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「なんくるないさー」、「私をお使いください」

「なんくるないさー」、「私をお使いください」

坂井洋介

 最初に、新型コロナウイルスによって苦しんでいる全ての方が少しでも心安らぎますように。医療に携わる方に感謝と応援の気持ちを送ります。


<この文章の内容>
最初:沖縄の「なんくるないさー」のもともとの意味
中間:正しいこととは、思いやり(慈悲)とその実行(五戒)
最後:自我が入らない慈悲の実行


私が知っている沖縄のことばに「なんくるないさー」というものがあります。
「なんとかなるさ」とか「大丈夫」などの意味だと考えていましたが、実は、この文には前につく言葉があることをネットで知りました。

この文の楽天性は私のように神経症ぎみの者には、本当にぴったりはまってくれて、気持ちが楽になることが多かったのです。だいたい暗く考えがち、心配しがちな人間なので、バランスとしてこういう楽天的なことばが救いに感じます。
この文以外にも「Take it easy.」や「ケ、セラセラ」のような言葉が好きで、何か心配事があるときには、心の中で繰り返し唱え、今思えばアファメーションのように使用していたこともありました。

 沖縄のことばの元々の言い方は、「まくとぅそーけーなんくるないさー」だったということです。
この「まくとぅそーけー」という言葉の意味は、「正しい行いをしていれば」というものだそうです。
前についていた部分を知って、ちょっと驚くとともに、私にとっての正しい行いとは何だろう?と考えるきっかけになりました。

私にとって正しい行いは、慈悲の心、あるいは思いやりを持てるように、少しでも努力すること、そしてその実行として五戒を守ろうとすることではないかと思いました。
五戒とは、殺さない、盗まない、嘘をつかない、不倫をしない、お酒を飲まない、ことです。仏教のことばです。
戒という言葉を使用すると、消極的に感じて、自分の行動をしばるルールのようにも思えますが、私は逆に積極的な意味も感じています。殺さない=生き物を健康に、長寿にしようとすること、とも考えられるのではないかと思うからです。同様に盗まないこと=与えること、のように考えれば積極的な行動の指標にもなると思います。
しかし、私が実際に行為として行うとき、慈悲や思いやりは、たぶん内面的にデリケートな問題をはらんでいる気がします。人のために良いことをしても、それが良いことであるがゆえに、自分を強者、与えられる側を弱者のように無意識でイメージしてしまうのです。どんな気持ちでなされても、助けられた人がよいなら、そこまで気にする必要はないと思っているのですが、ほんのちょっとひっかかる感じがあるのは、それが自分の願いからはずれているからかもしれません。

しばらく前、自分の中で聖歌ブームがありました。
マザーテレサが好きなので、マザーテレサの聖歌「私をお使いください」をYouTubeでよく聞いていました。この聖歌の歌詞の一番好きな部分は、~友を求める小さな人々を訪れるために. 私の足をお望みでしたら今日 私のこの足をお使い下さい~という祈りの中の「お望みでしたら今日 私のこの足をお使い下さい」という箇所です。
この善い行為は、私のする行為ではない、天というか、世界というか、計り知れない大きな、複雑に絡み合った意思が、私の足と言われるものを動かしているのだ。私の感情でさえ、それに従い動かされているのだ。そこには私の行為などというものは微塵もなく、ただ、全てを任せた結果として、動かされて私の足は動くのだ。そんなことを言われている感覚に襲われてしまうのです。(すいません、完全に誤解していると思います。)ただ、私の中に理想として、思いやりの実行は、そんな気持ちで行えたらいいな~という願いがあります。
私は、誰かのそんな気持ちに思いを向けるだけで感動して気分がよくなってしまうタチです。
気分がよくなると、なんだかんだ、きっと大丈夫だ、と根拠なく思えてしまうことがあります。

「まくとぅそーけーなんくるないさー」。
私は今この言葉の意味を頭の中で繰り返しています。

(2020年4月30日)