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不妊治療を巡る世界から

先日の海に、親子が来ていた。

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この写真を見て思うのは、子供連れを見れば、羨ましかった時は何だったのだろうかということだ。なにも否定しているわけでもない。ただただ子供がほしいと願い、不妊治療を受けていた頃、何を見ていたのだろう。綺麗な景色も、美しいものも見て、大事な友人もいたけれど、いつもいつも子供がほしいという気持ちをどこかに抱えていた。その時にもし、同じ景色を見たのならば、海を見る前に親子に目がいっていただろう。

当時の不妊治療といえば、保険適用など遥か遠い話のように高額であって、治療を進めれば進めるほど、いつまで続けるか、「もしかしたら」「次こそは」という気持ちになるもので、様々な気持ちに苛まされていた。本当に子供がほしいのか、なぜ子供がほしいのかの問いとともに、不妊治療が進むほど、夫婦関係について、仕事をどうするのか、休暇の申請をどうするのか、そのように考えることが増えていく。それどころか、経済的なことも考える必要があって、仕事をしなければ堂々と不妊治療を受けていると言えないような、受けたいと言うこともできなのではという気持ちにさえなるものだった。

病院での治療のほかに、効果のあると言われる食べ物を試みたり、漢方薬局を訪ねてみたり、いつ妊娠しても良いようにサプリメントを飲んでみたり、ブログや本を読んだものだった。

友人の妊娠は喜ばしかったが、心がチクチクを傷むことも同時に起こっていた。それでも、出産のお祝いや子供のいる家に遊びに行くことは、嬉しかったというのも確かである。

何度か高度不妊治療を受けてから、これで妊娠しなかったらやめようと決めたあの時より、もう少し早めにやめていたらと考えたこともある。それは経済面でのしかかる心と体への負担でもあったと今ならわかる。結果、妊娠に至ったとして、それはそれで不妊治療からの出産であることをどれほど周りに話すことができただろうか。

この手に、わが子を抱きたいという、その想いにかられていた頃も、ふりかえれば納得するまで治療できたという気持ちになるのである。このように思うまでには、時間を必要とした。不妊治療のために働いているのか、不妊治療を言い訳にしているのではと、心のどこかで思いながら仕事をすることも、今となって言えることである。何度も何度もパートナーの気持ちと考えるところを聴きながら、それでも治療を続けて、やっとのことで自分が子供を産むということから解き放ったのである。ある時、母に「もう不妊治療はやめる。ごめんね、孫を見せられなくて」というようなことを伝えた時、「やっとなの。いいじゃないの、いつそのように言うかと思っていたのよ。」といったあっさりとした返事をもらって、拍子抜けしたのだっだ。

これから不妊治療が保険適用になるならば、あの高額の治療費を前に、子供がほしいという気持ちをあきらめずに不妊治療を受けることができる期待は広がる。それでも、次こそは、次こそはというあの治療中の気持ちと、命を授かるという未知なる時を考えることは同様に起こるのだろう。

きらきらと光る海や照りつく太陽を見れば、何事も起こっていないような平穏な世界に居るように錯覚をする。実のところ、それは錯覚でなくて、広がる光景は穏やかなもの。見る世界が私ならば、穏やかなる世界に満ちているということだ。



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