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【小説】くちなし(2/3)

2022年11月発行の「くちなし」。
書籍は完売、再販の予定もないため、公開します。

──妄想と現実に境を付けるな! 雑誌広告の女に恋をする仮想恋愛小説。
恋の夢想とその生活は時代を問わない。
大正末期に新時代が香る、独り善がり恋愛小説。

ここは中段。上段と下段はこちら。


 間借りしている部屋は木造長屋の二階の一室で、先の大地震で焼けたところを作り直したというものなのだから、木材の匂いのする新しい建物だ。しかしこの東京で、現在街を見回してみると、それは特段変わり映えのしないことであるかもしれない。あの時は俺の住んでいた長屋も須く燃えてしまい、残ったものは命からがら運び出した画材道具一式くらいのものだったから、画廊の店主の方がそれは悔しがっていたものである。
 画廊の店主は高瀬という五十格好の男であるが、初めてその高瀬に会った時、目に涙さえ浮かべて俺の絵の前に立ち竦んでいるのだから驚いたものだ。曰く、
「日常の機微を察知して的確に描き出したるその感性センス、色使いの良さ、静物画と空想の世界の交雑。どれをとっても苛烈・繊細、全体の調和のとれた見事な作風」
 とのことである。それは学校の卒業試験のために描かれたもので評価も凡庸以下、今となってはどういう心持ちで描いたものであったのかも朧げであるというのに、高瀬はその絵だけは俺から買い取ったのち、売りもせず画廊の一室に掛けたままにしている。
 その時から俺の絵は、高瀬画廊が間に入って展示をしたり売ったりしているのであるが、俺の絵は割に売れるらしい。実際それで俺の生活も成り立っているのだから、その言葉は間違いではないのだろう。俺も俺の描くもののことを悪く思ったことはないものであるが、それにしても人を喜ばせるような絵を描いているつもりは毛頭ないのだから、一定の顧客があるということが不思議な心持ちもする。


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