見出し画像

【short suspense】 BGMピアニスト beat2

 私は、小学生時代のある日のことを思い出していた。居間のアップライトピアノで練習曲、ブルグミュラーの「タランテラ」を弾こうとしていたときだった。三つ下の妹が、宿題だといって、教科書の「スイミー」朗読を始めた。私は気にせず「タランテラ」を弾き始めた。すると。小さな黒い魚スイミーが、それに合わせて泳ぎだすのを感じた。妹の朗読は続く。「タランテラ」は短調から長調へと変わっていく。私ははやる気持ちを抑えて、注意深く弾き進めた。やがてスイミーは他のたくさんの小さな魚たちと団結していく。「タランテラ」はクライマックスのクレシェンドへ。私が最後の音を弾き終えるのと、妹が最後の一文を読み終えたのは、同時だった。振り返ると、妹は何も気づいていないようだった。私は大笑いした。「スイミー!」と叫んで、大笑いした。

「意図せず曲と状況がリンクすることは、尊いことだと思うのです」
 学生時代にレストランで弾く初めてのアルバイト面接でそう言ってみた。
「いや、その状況に合わせてほしいんですよね。その日のお客さんの様子とか、混み具合とか、雰囲気とか。そこまでがこの仕事です」
とすぐに返されて以来、黙っていることにした。街中で、プライベートの食事の途中で、ふとした瞬間にそれは訪れた。やがて、相手が深刻そうな話をし始めたとき、明るい曲が流れると、余計に哀しくなる、ということにも気がついた。反対に、楽しそうに話しているときに哀しげな曲が流れても、あまり影響はないことも(かつて試みたものの、近くにいる誰かの表情が翳ることはなかったことから、それは証明された)。そして、哀しげに話しているときに、哀しげな曲が流れると・・・・・・笑いを抑えられない。だから、極端なところ、哀しげな曲を弾いていれば、本当に悲劇的なことは起こらない。いつしか私は、そう結論づけていた。

 ふと顔を上げると、入り口付近のオーナーと目が合った。こちらを見て頷く。私は目を逸らし、宙を見上げ、ちらりとタランテラのカップルを見やった。メニューを覗き込み、これにしようかなぁ、と相談しあっている。おや。深刻そうに見えたのは気のせいだったか。ひとまず、彼らの様子がおかしかったら、さりげなく曲を変えればいい。なんてったって、今日は月光を弾きたいという気持ちを優先させたい。

 私は気を取り直して、姿勢を正し、ベートーベンピアノソナタ第十四番嬰ハ短調の第一楽章、月光を弾き始めた。最初の一小節を弾いた途端、二人がこちらを見上げた。泣きはらした少女のまぶた。呆けたような青年の半開きの口。私は一瞬ひるんだが、優しく、あくまで繊細に徹したタッチで、かまわず弾き続けた。少女はメニューに顔を戻し、青年は、ピンと背筋を伸ばしたギャルソンを見つけると、手を上げた。
 フロア全体のムードは明るかった。とやかく言うようなお客も今夜はいなさそうだった。だから安心して曲の世界に没頭できた。オーナーの方は見ないようにした。
 オーダーを終えた二人は、どちらからともなく溜息をつき、グラスの水を口へ運んだ。

「大丈夫だからな」
 潜めながらも力強い、青年の声が聞こえた。グラスの脚に置いた少女の手に指を重ねている。
 駆け落ちでもしてきたか? 私は推測する。怯えているのか、所在なさげに震える少女を励ます青年。いいや、初々しく希望あふれるカップルにしか見えない。
 前菜が到着し、「とりあえずいただこう」「うん、美味しそう」と、あどけない顔を見合わせる二人に、思わず頬がゆるむ。逃避行ごっこかもな。
「すぐに次を持ってきてください」と青年がギャルソンに頼んでいたとおり、スープが来たと思ったら魚料理も届き、テーブルはあっという間に皿で埋め尽くされた。
 月光ソナタは第二楽章へと進み、空気に軽やかさを添えていた。

 くすくすと笑い声が聞こえ、ちらりと見やると、青年が少女の白いニットにスプーンを向けていた。その胸のあたりに赤い染みが盛大に広がっている。白身魚のトマトソースの、朱色だ。
 少女は首をすくめて「これで大丈夫だね」と笑っていた。
「もし、あいつらが来ても、俺が何とかする。全部、なんとかする」
青年の声はほぼ囁きだったが、力強さを増していた。指で鍵盤を押さえながら、私は眼球だけ二人のほうへ向ける。
 少女は穏やかな表情で、丁寧に魚を切り分けていた。一切れ、ゆっくりと口へ運んでから、口の端についた赤いソースを素早く舌で舐め、青年を見てまた笑うのだった。こちらへ背を向けている彼の表情は見えないが、両手にナイフとフォークを持ったまま動きを止め、少女を見つめているようだ。彼女が笑うと、彼の肩もかたかたと揺れた。
 テーブルの下に、銀色がきらりと光るのが見えた。少女の膝のナフキンの上。あれは、ナイフの刃ではないか。先ほどまでまさに彼女が手にしていた魚用のものではない。テーブルの上に並ぶ肉用のものでもない。彼女の細い指が、太い木製の柄の部分を握っている。ずしりと重みがあるのか。力点が定まらず、ゆらゆらと揺れ、ちらつき、私の目の中に飛び込んでくる。
 真っ直ぐ前を向いて、私は第二楽章のラストを、猫を今朝撫でたときと同じくらい甘やかな指の動きで弾き終え、次第にスピードを増す第三楽章へと進んでいった。目を閉じてゆっくりと頭を左右に動かしていく。まったく。よりによってこの煽るような曲の展開。このまま弾き進めてはならない。そういう思いが頭を行き来していた。第一楽章に戻ろうかと。スローテンポにせめて引き戻すべきではないかと。いや、考えすぎだ、と頭から振り払うように大きく首を振る。傍からは、己の演奏に酔いしれている輩に見えるだろう。仕方がない。
 からからに乾いた喉を鳴らしながら、私は眼球を再びテーブルの下へ向けた。少女は膝の上に右手の指をきちんと揃えて置いている。爪が赤く塗られているのがわかった。小さな爪だった。その下にナイフの柄の、木の色が見えた。左手は、テーブルの上のグラスに触れていた。表情は? 青年を、目を細めて見つめている。

「月光」の第三楽章は一気にスピード感を増した。指を無心に動かしながら、私の鼓動はそれに呼応するように、速くなっていった。
 この少女は誰かを刺してきたのだ。返り血を浴びて、隠そうとした。馬鹿げた考えだが、それ以外に思いつかない。待て、待て。自分が弾いているこの旋律に急き立てられているだけなのではないか。トマトソースで、血液のどす黒い赤を紛らわせるなんて、ふざけている! せめてワインで。あれ、二人とも酒を飲んでいないな。やはり、これから長い逃亡生活で……

 一度落ち着こう。曲を変えてもいい。しかし第三楽章を、まだ弾いていたい。


#小説 #散文 #短編 #BGM #ピアノ #月光 #タランテラ #スイミー #連載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?