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龍の女

 さながら魚のように泳ぐ女がいて、それは龍の生まれ変わりだともっぱらの噂である。その女はひとたび水へ入れば、どの海女よりも長く潜り、海豚と同じかそれ以上の速さで自在に泳ぎ回る。幼き頃は泳ぎの名手だと持て囃されたが、女が美しく成長するにつれ、次第に村人はそれを気味悪がるようになった。それは女の両親も同じであったのか、血を分けたはずの人間でさえ、龍の女とは距離を置いている。唯一その女と必ず同じく行動しているのは双子の片割れであり(出生順を誰も知らない)、片時も離れることなく双子は行動している。ただし、その片割れは特段泳ぐことがうまいわけでもない、凡庸な、人間である。村人はその泳ぎの名手を、龍の女、と陰で呼んだが、女は気づいているものか、気にした風もなく、また傍目にはその泳ぎの能力も尋常の人間の持つそれであると疑わぬようであった。

 その年はひどい凶作、天候も長く不順で漁にも出られず、そこに村が起こってから最大の飢饉であった。幼きもの、老いたもの、身体の弱ったものがまず先に死んでいった。比較的健常であったものたちがそれを弔ってきたが、その気力すらももはや失われようとした矢先、誰からともなく囁く声がする。

「社に生贄を出そう」

それまで、村人たちは晴れの日も嵐の日も欠かさず、村で獲れる作物や、漁で獲れる魚介類を社に捧げてきた。その社に鎮められた龍は、暴れ狂っただとか、生贄を要求しただとか、そういった類の話は残っておらず、極めて温厚であったように言い伝えられているので、供物を運んでいたのも、そういう習慣であったから続いていただけ、といえばそれまでのものであった。けれども食糧不足に陥って長らく、その供物をしていないことに、誰もがこの苦しみの原因を見出そうとしたに違いない。この飢饉を龍による何かしらの祟りであると、そう村人は決めつけてしまった。

 そうして誰を捧げるか、……誰しもが考える間を持たなかった。白羽の矢が立ったのは勿論、龍の女である。しかし龍の女は、それでも村の食糧調達に寄与していた。それはどんな荒波の中も泳いだので、舟の出せぬ荒天をひとり漁に出て、いくらも魚を獲っていたのだ。それを失うのは、惜しいという気持ちが誰の心にも芽吹いた。そこからは協議の末に、龍の女の片割れがその役目を成すことと決まった。

 片割れは、抵抗しなかった。その親でさえも。しかしそこに唯一歯向かったのが龍の女で、そこまで気性の荒かったのかと村一同が驚くほどの狂乱ぶりを見せた。龍の女は元より、必要外の言葉を発さぬような質であったのに、この時の女は誰にも手をつけられぬほどであった。村を挙げて女を宥めにかかったが、それを完全に成すことはできずに、龍の女は果たして生贄を運ぶ小舟に乗り込んでしまった。

 生贄となる片割れと、船頭と、龍の女の乗る舟が、天候の回復しない海上を進む。普段であれば大した距離でもないその小島は、遥か彼方にあるかと思われるほどに、舟の進みは芳しくない。風に押され、波は舟を超え、ア、という間に呆気なく、黒い波が舟を呑んだ。海に投げ出された身体を支えられるものは何もない。もがけども転覆した舟の端すら掴めずに、段々と身体が沈んでいく。海の中は途轍もなく暗かった。視界の全てが闇で、呼吸を求めて口を開閉させるしか成す術がない。暫くは抵抗らしい抵抗もしたが、痩せた身体はすぐに動かなくなる。ああもう水を呑む。喉が開いた刹那、視界の端で何かが閃いた。

 龍だ、と思った。白い鱗が、射していないはずの陽光に煌く。長い尾を引いて静かに泳ぐそれの美しい姿を視界に捉える。と、同時に、私は水を吐いた。咳き込む身体を落ち着かせれば、いつしかそこは社の、鳥居の中であった。松明の消えている洞窟内は暗く、人の気配がしない。自分だけ助かってしまったものだろうかと、自らの任務の失敗に動悸を早めたが、失われた希望にすぐさま深く落ち着きを取り戻した。……このまま飢えの苦しみに苛まれながらほんの少しずつ死に近づいていくのみの道は、絶望ではあるが道筋が全て見えている。これ以上足掻いてどうなるものでもない。起き上がる気力もなく再び目蓋を閉じる。呼吸に集中する。意識が落ちる矢先に、ふと目蓋の裏が赤く光を帯びた。その不思議な色に思わず目を開ける。その頃にはその色は失われていたが、どうやら天井に近いあたりで発せられたようだった。

 洞窟内は高さがあり、本社は私の寝ているこの鳥居の先を右に折れて、長い石段を登ったところにある。寝ている私に見えている龍の石像は、海と、村をも遠く見渡しているが、ようく目を凝らすと、そこに誰か、生き残っているのが見えた。石像の端に、誰かが立っている。ぼわぼわという頭を揺るがす音は耳鳴りであると思っていたけれど、どうやら洞窟に反響した話し声であるらしかった。

 龍の女が誰かと話をしている。しかし片割れの姿は見えない。と、また先ほどの色が天井を走り、それは炎であると正体が知れた。石像が口から炎を吐いている。それが幾度も繰り返され、その熱がとうとう私の身体をも温めるように感ぜられた時、その暑さは唐突に冷気へと変化した。急な刺激に身体を竦める。ぼちゃん、と音がして、何事かと目を向けると、龍の女が海へと飛び降りていた。思わず身を起こす。女は、海の底へと吸い込まれていく。波を忘れた海面が透き通って、その内部を輝かしく私に見せた。女は泳いでいた。海豚よりも早く、海面に呼吸することもなく。白く光る着物が尾のようにあとを引くので、私が瀬戸際に見たのはやはり龍の女であったに違いないと思った。縦横無尽に泳ぎ回るそれに見惚れていると、しかしあるところから影をふたつに分かちた。ひとつは、五尺にも満たない白さで、女の身であったが、もうひとつは十尺よりもまだある、光の帯である。きらりきらりと翻り、それは水の流れを作っていく。女の手がしなやかに水面に上がり、戻した先に掴んだ象牙の艶やかさのそれが確かに龍の角だと見え、女はやはり龍の女であったのだとひとり得心した。

 暫くその夢のような光景を眺めていたが、はたと気付けば失神していて、別の小舟で来たものか、女の両親と村の人間に上から覗き込まれていた。助けられながら身を起こせば遠目に龍の女と片割れが何事もなかったかのようにこちらを見ていて、最後まで頑なに目を覚まさないでいたのが私らしかった。村人が慌てた声で私に何事かを捲し立てるので、その声につられて村の方を見遣れば、先までの天候が嘘のように穏やかな海が広がっている。

 その後、生贄を置いて村へと帰ったが、龍の女が世話をしていたのか、片割れはいつまでたっても召されることもなく、いつしか村へと帰ってきてしまった。それと同時に潮目も変わったのか、農作物は依然からっきしだったが異例の豊漁が続き、それ以降村の人数を損なうこともなく、年を越し、今に至っている。私の見た龍の話は誰にもすることはなかったが、私の助けられた時の様子を鑑みるに、どうも双子の両親はそのことを知っていたのではないかと今となっては思い直している。当の龍の女は今も変わらず村に暮らしており、さながら魚のように泳ぐ姿を今でも誰もが見かける。

 ……と、いう夢を見たのサ。


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