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【小説】くちなし(3/3)

2022年11月発行の「くちなし」。
書籍は完売、再販の予定もないため、公開します。

──妄想と現実に境を付けるな! 雑誌広告の女に恋をする仮想恋愛小説。
恋の夢想とその生活は時代を問わない。
大正末期に新時代が香る、独り善がり恋愛小説。

ここは下段。上段と中段はこちら。


 改めて生活をしていると、女は至る所で俺の生活を侵食している。
 寝起きに寝惚けている時に、
「あなたはいつ起きたって良いんだから気侭なものね」
 絵を書いている間、
「もうヴィリジャンの予備がないみたいよ、買い付けないと」
 気晴らしに読んだ新聞の内容、
「今度はお酒の広告にでも出してもらおうかしら」
 画廊からの帰り道、
「お疲れみたい。たまにはゆっくり湯治でもなさったら」
 カフェーの女と話している時にも。
「男の人ってほんとにこういうのが好きよね」
 部屋の中でも、街の上でも、女の影がずっとどこかにちらついている。気がつかない間はそれで不便もなかったが、気のついてみると己が頭の可笑しさに慄然とする。俺はいつの間にか、紙の上にしか存しない女に狂わされてしまっていた。
 女を夢に見ることも、その不確定の将来の生活を考えることも、それ自体に於いては、この自由恋愛の時代なら問題のあることではないだろう。しかしこの場合、それは相手が人間であり人間でないのだから、熱狂とも呼べず、恋情とも違う。
 この歪んだ情欲の果て。
 ──まさに狂気! それはまさしく狂乱であって、その他に何と名付けられるものでもない。
「いいじゃありませんか、物狂いでも。最近よく売れるんでしょう、あなたの絵」
 女の声が耳元で囁く。俺はこの声色を、どこから想像したものだろう。女の声は借り物だったが、女の言葉は真実だった。東家トウヤがあの時指摘した、女の変わった瞬間に描き上げた絵。まさにそこから後に描いた俺の絵は、今までより遥かに早い回転率で、描いたそばから売れている。
「世間にようやく火が点いたな」
 とは東家の言だが、「俺が買い付けるのはもう少し待とう」とも忌憚なく言って、描きかけの絵を眺め回しながら腕組みをしていた。俺もそれには同意見である。


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