を切り拓いていこうとすることに楽しみ・幸せを覚えます。

これは、振り返ると部活動に本気で取り組んでいた学生時代から同じだったように思います。私は、チームスポーツに取り組んでいましたが、その中でチームをプレーを通じて牽引していくことに対しては大きな楽しみを見出していました。一方で、キャプテンやマネージャーのような立場を通じて、チームを支えていくことに対しては、あまり楽しみを見出せませんでした。社会人として、チームをマネジメントする立場として働いた際も、私はメンバーのサポートや、チームを管理していくことに対してはモチベーションをあまり見出すことができませんでした。

そのような経験を通じて、私は人を支えるような立場として活躍するのではなく、自分が常に最前線を走って、チームを背中で牽引していくような姿勢が好きだと感じています。

自身が歳を重ねるごとに、これまでの学びをより若い世代の人たちに共有したり、そのような人たちをサポートする立場として何か貢献をしないといけないのではないかと思うこともあります。しかし、これはきっと"社会"から求められているであろう私の姿で、私自身が本当にしたいことではないように思います。

社会に求められる私自身になるのではなく、私は、自分が好きな分野で、自分がプレイヤーとして最前線で走っていきたいです。その結果、同じような道を目指したい人たちにその姿を通じて新しい生き方や、面白い生き方を伝えていくことができるととても幸せだなと思います。

私は人が助け合い、高め合える環境にいたい

これは、最近考えるようになったことなのですが、私は人が幸せを感じるには、人が何かを奪い合う環境ではなく、人が助け合い高め合って新しいものを生み出す環境に身を置くことが大切なのではないかと思っています。

私は現在カーネギーメロン大学の研究室に所属をしており、研究に取り組んでいく立場にありますが、今の環境は、以前日本で働いていた頃と比べ、お互いに助け合い、高めあうことができる環境にあると強く感じています。そのため、今の周りの人や環境が非常に好きであり、ストレスを感じることなく、日々楽しく研究を行うことができています。

このような環境の違いを生んでいる大きな要因として、私は、研究とビジネスにおける仕組みの違いがあるのではないかと考えています。多くのビジネスでは、競合企業に対してどのように自社を差別化して、どのように売上を他企業よりも多く上げていくかが求められると思います。市場の中での価値をお互いに取り合っていく形になっているため、誰かの売上が上がると誰かの売上が下がる仕組み、つまり極端に言うと、誰かが幸せになると誰かが不幸になるような仕組みになっているように思います。

もちろん研究においても、研究実績をあげることにおける競争はあるものの、研究の大きな目的は、社会全体としての "知見" を上げていくことです。誰かの研究の発見に基づいて社会が発展し、新しい研究がさらに進むため、みんなで高め合いより新しい発見を目指していくような仕組みにあります。そのため、ビジネスと比べ、競争が比較的少ない環境にあるのではないかと思います。(もちろん研究分野でも競争が激しいような環境もあると思いますが、全体的に比較をするとこのような傾向があると思います)

日本で社会人として勤務をしていた頃、私にとって幸せを妨げるストレスのほとんどは人間関係からくるものでした。特に、ビジネスにおいては、企業の中でも誰かの利益が誰かの不利益につながってしまうようなケースは多かったため、その調整を行う中でのストレスが最も多かったです。できるだけ敵を作らないように、全体がうまく回るように調整をしていくことは簡単ではなく、必要であれば自分を隠してうまく取り繕わなければならない場面も多くありました。また、そのような利害関係がある中では、お互い助け合ったり、信頼し合うという人間関係を築くことを難しく感じていました。

一方で、今の環境では、新しい発見・価値の創造に向けて、お互いが助け合うような文化が根付いているため、誰かと何かを取り合う必要はなく、利害関係が非常に少ないです。そのため、人間関係に関わるストレスがほとんどなく、自分の周りの人ととても良い関係性を築けているように思います。

そのような環境は、どこにでもあるわけではなく、むしろ今の社会では多くの環境は何かしらの争いによって成り立っていると思います。そのような環境を選ぶのではなく、できるだけ人が助け合い、高め合い、新しい価値を生み出すことを目指している環境に身をおけるよう意識をすることで、私は自身の幸福度を上げることができるのではないかと思います。そして、そのような環境に身を置くための努力を継続していくことが大切だと思います。

まとめ

前回の記事同様、今日の記事は、あまり他の人向けという形ではなく、将来の自分に向けた内容として書きました。実際に振り返ってみると、前回の自分の考えから変わっているところ、変わっていないところがあり面白かったです。

そのような違いをこのような文章として残しておき、自分がどのようなことを考え、経験し、どのように自分の価値観が変化していったのかをまとめていくことは、将来自分の人生を振り返る上でとても有意義なのかもしれません。

また定期的に自分が幸せを感じる生き方についてはまとめていきたいと思います。


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