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【小説】くちなし(1/3)

2022年11月発行の「くちなし」。
書籍は完売、再販の予定もないため、公開します。

──妄想と現実に境を付けるな! 雑誌広告の女に恋をする仮想恋愛小説。
恋の夢想とその生活は時代を問わない。
大正末期に新時代が香る、独り善がり恋愛小説。

ここは上段。続きはこちら。


 紙の上に存する女に恋をした。濡羽の髪をおかっぱにして脛を見せる洋装はいはぬ色、椅子に腰掛ける様は毅然として、ツンと上向いた顔の燃ゆる頬に、肌は上等の正絹の白さ、薔薇色の唇が麗しい。写真であるから、その色は本当のところはわからないものの、俺にはそれらが、前述の色をしていると信じて疑えない。俺は絵描きだから、そういった色の機微には聡いのだ。きっとそのような容色の女であるに違いなかった。
 女をはじめ知ったのは、新しく刊行されると前々から大々的に広告されていた大衆雑誌で、女と出会った時のその光景は、今でもハッキリと覚えている。松の内もとうに越した新春の、よく晴れた、風は冷たいのに陽は緩い午後のことだ。六畳の狭い部屋を油の匂いで充満させ、ナイフで画面を撫で付けるのに飽きた頃、画材の生活している部屋の唯一自分のものである万年床に転がって、買ってからしばらく放っておいたそれを手にとった。正月らしい日の出を背に、髪を崩した女が淡く笑んでこちらに目線を投げかけている。もとより特段の興味もないものを無理に引き出された好奇心一存で買ったのだから、表紙の女の絵に翼が生えていることすらも気に食わず、一体何者だいと思ったものだ。
 初めは手に取りもしなかったその雑誌を手に取らせたのは、流行り物好きの東家トウヤのせいで、あれが出版する前から周りにその雑誌を喧伝し、そうこうするうちに本当に世間がその話に持ちきりになるのだから、つい読んでみようという心を持たされた。それでも表紙は気に食わないし、随分と部屋の隅で絵具の下に隠されていたのだが、それを思い出して引っ張り出したのは、つまりはただの気まぐれというやつだ。
 内容というと、経済の数字を追ったかと思えば大衆小説が挿しこまれ、落語があるかと思えばダンスの良し悪しの話まであり、あらゆる話題を網羅している。目は通すものの浮薄な内容を読み飛ばし、それが結局のところ大半でハナも引っ掛けなかったが、一通り頁を繰った中から、ハタリ、その女と目が合ったが最後、俺の心はタチマチ盗まれたというわけだ。
 女の写真など、今時珍しくもないものを、果たしてどれだけ眺めていただろう。街の上でも極稀に見かけるようになった洋装の女に特段惹かれるということもない。断髪した女は軽佻浮薄、不純であるとすら思っていたのに、果たしてどうだろうかとなぜかそのようなことがここで初めて思われた。女の写真は三枚ある。安楽椅子に腰掛けて真っ直ぐにこちらを見つめているもの、鏡に向かった横顔の胸像は形の良い唇がよく見える。そして引き締まった足首を隠しもしない堂々たる立ち姿。そのどれもが、まるで女がそこにいるかのように思わせるのだ。ちょっと目を離すと、女は動き出すに違いない。俺には女がその肢体をもって活発に動く様がありありと見つけられた。
 決して小さい女ではないのだろう。他の女の間に入ると、頭ひとつ抜けているような背の高さがあって、それに似合うように闊達に歩む様が誇らしげだ。女らしい肉付きは良くはないのだが、芯の通った背筋をしていて、男のような見え方のする筋肉の付き方は健康的な運動に向いている。事実女は軽々と画架とカンヷスと写生箱とを一緒くたに持ち歩くことができるだろう。大きなカンヷスは風に煽られるのが常であるが、女はそのようなことにはびくともしない。かといって絵を描くような女ではないので、これはあくまで俺の身近にあるものに例えた話だ。運動する身体の美を、その女は肉体に宿している。
 また女は愛想で笑うというようなことはせず、赤い紅ルージュを引いた口元は、女の気分に従ってのみ動かされる。不快な時は容赦無くの字に曲げ、陽気な気分が自然に口角を上げさせる。女は、誰の気分をも受けることなく、正しく自らの表情を使うのだ。キリと細く引いた眉が鋭角に、日頃はキツイ印象を与えているのであるが、気分のために転がる表情がその印象を緩和する。新しきものをいち早く遣り熟すような女だから、その心根は浮薄なのではなく、身体と同じように芯は通っているのに柔軟に湾曲する背骨を持っているにすぎない。新しく自由な女モダン・ガール。颯爽と歩く姿は、人々の視線が女の身体に一心に注がれる由となる。
 近年様々な議論を賑わすモガを選び取った女は、それ故に人々の視線をきちんと明確に把握している。女の肢体に注がれる視線を受け入れて尚勇ましく、撥ね付けることも厭わぬその気性が、自ら纏う衣を選ばせ、猥雑な視線を躱すスカートの裾となる。飾りたてた洋帽が誰よりも短い断髪の首筋を更に眩しく飾り立て、その首筋を軽く捻って俺を見る。
「何か御用」
 と発される声の無色透明なこと。
「ああ何というわけじゃあないんだが……」
 俺がもごもごと言葉を濁すと女はジッとその力のある瞳で俺の顔を見回して、俺の下心をすぐさま見抜いた。──いいやこれではいけない。この返答では、この女はきっと俺を見放してしまう。そもそも女に出会う状況を考察するに……といった具合にただ三枚の写真を眺めて、ふと気がつくと冬の短い日は暮れようとしていた。


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