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「練習する時間」の輝き――乗代雄介『旅する練習』

前話:永遠の瑞々しさと本格ミステリーー仁木悦子『猫は知っていた』 / 次話:台北の風をあつめて――高妍『綠之歌(上・下)—収集群風—』

 乗代雄介『旅する練習』(講談社)は、第164回芥川龍之介賞候補作です。ただ、惜しくも受賞には至りませんでした。

 その代わりというのも変ですが、乗代さんはこの作品で、第34回三島由紀夫賞と第37回坪田譲治文学賞を見事ダブル受賞しています。

 そういう意味で、話題作ということは間違いないのですが、わたしは何より『旅する練習』っていうタイトルが素敵だな、と思っていたんです。

 それで今回、このずっと気になっていた作品を読んでみたのですが――

 うわあ、わたし、泣いちゃいましたよ!
 
 作品のラストには賛否両論あるという話は聞いていたのですけれど、それはわかる気がしました。

 あのラストがいいか悪いかは、正直わたしには判断できないのですが、「心を揺すぶられ度」でみれば、最近読んだ作品の中で、間違いなくベスト1でした!

 先ず、『旅する練習』のあらすじをご紹介しましょう。

 主人公は中学入学を目前に控えたサッカー少女・亜美。時は2020年の春。

 コロナによって学校は休校。春休みに、小説家である叔父の「私」と二人で、鹿島アントラーズのホームゲームを観に行くという計画も中止せざるを得なくなってしまいます。

 すっかり元気がなくなった亜美に、「私」はこんな提案をします。千葉県の安孫子から茨城県の鹿島アントラーズの本拠地まで、利根川沿いに歩いて行ってみないか。

 しかも、ただ歩くのではありません。サッカーの練習をしながら歩くのです。冒頭近くを引用してみましょう。

「利根川の堤防道をドリブルで歩く。ほとんど誰もいないし、好きな時に河川敷に下りればボールも蹴れる。不要不急の外出でも、この辺で街をうろつくよりはよっぽど感染対策になるかもしれない」
 大きく息を吸い込みながら見開かれていく目。
「練習しながら、宿題の日記を書きつつ、鹿島を目指す」
「行く!」挙手して叫んだ。

『旅する練習』pp.10-11

『旅する練習』の最大の魅力は、何と言っても、この元気いっぱいの亜美ちゃんです。

 亜美ちゃんと「私」の関係が父娘ではなく、叔父・姪であることによって自ずと生じる微妙な距離感が、設定上の大きな特色になっていると思われます。

 かくして、亜美と「私」の「練習の旅」は始まります。

 しかも、「練習」するのは亜美だけではありません。「私」も、そうなのです。亜美がリフティングをしている間、「私」は風景を描写する「練習」をするのです。

 現代ではあまり重視されなくなりましたが、明治時代に「写生文」というのが提唱されて以来、「写生」するように風景を描写することが重要な文学修行だと考えられた時代がありました。

 明治以降も、「自然描写」は日本近代文学の中で重視され続けました。
 例えば、志賀直哉がその畢生の代表作『暗夜行路』を、昭和12年4月、十五年越しに完結させた時には、ラストの自然描写の美しさが当時の文壇で絶賛されました。

 余談ですが、志賀直哉がかつて「小説の神様」とまで呼ばれながら、今はあまり読まれなくなったのは、「自然描写」が重視されなくなった時代と無関係ではないと思われます。

 さて、『旅する練習』の「私」は、まるでそんな日本近代文学作家たちのひそみならうように、ノートにシャーペンで風景を描写していきます。

「私」が最初にノートに記した風景描写の一部を引用します。

……白い光に照らされているのは、今はない志賀直哉邸の母屋の間取り図の描かれたコンクリートの平台ぐらいなものだ。そこへ何本かのヤツデが大きな葉を垂らしかけている。ヒヨドリのやかましい長い声が降ってきた。見上げた目が、あちこちにあるツバキの赤い花をいっぺんに認め、思わずその一つ一つへ視線を送っていくせいで、その姿が見つからない。その声に一番近いツバキの花をさがそうとしてしまっているうちに、もうヒヨドリは飛び去ったらしく、また木々のさざめきだけになった。
84

『旅する練習』p.16

  この旅が、安孫子の志賀直哉邸跡の附近から始まるのは象徴的な気がします。

 志賀直哉だけでなく、安孫子から鹿島まで歩く間に、田山花袋や柳田國男の文章が引用され、彼らの見た風景の片鱗が、まだこの国に残っていることを教えてくれます。

 上記引用部の最後に記された「84」という数字はなんでしょう? 

 この数字は、亜美のリフティングの回数なのです。

 旅の終わりには、この数字はなんと「257」になるのです!

 亜美ちゃん、すごーい!!

『旅する練習』は、練習の大切さ――と言ってしまうと月並みな感じになってしまうのですが、何かを「練習する時間」が、実はどれだけまばゆく光り輝いているかを教えてくれる気がします。

 亜美と「私」の旅には、途中からみどりさんという、大学を卒業し、就職を控えた若い女性が加わるのですが、そのみどりさんに亜美がいった次の言葉は、深く読者の心に残ります。

まだサッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい。

『旅する練習』p.138

「本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きる」というのは、じみで忍耐力の要る「練習」を、自分に課し続けることを意味します。それを「すっごく楽しい」と言い切る亜美に、今までの自分を変えようとしていたみどりさんは、強く心を揺さぶられるのです。

 みどりさんは、亜美がいない時にこっそり「私」に、自分は亜美を「尊敬しちゃいます」と語ります。

 このように年齢的にはずっと上の人が、サッカーこそ上手なものの、「私」に「ダイイングメッセージ」みたいだと揶揄からかわれるほど字が下手で、コンビニのおにぎりを開ける時には、必ず海苔を破ってしまうような少女に本気で励まされるのです。そういう一種の逆転が、『旅する練習』のユニークで、且つ感動的なところだと思います。

『旅する練習』には、物語の筋を追うより、細部をじっくり味わう読み方が適しています。

「私」がノートに書き記す、細やかな自然描写もその一つですが、作者が随所に施してある、さりげない仕掛けも、作品の大きな魅力になっています。

 例えば、皆さんはここまで、「亜美」は「アミ」と読むと思っていたでしょう?
 かく言うわたしも、55頁の亜美とみどりさんの会話を読むまではそう思っていました。だって、(わざと)名前にルビが振ってないんだもん(笑)

その笑顔にかしこまった亜美は、「あの」と少し口ごもってから「おねーさんのお名前は?」と訊いた。「あたしは亜美っていうんですけど」
「アビ?」とその人は興味深そうに言った。「どうやって書くの?」
「亜細亜の亜に――」何度か隣で聞いてきたこの自己紹介には、私にも役割があって面倒くさい。「美少女の美で、アビ」
「よく自分でそんな説明できるな」

『旅する練習』p.55

 自分で「美少女の美」と言ってしまう亜美あびちゃんがたまらなくキュートですが、この名前は、実は叔父である「私」がつけたものなのです。この名前の由来については、ラスト近くで明かされます。

 ああ、それにしても、あのラスト――

 再読すると、最後の一頁、それも最終行から数えて8行目のために、作者がその前からいかに慎重に、細かい伏線をちりばめていたかがよくわかります。

 それはミステリの伏線とは異なり、微妙な文章表現による伏線なのですが、ネタバレにならないよう、この辺で止めておこうと思います。

 旅って人を成長させるよね、と思う人。
 歩くことが好きで、道の歴史などに触れることが好きな人。
 子供が生き生きと描かれた作品が好きな人。
 そして何より、文学に思い切り心を揺さぶられたい人。

 そんな人に――乗代雄介『旅する練習』、お薦めです! 

前話:永遠の瑞々しさと本格ミステリーー仁木悦子『猫は知っていた』 / 次話:台北の風をあつめて――高妍『綠之歌(上・下)—収集群風—』