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【short suspense】 BGMピアニスト beat3

 次の瞬間、彼女の右手がテーブルの上へ振りかぶった。
 私は、指を一小節に音を大量に押し込むように転がし続け、第三楽章の四分の四拍子から、八分の六拍子の旋律へ移行した。自分でも何の旋律かわからない。しかし、聴き憶えのある、懐かしい音符のつながり。
 彼女がこちらを見ていた。数秒間、目が合った。右手は首に触れていた。赤い爪が見えた。私は視線をずらした。一度、宙を仰いでから、薄目でテーブルの下のほうを見る。彼女の茶色いブーツの足元に、ステーキナイフに似た、バタフライナイフが転がっていた。
 大きく深呼吸をして、背筋をぴんと伸ばすと、私は先ほどから繰り返していたメロディを、一歩先に進めた。何年ぶりに弾くだろう。この、タランテラ。
 フロアじゅうのお客は、誰も音楽に気を留めない。少女だけが、こちらを見ていた。
 また、同じ旋律に戻ってきた。スタッカートで鍵盤を力強くはじき、私は立ち上がって指を離した。
 店内のざわめきが、途端に私の耳に戻ってきた。誰も、BGMが止まったことに気を留めない。この高さから見ると、少女と青年のテーブルに、色とりどりの皿が載っているのがよく見えた。少女はこちらを向いたままで、その視線の先を追って、青年がこちらを振り向いた。その目は私のほうではなく、あたりを見回していた。席についたときより、頬が土の色を帯びていた。
「弾きますか?」
 私は段を降り、少女の視線をとらえて、ピアノを両手で示した。
 遠くで、大きな笑い声の起こるのが聞こえた。皿とカトラリーが触れる音の向こう側に、微かにラウンジミュージックのようなものが聞こえた。なんだ。音楽がすでにあるなんて、とんだ野暮ではないか。

 少女は膝のナフキンを引き上げ、口元を拭った。青年は首をかしげている。テーブルの下で、ナイフが彼女のブーツの底に踏まれているのが見えた。

 少女は立ち上がり、正方形のステージへ上がった。こちらを振り向き、私がうなずくと、椅子へ腰掛けた。この四角い空間は、彼女の華奢な身体を収納していた。そのために、この正方形なのだ、とようやくわかった。青年は立ち上がろうとして、再び腰掛けた。
タランテラは、たどたどしかった。一小節に一度は音を間違えるものだから、そのたびに方々のお客がこちらを見た。目を丸くしている。

 タタララ、タララ、(客、振り向く)タララタララ、(客、振り向きそうで)タッタラッタター(やっぱり振り向く)

 コントのようで、私は吹き出しそうになった。ピアノがではなく、お客がもぐらたたきのように、あっちでくるり、こっちでくるり、と顔を現すからだ。旋律は、何度も繰り返されるうちに、徐々になめらかになってきた。前かがみだった彼女の姿勢も、バレリーナのように真っ直ぐ伸びてきた。ピアノの正面に映る、彼女の細い指が、快活に動き回っている。

 遠く外気が流れ込むのを感じた。対角線上の向こう側を振り向く。扉に警官が二人、立っているのが見えた。フロアに騒然とした空気が満ちてきた。その間を、水を掻くように、タランテラは響いていった。
 スイミーとその仲間たちが海を大きく泳いでいく。この曲を誰かが弾くのを聴くのは、初めてだった。曲の由来も、曲調も、海や魚とは程遠い。しかしやはり、これ以上ないほど、ぴったりとスイミーのストーリーを語っている。いま弾いている彼女には、そんなこと関係ないだろうけれど。白いニットの背中は、いまや大きく腕を広げて、鍵盤と戯れていた。青年はステージ下、彼女の横に立った。彼女と目の高さが同じくらいだった。動き回る指先を見つめるや否や、彼女にジェスチャーで降りるように示した。彼女は大きく髪を揺らしながら、鍵盤と自らの指に目を落とし、弾き続けた。青年は扉と少女を交互に見ては、指でピアノの角を叩いた。
オーナーが、警官たちを扉の向こうへ連れていくのが見えた。
「いまは皆さんの大切なお食事どきですから。どうか、ディナータイムが終わったら」
 たまに騒ぎが起きると、オーナーが毅然と放ち、外部の人に一息つかせる言葉。そしてまもなく、九時になったらさらに大勢の警官とともに戻ってくるのだろう。タランテラは短い曲だ。しかし、永久に弾き続けることもできる。アップライトピアノの艶やかな黒色に、二人の上気した顔が映っていた。正方形の限られた空間は、やはり、このためにあったのだ。あたりを見やると、この店の灯りや、音、フロアが、正方形へと続いている。
 青年は、少女の肩に触れた。彼女は弾き続ける。青年はその肩を大きく揺さぶろうとして、止まった。頭を振ると、テーブルの隙間をすり抜け、厨房の奥へと消えた。ものの数秒だった。タランテラは響き続けていた。彼女は目を閉じているのだろうか。顔を上げず、なんとも音をいつくしむように弾いていた。

 翌日、いつものディナータイムだ。私は今日こそは気兼ねなく、と月光にとりかかった。
 メロディの中の、たびたび長調になる部分が、いわば救いだった。手にじっとり汗をかき始めたのを感じながら、私は極めてドライに弾くことで、この場を乗り切っていた。同じ旋律でも、タッチや表現の込め方で、まったく違う顔を見せる。ピアノの横の席に、今日は老夫婦が座っていた。「せっかく予約していたのだからね」「でも、何もこんな次の日に来なくても」「同じ店を愛する者として、彼らが逃げとおすのを応援したいんだよ」「まあ、声を小さくなさって」
 彼らの会話とは全く別の次元で奏でられているのですよ、そんなことわかっているでしょう? 歌うように、指を滑らせていく。数秒、意識が飛んで、またしても目を閉じていた。ふっと薄く目を開くと、ぼやけた視界の向こうに、これまでピアノの横の席にやって来た幾人もの二人が、笑っているのが見えた気がした。私はうっすら自分の口角の上がるのを感じた。再び、意識が飛ぶ。「いつもの感じ」が訪れた。この店のフロアやテーブルや、ワインや、皿の上の牡蠣やウサギが、遠のいていった。自分の指先が、どこか知らない場所へ繋がり、帯のようにぐるぐると私の周りの空気ともども巻きつく。大きく放り投げられ、私は宙へ放り出される。不思議なことに、月のない夜だった。それなのに、月にまつわる曲が、私の指から放出されていた。耳から脳天へと突き抜けるのを感じ、私は目を開けた。

 目の前のテーブルの皿が割れ、ソースが飛び散り、グラスは粉々になっていた。椅子はひっくり返り、遠巻きに、お客たちが「ピアノの真横の席」を見ていた。その席には、誰の姿もなかった。たった今、倒れたばかりのように、床をワインのコルクがころころと転がっていった。ボトルの口から、赤い血が吹き出していた。

(了)

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