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"何を選択するか" じゃ

この前、『ハリーポッターと秘密の部屋』を観ていたら、ダンブルドア校長が気になるセリフを言っていた。

ハリーは、グリフィンドールという寮に入っているのだが、ハリーが闇の魔法使いヴォルデモートと同じ能力を持つことから、その寮の組み分けが間違っていたのではないか、ということをダンブルドア校長に告げる。すると、
ダンブルドア校長は、ハリーとヴォルデモートの違いは、その、選択にある、と言う。
ハリーはグリフィンドール寮に入りたい、と心の底から願った。それが、ヴォルデモートとの違いである、と言う。
そして、ダンブルドア校長は、
『自分が何者であるかは、能力では決まらん。"何を選択するか"じゃ』というセリフを言う。

確かにそうなのかもしれない。私たちは、無意識の日々の選択の積み重ねで生きている。
だから、普段はそんなに意識することはないが、日々の決断、というのは結構大事なはずである。けど、その割には結構適当に決断をすることは多いだろうな、と思う。

以前学校の課題で、Jane Austenによる『高慢と偏見』を読んだが、この作品は登場人物がそれぞれ異なる観点から様々な意思決定を下しており、その決断模様が結構面白い。この作品は18世紀後半に書かれたのだが、意思決定の仕方が今となんら変わらないな〜と思い知らされるのだ。
私はこの作品を読んで、意思決定というものは2種類に分けられると思った。

本質的な意思決定と体裁的な意思決定だ。

本質的な意思決定とは、特に理由はないが、なんだか胸がときめいて、その物事に惹かれる、というものである。要するに、自分本来の自分たらしめる何か、が感覚的にその物事を認識して決断しているのである。本質的な意思決定は、無条件性を擁しており、とくに理由や条件がなくても、その物事を決断したり、その物事に向かって一生懸命になれるというようなものだ。
わかりやすく言うなら、例えば、洋服を買いに行って、これ良い!と思って、これは絶対買おう!お金貯めよう!そう思うような感覚だ。
体裁的な意思決定とは、上記のような感覚がどうであれ、体裁や外的な要因によって決断を下す場合である。誰しもがよくあるだろう。学歴が欲しいから、良い大学を受験する。お金持ちと結婚したい、容姿が優れた人と付き合いたい、そんな願望。そんな意思決定が、体裁的な意思決定だ。

ただ、最近、なんだか、そんな、体裁的な意思決定ばかりをする人たちが増えているような気がする。
別に、体裁的な意思決定を否定する訳ではない。200年前に書かれた『高慢と偏見』でも、体裁的な意思決定をする人物もいれば、本質的な意思決定をする人物もいるし、Austenはどちらかを肯定否定する様な書き方をしていない。
でもそんなひとが、多すぎて、本当にそれでいいの?とは思うのだ。

だって顔が可愛いくて、価値観合わなくてもまあまあコミュニケーション取れる、自分を"ケア"してくれるような女子からアプローチされれば、付き合うんでしょ、お前ら。

そもそも、この体裁的な意思決定の根源は、高学歴が素晴らしい、容姿が優れた人が素晴らしい、お金持ちが素晴らしい、友達が多い人が優れている、スポーツができる人が優れている、すなわち社会的ステータスがある人がカッコいいとかいう冷静に考えればその根本理由がよくわからない価値観を持っている人が年々増えているということなのではないか?
と思うのだ。結局そういう価値観や決断って、そういう素晴らしい何か、を持っている人や物を手に入れることで、自分の価値を認識したい、とか、自分に自信をつけたいという、意外と自己中心的なものなのではないか、と思ってしまうのだ。それに、こういう体裁的な決断って、とても相対的だ。他者と比べてどうだ、という必ず他者を介した指標である。でもそういう相対的な指標って、本当の意味での幸せ、に繋がるのだろうか。
本当は自分の心の奥底に無意識の劣等感や低い自尊感情が隠れていることにも気づかず、体裁的な意思決定のループにハマっているということなのではないかと思わずにはいられない
のだ。

ここで、体裁的な価値観を否定したいわけでは、本当にない。
でも、私の経験上、体裁的な決断だけをしようとして、心の底から納得感や肯定感を得られたことは一度もない。体裁的な意思決定は、相対的すぎるので、上を目指し続け、際限なく他人と比べ続け、満たされることがないのである。体裁的な意思決定を行なったところで、それは欠けているものを底の無いバケツに満たそうとしているだけで、本質的ではないので、満足感が得られず、『蜘蛛の糸』状態が続くだけである。相対的な物は脆いのである。でも絶対的で本質的な指標や決断は相当堅い。そういうものから、本来の自信や自分らしさ、を手に入れることができるのではないか、と思ってしまう。

勿論体裁的な意思決定が居心地が良く、それに慣れきっている人も沢山沢山いると思う。それはそれで良いと思うのだ。それが自分らしいのなら。

でも、たまには心の奥底の自分の声に耳を傾けてもいいんじゃないか。本当は自分は何を求めているのか。そして、どんな選択を求めているのかを。

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