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【ピリカ文庫】短編小説「バス停と猫」(テーマ「窓」)

 朝七時半。
 二階の窓から外を眺めると、道路の向かいにバス停がある。通勤や通学のためにバスを待つ人達が列を作り、たった一つある青いベンチには額に白い富士を持つ白黒柄の猫が鎮座していた。
 小さなセーラー服を身に着けた女の子が、スーツ姿のお母さんに手を引かれて列に並ぶ。お母さんは膝を曲げて女の子と視線を合わせると、「気をつけてね」と言ってから道路の反対側にあるバス停へと向かっていった。
 マコちゃんは私立の小学校に通っていて、身体の体積に対して大きすぎるランドセルを背負っている。お母さんが行ってしまった後、いつも下を向いて少しだけ泣いているのを私は知っていた。
「ハチワレ」の猫がベンチからひょいと飛び降りて、「なぁ」と鳴きながらマコちゃんの足元にすり寄ると、マコちゃんは「行ってくるね」と言って目元をこすってから前を向く。それをマコちゃんの前に並んでいる総菜屋のパートに向かう途中の岡崎さんが見守って、マコちゃんのお母さんに様子をメールするのだ。

 バスの到着時刻が迫る頃、マコちゃんの後ろに並ぼうと駆けてくる男の子がいる。高校一年生の理央くんは、まだバスの姿が見えていないことを確認するとマコちゃんの後ろで立ち止まり、何度か深呼吸をして息を整えた。
「岡崎さん、おはようございます」
 バス停にできた列の後ろを通り抜けようとする遥ちゃんは、同じアパートに住む岡崎さんの姿を見つけて挨拶をする。中学校へと向かうには少し早い時間だが、遥ちゃんは早起きをして受験勉強に励んでいるらしい。
「ああ、遥ちゃん。おはよう。今日も勉強がんばってね」
 岡崎さんが遥ちゃんに向かって笑顔で手を振ると、遥ちゃんも手を振り返す。けれど、遥ちゃんの視線の先にいるのは岡崎さんではなく、理央くんだった。
 毎朝、遥ちゃんが彼に会うためにこのバス停までやって来ることを、私は知っている。

 ある日の朝七時半。
 いつものようにトーストの上にバターとたっぷりのイチゴジャムを乗せ、それを頬張りながら窓の外を眺めていると、ある異変に気付いた。
 青いベンチの上には今日も「ハチワレ」がいて、小さなマコちゃんを大人達が見守っている。しかし、マコちゃんの後ろにいつもやって来る理央くんがいない。
 バスの到着時間が近づくと、遥ちゃんがやって来て岡崎さんに挨拶をする。遥ちゃんは笑みを作っていたけれど、彼がいないことにすぐ気が付いたようで、並んでいた人達がバスに飲み込まれていった後も、彼が走ってくる方向を見つめていた。
「ハチワレ」の猫は、ベンチの上で寝そべって「腹をなでろ」と遥ちゃんに訴える。ベンチに腰掛けた遥ちゃんは「ハチワレ」の白い腹を優しく撫でながら、「毎日会いに来てたから、気持ち悪かったかな」と言って静かに泣いていた。
 彼女の手には小さなピンク色の紙袋が握られている。ああ、そうか。今日はバレンタインデーだったのか。
 遥ちゃんがいなくなった後も、暫くの間窓の外を眺めていたが、理央くんがバス停にやって来ることはなかった。

 それから二週間、理央くんは七時半のバス停には来なかった。
 彼が来ないからといって私には何の関わりもないのだが、それでも気になって仕方がない。完成されたパズルから一つだけピースが消えてしまい、ずっと見つからないままでいるような、そんな気持ちに似ていた。
 そこで、いつもより一時間早く起きて、窓からバス停を観察することにした。
 通勤・通学がピークの七時台に比べ、六時台は人けが少ない。六時半のバス停には四人ほどが並んでいるが、黒いコートやトレンチコートに包まれたスーツ姿のオフィスワーカーがほとんどで、どことなく皆が他人に邪魔されたくない空気をかもしている。青いベンチには「ハチワレ」もおらず、滋味のない景色に思えた。
 バスを数本見送ると、七時十五分のバスがやって来る。この頃になると段々と人が増え始め、部活の朝練に向かうのだろうスポーツ青年の姿もちらほらと見え始めた。一定の間隔を開けながら彼らが同じペースでバスに乗り込んでいくと、誰かが駆け足でバスに近づいてくる。
「あ、理央くん!」
 思わず声を上げた。窓に手をついてガラスを叩いてみるが、理央くんは全くこちらに気付かない。
 理央くんがあっけなくバスに連れていかれると、いつの間にかベンチの上に「ハチワレ」が座っていた。次のバスを待つ人達は手元のスマートフォンかバスがやって来る方向を真剣に見つめていたが、「ハチワレ」だけがこちらを見て「なぁ」と何か喋りかけていた。
 その十五分後、遥ちゃんが岡崎さんに挨拶をしてから「ハチワレ」の腹を撫でるためにベンチに座った。バレンタインデーの翌日以降、同じ制服の女の子が彼女に付き添って、彼が現れるのを二人で待ち続けている。
「あと十五分早く来れば……」
 遥ちゃんにそう伝えたかったけれど、私の息は窓ガラスを一瞬曇らせただけ。レースのカーテンを閉めると、そのまま部屋の奥へと引っ込んだ。

 四月上旬の朝七時。
 春の空気は特別だ。人々は重いコートやマフラーを取り払い、冬の間に成長した姿を見せつけてくるよう。軽やかな装いにまとったパステルピンクやレモンイエローが、咲き誇る花のように眩しく映る。
 マコちゃんは、バス停でお母さんと別れた後も泣かなくなった。岡崎さんは息子のカイくんが大学に合格し、彼を東京に見送ってから髪を綺麗な明るい茶色に染め直した。
 七時十五分のバスに駆け込んでいた理央くんも、七時十分にはバス停の列に並ぶようになった。理央くんは、この一年でだいぶ背が伸びた。
「あ」
 バスを待つ理央くんの後ろに、女の子が並んだ。あの子だ。いつも遥ちゃんと一緒に理央くんを待っていた子。
 ポニーテールの似合う活発そうな女の子は、理央くんの後ろにぴたりと付いて、何やらふざけながら彼の肩を軽く叩く素振りを見せている。どうみても、親密な関係だ。
 でも待って。何で理央くんとそんなに親しく話しているの? 遥ちゃんは、このことを知っているの? え、抜け駆け? もしかして、「遥の味方だよ」からの裏切りなの⁉

 いつの間にか、私は玄関から外に出ようとしていた。黒い上下のスウェットに黒いキャップを被り、春の朝には到底ふさわしくない恰好かっこうのままドアノブに手を掛ける。
「誰かにばれたら、どうしよう」
 そんな風に考えると怖くて仕方がないけれど、どうしても彼と彼女の関係を知らずにはいられない。
 小走りでバス停に向かうと、理央くんと女の子のすぐ後ろに並ぶことができた。彼らは私のことなど気にも留めていないようで、相変わらずふざけ合っている。聞き耳を立てていると、二人がお互いに「理央」、「チカ」と、名前で呼び合っていることが分かった。
「これはもう、付き合ってるんじゃないの?」
 そんな想像をしていると、チカに対してじわじわと怒りが湧いてくる。けれど、私は彼らとは何の関係もない人間なのだ。ここで急に怒り出したところで、近所の噂話のネタになるだけに違いない。
「ああ、でもこのままじゃ遥ちゃんが……」
 ぐるぐると思いを巡らせていると、道路の向こうに遥ちゃんの姿が見えた。なんと道路を渡り、こちらに向かってくるではないか。
 大変だ。遥ちゃんにとって大切な高校生活の始まりだというのに、朝から修羅場になる。元々傷心だった遥ちゃんの心がズタズタになってしまう。このままでは、友情も恋も一気に失うことになってしまう……!

 こんな時はどうすればいい? そうだ、いっそ私がここで倒れてしまおうか。幸い外に出るのは半年ぶりで、脚ががくがく震え始めていたのだ。理央くんとチカが親しいことを遥ちゃんはまだ知らない可能性だってある。私がここで倒れでもすれば、彼らもいちゃついているどころではないだろう。そうすれば、遥ちゃんは悲しい事実を知らずに今日を過ごせるのだ。

「あ、遥だ。やっほー! こっちだよー!」
 私が考えあぐねていると、チカが突然、大きな声で遥ちゃんを呼んだ。
 え、やめて? 遥ちゃんの好きな人と仲良いところを見せつけたいの? ええい、これはやけになって、私が倒れるしか……!
 しかし、私が覚悟を決めるも手遅れだった。遥ちゃんはチカの隣にいる理央くんの姿を見つけてしまう。遥ちゃんは、あまりの驚きにうまく声を出せずにいた。
「え、え、え……?」
「遥、どうしたの? 遅いからバスに乗り遅れるかと思ったよー。あ、この人ね、理央。一応、私のお兄ちゃん。同じ高校だよ」
「「え?」」
 思わず遥ちゃんと同時にチカの顔を見る。なんと理央くん、妹がいたの⁉
「本当はね、七時半のバスでも学校に間に合うんだけど、十五分のバスに乗ると電車がちょっと空いてるって理央が教えてくれたんだ。だからね、遥も誘ったの」
「妹がいつもお世話になってます」
 遥ちゃんに向かって、理央くんがぺこりと頭を下げる。
「い、いえ、どうも、こちらこそ」
 遥ちゃんは小さな声で返事をすると、顔を真っ赤にしてうつむいた。

 七時十五分のバスが三分ほど遅れて到着し、私はよろよろと後ずさり列を抜ける。
 後ろのベンチに腰を下ろすと、三人のえんじ色のブレザーの背中を見送った。三人はバスの後方の席に座ると、何かを話してから、なぜか私に手を振っていた。
 誰も降りる気配のないバスの後方扉が開き、猫が一匹、ひょいと飛び出してくる。「ハチワレ」の猫は青いベンチの上にジャンプすると、私を横目で一瞥いちべつしてからいつものようにゆったりと座った。それが合図のように、バスは扉を閉めて発車した。
 
 暫く放心していると、次のバスに乗る人達がバス停に並び始める。
「あら、響子先生。お久しぶりです。カイは今年の春から大学生になったんですよ。中学生の時に響子先生にピアノを教えてもらって、今はバンドなんてやっているの。今度聴いてあげてくださいね」
「キョーコ先生、もうピアノ教室はやらないの? バイエル、弾けるようになったよ」
 岡崎さんとマコちゃんが、それぞれ話かけてきた。
 そうか。こんな姿でも気付かれていたのか。だから、理央くんや遥ちゃんもバスの中から手を振っていたんだ。
 七時三十分のバスが来ると、岡崎さんとマコちゃんも手を振りながらバスに乗り込んでいった。

 音大を卒業して、ピアノ講師をしていたのは、まだ皆がもう少し小さかった頃。来てくれる子供たちは可愛くて、ピアノを教えることは楽しかったけれど、夢を諦めきれず講師を辞めてコンクールに挑戦することにした。けれど、その先にあったのは、「名前を呼ばれることのない日々」だ。胃が千切れそうな痛みを抱えて演奏を終えても、壇上に呼ばれるのは「寄り道をせず、音楽を奏でることだけに没頭してきた人達」だった。
 私の名前は、あってないようなもの。この世界には必要のない名前みたいだった。

「響子先生」
 そう呼ばれて、じわじわと何かが込み上げてくる。思わず空を見上げると、淡い青空に小さな桜色の花びらが舞っていた。
「ハチワレ」はそんな私の気持ちなんて関係ないとでも言いたげに、膝の上に乗って眠り始める。艶やかな黒毛の背中を撫でると、「なぁ」と気持ちよさげに鳴いた。

 八時のバスが到着すると、珍しく人が降りてきた。
「やっぱりここにいた! なんで毎朝逃亡するのよー! すみません、うちの『オット』がご迷惑おかけして……」
 大きな花柄のエプロンを身につけたままの女性が、申し訳なさそうに私の膝の上から猫を抱え上げる。
「いいえ、迷惑なんて、そんな……」
「どうやら出勤する娘を追いかけてバスに乗るみたいなんだけど、なぜかいつもこの停留所で降りているみたいで。こんなこと危ないし、皆さんのご迷惑にもなるから、家の扉や窓を開けっぱなしにしないように気を付けているんですけどね……。トホホ」
 主人にしっかりと抱えられ、「ハチワレ」もとい「オット」は諦めたように身を任せている。女性は笑顔で手を振ってから、バスが来た方向へと歩いて帰っていった。

「オット」
 それが君の名前だったのか。ちゃんと名前を呼んでくれる人がいて良かった。

 さあ、私も家に帰ろう。明日は窓を開けてみたら、誰かが手を振り返してくれるかもしれない。


(了)

(4963文字・ルビ込)


ーーー

最後までお読みくださり、ありがとうございます☺

今回は、ピリカさん主催の『ピリカ文庫』に二度目のお声がけをいただき、
「窓」をテーマに小説を書かせていただきました。

「窓」と聞いて思い浮かんだのは、新生活の始まりや青空に桜の花びらが舞う景色。

今回の「窓」は覗き……、というよりは「見守りの目」を描けていたらいいな、と思っています(笑)。
静かな「見守り合い」をつなぐ窓。そんなイメージです。

新しい生活の始まり、出会いの季節。

何かが変わっても、変わらなくても、皆さんにとってよい春の始まりとなりますように🌸


🌟今回ご一緒させていただいた、さくらゆきさんの作品もぜひ↓




ピリカさん、この度は素敵な時間を本当にありがとうございます☺
とっても光栄で、楽しすぎる期間でした✨

『ピリカ文庫』は、豊かな作品が勢ぞろいで、
「すごく面白い!」
「こんな景色の見方もあったんだ!」
「この構成は唸る!」
と、いつもワクワクや感動をいただいています。

🌟これまでの『ピリカ文庫』の作品は、こちらから↓


これからも益々の彩りを、広がりを、心から祈っております🌸

noteでのご縁に心から感謝♡

 みなとせ はる

(ジブリ映画の手を振ったり、振り返したりするシーンが大好きです)



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